御使は救いを受け継ぐべき人々に奉仕する
喫茶店の前を通りすぎると、開け放たれた扉から空腹を誘う匂いが漂ってきた。甘いシロップと、コーヒーの香ばしい匂い。大きなガラス窓からは賑わう女性客の姿を見ることができた。
「ねぇ天使くん、そろそろ小腹が空いてきた頃合いじゃない?」
名前はのんびりと歩いていた少年を振り返る。本日のパートナー。純白の羽を背負った彼は、天使の悪魔である。ちなみに名前はない。……不便じゃないのだろうか?名前は常々思っているが、少年の方はといえば気にした様子もなく。今もぼんやりとした目を歪め、「僕は早く帰りたいんだけど」と言う。
「付き合ってくれたら奢ってあげるよ」
「別にお金に困ってるわけじゃないし、お腹も空いてないし」
「えー……」
天使は神の使いではあるけれど、施しを与えてくれる存在ではない、というわけだ。
「天使くんはつれないなぁ」名前は未練がましくメニューボードを眺める。サンドイッチ、パンケーキ、パスタ……色々あるけど、でもやっぱりここはドルチェかな。パトロールで歩き疲れた今は甘いものが食べたくなる。
帰りにコンビニでも行こう。そう決めた名前の横、天使の悪魔は溜め息をひとつ。
「……仕方ないな」
しかし、哀れに思ってか。少年は「付き合ってあげるよ」と肩を竦める。だが面倒くさそうな顔を隠しもしない。やれやれといった風で、店の扉をくぐる。……名前を置き去りにして。
「素直じゃないねぇ」
でもそれが彼なりの優しさだと知っている。知っているから、名前は微笑んだ。
人の姿に近い悪魔ほど、人間に好意的だというが……、なるほど、確かに。もう少し素直だったら、きっと他のデビルハンターとも上手くやれたろう。
……残念ながら、それにはまだまだ時間がかかりそうだが。
コーヒー豆を挽く音、皿やスプーンのぶつかる音。そして人々の笑う声……その合間を縫って、席に着く。店員は悪魔の姿に一瞬の戸惑いを見せるが、天使の悪魔は気にしない。平然と座り、メニュー表を捲る。
その様子を見て、店員の方も彼が安全な存在だと理解したらしい。スーツ姿だというのも功を奏した。「ごゆっくり」と頭を下げ、店員は厨房に戻っていく。制服とは便利なものだ。
しかし見慣れた名前としては喫茶店の制服の方に憧れる。『やっぱり喫茶店でのアルバイトっていいなぁ』と。味見とか、させてもらえるのだろうか。それだったらデビルハンターよりずっと楽しい仕事だ。羨ましい。
「ねぇ、何にするの?」
意外と真剣に考えていたらしい。天使の悪魔はようやっと顔を上げ、名前にもメニュー表を回してくれる。
が、見なくても平気だ。最初から何を頼むかは決めていた。
「私はティラミスにするよ。女の子は流行りに乗っておかないとね」
「へぇ」
薄い反応。簡単な相槌。女の子、という点にも突っ込みを入れず、天使の悪魔はまたメニュー表に目を落とす。
そんなに悩むほどのことだろうか?決めかねているなら未来への楽しみにとっておけばいいのに。
けれど厭世家の彼にとってはこの世に未練など残しておきたくないのかもしれない。天使の悪魔は自分が死ぬ時のことばかり考えている。
「悩むことないのに。どうせ私の財布なんだし、好きなの頼みなよ」
「……それならこの一番高いパンケーキにしようかな」
天使の悪魔が指差した先に、名前も目を向ける。ベリーにバナナ、アイスにチョコレート……ずいぶん具沢山のパンケーキだ。可愛い見た目に反して、お値段は可愛くないのが憎らしい。
名前はじとりと向かいの少年を睨む。「お腹空いてないって言ったのに」天使の悪魔は嘘つきだ。嘘をついてはいけないと、聖書にも書いてあるのに。
なのに彼は堂々と、「気が変わったんだよ」と応じてくる。
「キミと喋るとお腹空くんだ」
「何それ、燃費悪いね」
「……ほんと、疲れる」
天使の悪魔は深い息をついて、椅子に凭れる。気だるげな表情。いつものことといえばいつものことだが、パトロールの時は一層顕著だ。
名前は店員を呼んで、注文を伝える。そうしてから、目の前の彼のことを考えた。
きっと彼は好きで公安に入ったのではないのだろう。やむにやまれぬ事情が彼にもあるのだ。
その過去に、傷口に、触れるつもりはない。
「もっと楽しめばいいのに。束の間の自由を、さ」
だのに名前の口は勝手にお節介を焼いてしまう。
姿かたちは似たようなものでも、名前と彼は違う。目に見えぬ心という部分が悪魔にだってあるのだ。悪魔それぞれに感情があって、過去がある。
……そう、わかっているのに。
「……自由なんてどこにあるんだよ」
彼は吐き捨てるように言う。瞳は少年らしからぬ諦めの色。まるで小屋の中の家畜だ。悲しみも喜びも、そこにはない。
「僕はデビルハンターなんかやりたくなかった。のんびり、気ままに……生きていければそれでよかったのに」
……それは、悪魔の身では難しいことではなかろうか?
地獄ではどうだったか知らないが、この世界で悪魔は狩られる立場にある。主は人の子に寄り添うもので、悪魔には微笑まない。悪魔の願いは、叶わない。
「……無欲なんだか、強欲なんだか。流れに身を任せれば楽だろうに」
「流されてるよ。流されてるからこうして仕方なくパンケーキなんか食べることになってるんだろ」
「しょうがないでしょ、ひとりは寂しいんだから」
彼はそれには答えない。否定も、肯定も。二人の間には沈黙だけが横たわっていた。
名前は首を巡らした。大きな窓から差し込む、和やかな春の陽。輝かしき黄金の午後。その中を生きる人々の、笑顔の無垢なること。
込み上げる愛おしさは本能的なものだろうか。名前は何とはなしに思う。この感情は、与えられた役割のために生まれたものか。それとも本当にこの心から生じたものか。この愛おしさも憧れも、……ひとりが寂しいという、今の言葉さえ。
この唇が紡ぐ言葉のことごとく、なんと空々しいことか!
思えば、途端にひどく空虚なものに思えてくる。となれば選択肢は沈黙以外にない。何事かを言いかけても、躊躇いが先んじた。『流れに身を任せれば楽だろうに』と言ったのは自分自身であったはずなのに。
「お待たせいたしました」
限定的な静寂を破ったのは店員の事務的な声だった。店員に悪魔の悩みはわからない。パンケーキとティラミスをテーブルに置いて、去っていく。名前はケーキフォークを手に取った。
「ねぇ、ティラミスの意味って知ってる?」
「さぁ、興味ないね」
カチャカチャとフォークを鳴らして、ティラミスを口に運ぶ。……うん、美味しい。舌の上でとろけるようだ。知らないお店だったけど、選んで正解だった。
一口。嚥下して、正面に目をやる。山と積まれたパンケーキ。トッピングが多いせいか、食べるのに苦心している様子だ。
そんな彼の返事は無視して、名前は口を開く。
「『私を引っ張りあげて』、『私を元気づけて』……って意味なんだって」
豆知識を披露しても、天使の悪魔の返事は「ふーん」の一言。つまらなそうな顔でパンケーを頬張る。
「悪いけど、僕に救いを求めないでね。他の人をあたってくれよ」
「つれないなぁ。どうせ死ぬならキミに殺されたいのに」
「僕を安楽死に使うなよ」
美味しいものを食べているはずなのに彼ときたら酷い顰めっ面。名前が「冗談だよ」と笑っても受け流してくれない。
どうせ死ぬなら──なんて。そう簡単に命を手放せる環境ではないと、彼も知っているだろうに。天使の悪魔は本気で名前を殺す日のことを想像する。
「……あーあ、嫌な話するから食欲なくなっちゃったよ」
「って、全然食べてないじゃん」
……悪いことをしちゃったかな。
フォークを投げ出した彼に、名前は内心で反省する。
無神経だった。悪魔にだって、心はある。特に彼は繊細な部類だ。能力が能力だからこそ、思い悩むこともあったろう。
名前には、推し量ることしかできない。
「もー、しょうがないなぁ。貸して、私が責任持って食べるから」
「ま、それが当然だよね」
「はいはい、ごめんね、私が悪かったよ」
それでもなお彼に構ってしまうのは、──何を隠そう、彼の顔立ちが好みであるからというのも一因に違いない。