わたしの血はまことの飲み物


 ホテルの一室を突き破って現れたのは、永遠の悪魔。『それ』は自由と引き換えに契約を求めた。対価はひとつ、──デンジの死。ただそれだけを願う悪魔に、名前は舌を打つ。

「なんて卑怯な……」

 卑劣な手。悪魔らしくて、怒りが湧く。でもお陰で殺すのに躊躇しないで済む。悪魔は悪魔らしく、最低な存在でいるべきだ。

「デンジくん、」

「んあ?」

「キミはあの悪魔、知ってる?」

 悪魔はデンジ、と名指しした。だからやつは彼を知っているということになる。
 しかしデンジの返答は『否』。「知らねぇ」という声からは嘘の匂いがしない。ならば悪魔はどこでデンジのことを知ったのか。デンジのことを……それとも、彼の中にいるという悪魔のことを?
 狙いがチェンソーの悪魔だとしても、どこでその情報を得たのか。公安の中でも、限られた人間しか知らないはず。ホテル内でデンジの体質について話しただろうか?どうだったろう……思い出せない。
 でも悪魔の目的が最初からデンジにあったなら説明がつく。自分以外の者に彼を殺させるため、ホテル内に閉じ込めた。精神を疲弊させ、正常な思考ができないよう追い詰め、デンジを殺す以外道がないと思わせるため。……悪魔は、このような卑劣な手を使ったのだ。
 そしてそこまでするからには理由がある。自分ではデンジを殺せない、理由が。コウモリやヒルの悪魔にはなかった知性、知識。この悪魔は、何を知っている?
 デンジも名前と同じことを考えたらしい。「あの悪魔、俺のチェンソーにビビってやがる!」だから自分が悪魔になって、やつを自殺させるまで痛めつけてやる、と。

「でもデンジくん、キミ、チェンソーになると貧血になるんでしょう?」

 マキマから聞いた情報。チェンソーの悪魔になる時、同時にデンジの体も深い傷を負う。だから長時間の戦いには向かないはず。そもそも疲労の残る今の体で、どこまで戦えるのか。

「まぁ〜なんとかなるだろ」

「……もう、キミってホントわかんないなぁ」

 成功するかわからない。永遠の悪魔が『痛い』と言っているのが本当なのかさえ。やつを倒すより先に自分が倒れてしまうかもしれないのに、なのに彼はちっとも怯えない。
 きっと、コベニや荒井の反応が『普通』だ。デンジは『普通の人間』じゃない。名前の愛すべき、人間では。

「それならせめて、私の血を飲んで」

 そんな思考とは裏腹に、名前は微笑んでいた。理解の追いつかない、未知のいきもの。でも嫌いじゃない。むしろ、わくわくする。

「ほら、遠慮なく。……ね?」

 ──彼のことを知りたい。
 そう、思う。思うから、生きていてほしい。この先も生きていたい。だから名前は胸元を緩める。彼が血を吸いやすいように。それだけを考え、首筋を、肩を、曝した。

「な……っ」

「待て、」

「それとも、手首とかからの方が飲みやすいのかな」

 驚愕の声を洩らしたのは誰だろう。でも名前の行動を制止しようとしたのがアキなのはわかった。……彼は、優しいから。
 優しい彼は、自分さえ犠牲になればいいと思ってる。思ってるから、このままだと彼は刀を抜いてしまう。呪いの悪魔。彼は自身の寿命を捧げてでもみんなを守ろうとしてしまう。そんなのは嫌だ。ここにいる誰ひとり、欠けてほしくない。
 ──だから、デンジくんに賭けるしかない。

「……わかった」

 願いを込めて、名前はデンジを見つめる。煤けた目。鋭利な眼差しは獣のよう。食べられてしまいそうと錯覚するくらい、視線が熱い。燃えるような目で、デンジはごくりと喉を鳴らす。彼の意識は完全に名前の胸元に注がれていた。背後で蠢く永遠の悪魔など眼中にない。
 デンジは震える手で名前の肩を掴んだ。すう、と。音を立てて、吸い込む空気。唇が戦慄く。緊張と、それから期待……だろうか。
 こんなことで、と名前は内心で思う。こんなこと、治療行為の一環みたいなものだ。色気などない。少し、肌寒いなと思うだけで。
 なのにデンジの歯が首筋に立てられた時には体が震えた。痛みに?それとも──なんだろう、この感覚は。決して『嫌だ』という感情ではない。嫌だなんて思うはずがない。痛みなど、なおのこと。今さらだ。今さら──これは罪に当たるのだろうか、などと考えるなんて。
 体から力が抜けていく。ずるり、と座り込んでも、デンジは噛みついたまま。むしろ覆い被さるようにして、血を啜る。
 その頭に、名前は手を回す。行動は無意識のうち。日に焼けた髪をくしゃりと掻き抱いてしまったのだって、そう。
 名前が考えるのは、彼が罪に問われるのかというただ一点のみ。『だれも血を食べてはならない』、と旧約聖書は言っている。また別の教えでは『わたしの血を飲む者は、永遠の命を得る』とも。
 ならばこれは罪なのだろうか、それとも祝福なのだろうか。ぼんやりとした視界の中で、デンジが立ち上がる。口許から滴る鮮やかな赤。舌なめずりする彼の肌にさえ赤みが差している。健康的な、肌の色。少しは役に立てたのかな、と名前は安堵する。もしも彼が罪に問われるなら、その時はきっと私が赦しを与えよう。
 そう思っている名前の目の前で、デンジは悪魔の口へと飛び込んでいく。暗い暗い、夜の穴。地獄の釜はしかし、チェンソーの金切り声によって切り裂かれた。

「これが、チェンソー……」

 一見すると、魔人のようにも思える。異形の頭。首から生えるのは電動ノコギリ。不気味で、恐ろしくて、なのに不思議と目を奪われてしまう。血を浴びてぬらりと光る、その刃にさえ。
 神聖なもののように見えて、名前はハリストスの地獄への降下を思い浮かべた。地獄の征服。そして囚われた者の解放。彼は、その象徴だ。

「……っ、おいっ!」

 きっともう大丈夫。そう思ったせいか。目眩に、体が頽れる。

「……無茶をするね、名前ちゃんは」

 その身を抱き留めたのは姫野だった。「悪魔に血を吸わせるなんてさ」どうなるかもわからないのに、と呆れる彼女だが、その目は温かい。名前の背に回った手も、青ざめた頬を撫でる指先も。温かくて、優しい。

「だって、姫野ちゃんを泣かせたくなかったんだもの」

「……バカじゃないの」

「バカでいいよ、こんな世界だもん」

 添えられた指に、自身のそれを重ねる。見上げると、姫野は目を細めた。その目は潤んでいるけれど、でも涙の膜はまだ破られていない。錯乱しかけていたコベニも、パワーに止血されるアキも。みんな、無事だ。

「おいパワー、俺はもういい。名前を見てやってくれ」

「平気だよ、大丈夫。ちょっと目眩がしただけ。すぐ回復できるから、パワーちゃんはそのままでいて」

 アキはムッと眉を寄せた。リーダーは彼だ。彼の指示に従うのが筋だと名前も理解している。
 でもその気遣いは不要だ。だから断った。この程度のことでダメになるような、そんな柔な身体ではない。そうだったらよかったのに、とどれだけ願おうと、叶わないこともある。
 名前は「ワシをこき使うな」と憤慨するパワーに謝って、ゆっくり起き上がる。大丈夫、どこにも異常はない。まだ戦える。まだこの身は、デビルハンターのものだ。

「コベニちゃん、そのナイフ貸してくれる?」

「えっ?え?」

「後で返すから、ね?」

「は、はえ……」

「うん、ありがとう」

 コベニから半ば無理やり受け取ったナイフを、名前は己の手首に突き立てる。利き手ではない、その反対側の手。引き裂いて、「デンジくん!」上向いた彼の口へ、赤い雨を流し込む。

「私もあっち行ってくる。だから、姫野ちゃん……」

「うん、わかってるよ」

 姫野はぎこちない笑みを浮かべて、手を振る。「気をつけて……ね」何度目かわからない言葉に、「大丈夫だよ」とこれまた何度目かわからない言葉を返す。同じように、手を振って。
 それから名前は悪魔の腹の中へと飛び込んだ。