刺あるむちを蹴るは難し
視線をさ迷わすと、仄白い光の中で、黒髪が揺れた。
「あ、起きた?」
よかった、と唇に滲む微笑。薄日に煙るそれはいたく儚げで、なんだか泣きそうだ、と名前は思う。私じゃなくて、彼の方が。吉田くんの方が、泣き出しそうに見えた。
「酷い貧血だってさ。いったい何してたの?」
でもその予感はたちまちのうちに消えた。彼はすぐに笑みをいつもの形に変え、座り直す。足を組み替える、そんな些細な所作すらどこか優雅。
しかしその動作を見て、彼が今まで身を乗り出していたのだ、ということに名前は気づく。ベッドの脇、備えつけの椅子に、今の彼は大人しく座している。でもさっきまではもっと近くにその顔があった。……その、はずだ。だって、その黒い双眸に吸い込まれそうだって思ったから。
名前はベッドの中でぼんやりと想像する。眠る自分と、その顔を覗き込む彼を。不安に揺れる瞳を思い浮かべて、名前は内心で苦笑した。──なんて、都合のいい妄想。結局のところ、夢と現実のあわいは酷く曖昧だ。
「ちょっとね、輸血が必要だったの。それだけだよ」
答えながら、名前は起き上がる。真っ白な部屋。病院の、その個室。湿り気を帯びたこの空気は、あんまり好きじゃない。
だから「まだ寝てた方がいいよ」と押し留める手をやんわりと拒絶した。「もうすっかり元気だから」なんて。言ったものの、身体は素直。脱力し、指先にはまだ上手く力が入らない。
ままならない自分の身体を見下ろして、そこでようやく名前は自分があちこちに包帯を巻かれている現実と向き合った。
「こんなに怪我、してたっけ」
「してたんじゃないの。じゃなきゃ医者が無駄遣いしたってことになる」
「さすがにお医者さまを疑うことはできないかなぁ」
笑うと、切り傷が引き攣れた。顔を顰めたのはほぼ反射。耐えられない痛みではなかったけれど、そんなこと彼にはわかるはずもない。
ヒロフミは「無茶するなよ」と名前の肩を抱く。
「アンタは特別、強いってわけじゃないんだから」
でもたぶん、キミよりは長生きするよ。
そんな戯れを、名前は喉元で封じる。渇いた唇では、そんな冗談すら言えそうにない。そう考えると、自分はなんと弱い生き物なのだろう?この友人を喪う日が来るなど、想像するだけで胸が痛んだ。
「……名前?」
「……うん、」
気遣わしげな声に、気の利いた言葉を返せない。永遠が、たまらなく恐ろしく思えた。
かの悪魔が倒された後でよかった。でなければきっと名前は負けていただろう。永遠。その美しいはずの響きに、今は芯が冷えた。身体も、……心も。
だから、彼の温もりが心地いい。彼の人間にしては低い体温でも、温かなものがじんわりと広がる。……心音に、途方もない安堵を覚える。
他の誰でも同じ安心感を与えてくれたかもしれない。他の誰でも、よかったのかもしれない。
でも今は彼がいい。今目の前にいる、飄々とした男。──彼でよかったと、そう思う。
「……まいったな」
「ん?」
「俺、こういうの得意じゃないんだよね」
目を上げると、現れたのは言葉通りの顔。眉は下がり、名前の肩を抱く掌は固い。そして唇が形作るのは苦い笑み。
──迷惑、だった?
瞬時に浮かんだ思いは、しかし他ならぬ彼の手によって否定される。腰に回されていた手は上へ。薄い病院着をなぞり、首筋へと登っていく。
ぐるりと首を一周した包帯。デンジに噛ませたことでできた傷を、しなやかな指先が撫でる。……慈しむような、手つきで。
少し、擽ったい。でも嫌な感覚はない。戯れの、手。名前は首を竦める。「なんだか、変な感じ」笑い混じりに言うと、彼も目許を緩ませる。
「こんなとこ怪我するなんて、油断しすぎじゃない?一歩間違えたら首、落ちてたよ」
「ちょっと、グロテスクな言い方しないでよ」
別に、死ぬような怪我じゃない。そもそも自分から進んでこの身を差し出したのだ。断じて、油断などではない。その点だけは否定しなければ、名前のささやかな矜持に関わってくる。
なので名前は事情を説明した。もちろん、デンジが特殊な体なのは隠して。悪魔との戦いの中、どうしても血を分け与える必要があったのだ、と。
「だからね、この傷は仲間の男の子がつけたものなの。私が油断してたとか、そういうんじゃないから。そのへん、よく覚えていてほしいんだけど」
しかし返事はない。「吉田くん?」名前が怪訝に眉を寄せても、応じるのは彼の掌だけ。
肩を抱く力がいっそう強くなる。包帯を撫でる指が止まる。……目許に、深い影が落ちる。
「……ベッドの上で他の男の話をするなんて、ちょっと無粋なんじゃない?」
彼は笑っている。今も、先刻も。変わらず笑っているのに、その表情に微かな不安が生じるのはどうしてだろう?
「無粋って」名前は口を尖らす。「キミが聞いてきたんじゃない」なのに答えたら答えたで非難されるなんて!
「それならキミのことを聞かせてよ」
「俺の?」
「そうだよ、キミの話。よく考えたら私、キミのこと全然知らないんだもん」
ならば話題転換を。そう考えた名前が思い出したのは、森野ホテルでの一幕。映画の話をしていて、彼のことを連想した。
でもよくよく考えてみればそれだけだった。それしか、名前は知らない。彼が普段何をしているのか、学校ではどのように過ごしているのか、それ以外の休日では?好きな食べ物さえ、知らないのだ。
「教えて」とせがむと、僅かに見開かれていた目がふ、と緩む。
「なに?そんなに興味あるの?俺のこと」
「あるよ、そりゃあ。だって……」
悪戯な笑みに、名前は口ごもる。続きが思い浮かばなかったわけではない。言葉を探したのでも。
言いかけた言葉、それ自体はひどく単純なものだ。『キミは、友達だから』ただそれだけ。その一言が、言い出せない。仄かな羞恥。ただ、それだけのために。
「だって?」
知ってか知らずか。いや、恐らくはわかった上でヒロフミは問いを重ねる。言葉の続きを求める。深遠なる瞳に、囚われる。
「……もうっ、なんでもいいでしょ!」
頬に駆け上る熱を感じ取って、名前はそっぽを向く。
危なかった。危うく、決定的な言葉を引き出されてしまうところだった。彼に近づきすぎるのは、まだ、抵抗がある。そこまでの踏ん切りはつかない。
民間人の彼。人間の、男の子。だから、と内心で言い聞かせる。だから、近づきすぎてはダメ。今のまま、ほどよい友人関係でとどめておかなければ。
しかしそんな思考とは裏腹に、彼の手を振りほどくことができない。彼をもっと知りたいと、思わずにはいられない。
「いいから、キミのこと教えてよ。学校ではどんなことしてるの?」
「どんな、って……別に普通だよ。出席日数もギリギリだし、帰宅部だし」
「キタクブ?キタクブってなに?」
「そこから?」
ヒロフミは心底おかしいというように目を細める。が、名前としてはそんな反応をされる理由がわからない。
「だって私、学校なんて行ったことないもん」
だから、固有名詞など出されてもさっぱりなのだ。何が常識なのかすら見当もつかない。そんな自分を、恥ずかしく思う。……学校に通った経験がないのを引け目に感じるなど、今までなかったのに。
なのに今は、彼の前にいることすら居たたまれない。心地いいと思ったはずの温もりさえ、肌に突き刺さる。
……距離を、取らなくては。
身を捩ろうとした名前を、しかし彼は反対に強く抱き締める。人をバカにするのではない、純粋な笑みで。
「じゃあ今度忍び込んでみる?夜とか、……まぁ、昼間でもバレないと思うけど」
「絶対ムリ。挙動不審でバレるって」
「そこは頑張れよ」
くすくすと笑いながら、それでも彼は教えてくれる。名前の知らない、普通の学生としての『吉田ヒロフミ』を。部活動には所属していないこと、試験はいつも一夜漬けで臨んでいること、深い付き合いの友人はいないこと、……
「だから名前には感謝してる。俺、結構寂しい人間だからね」
だからこんなに優しいのか。首筋を擽る吐息に、名前は納得する。同時に、自分が彼に執着する理由も。
「私もだよ」名前は笑って、彼の背中を叩いた。私も、おんなじ。吉田くんがいてくれてよかった。
「……ありがと、ね」
今までは公安以外の世界を知らなかった。公安のデビルハンターだけで世界が完結していた。それが悪いことだとは今でも思わない。普通の人間に、深く関わるつもりがないのも変わらない。
でもたぶん、ずっと寂しかった。本当はもっと、普通の生活をしてみたかった。誰かと映画を観て、感想を言い合って、休日を過ごしてみたかった。悪魔のことなんか、忘れて。──普通の、人間みたいに。
彼は何も言わなかった。何も言わず、名前の背中を撫でた。
彼はいつも深く踏み込むことをしない。察して、ほどよい距離を保ってくれる。それが、どれほどありがたいことか。
「ねぇ、そういえば誰から聞いたの?私が病院にいるって」
「岸辺さんからだよ。アンタが倒れたって、知らせてくれた」
「ふうん?」
ふと浮かんだ疑問を口にすると、彼はあっさり答えた。
答えてくれたけど、でもどうして岸辺隊長は吉田くんに連絡をしたんだろう?名前にヒロフミを紹介してくれたのは岸辺だったが、その後のことを彼には伝えていない。だから友人関係になったことも知らないはずだ。なのに、どうして?
ヒロフミは「さあ?」と首を傾げる。岸辺に似た、感情の読めない目で。「親心なんじゃない?」と笑う彼は、やっぱりどこか掴み所がない。でもそんな彼が好ましいと思う。……名前で呼ぶには、まだ躊躇いが残るけれど。