すべてのものは塵にかえる


 思えばその日は朝からツイていなかった。
 目覚まし時計は電池切れを起こしていたし、慌てて家を出れば渋滞に嵌まった。気を抜いていたつもりはないのに、仕事中には小さなミスから血飛沫を浴び、仲間には呆れられた。お昼に入った店では注文とは違う商品が運ばれてきたし、レジでは財布の中身をぶちまけた。
 それぞれは大した事件ではないが、これが続くと自然と気分は落ち込むもの。──そして極めつけはこれだ。

「しまった、傘忘れた……」

 鈍色の空を見上げ、名前は溜め息をつく。場所は公安デビルハンターの本部。討伐した悪魔の報告をしにやって来て、帰ろうと思った矢先にこれである。
 大粒の雨。それは箭(や)の如く降り注ぐ。 茫々たる薄墨色の世界を、幾条の銀箭が斜めに走るなか──そんな、草枕の一節が浮かぶほど。雨脚の強さに、名前は途方に暮れる。
 いっそずぶ濡れになるのを覚悟で、車まで走ろうか──?

「……何してるんだ?」

 迷っていると、背後から声がかかる。「アキくん、」冴え冴えとした瞳の玲瓏たること!この陰鬱なる空とは大違いだ。鬱屈とした気持ちをひととき忘れ、思わず名前は破顔する。

「傘、忘れちゃってさ」

「天気予報見てないんですか。六時以降の降水確率、八十%超えてましたよ」

「いやぁ〜、あはは……。面目ない……」

 そんなこと言ってたような、聞いていないような。
 ともかくそれは名前の記憶にはない情報だった。そして几帳面な性格でもないので、常日頃から折り畳み傘を用意している……などということもない。
 止むのを待つか、諦めて走るか、どちらかしか名前に道はないのだ。

「まぁ、もう少し様子見てみるよ。それでもダメなら濡れ鼠決定だね」

 それもたまには……うん、悪くないかな。そう言い聞かせ、名前は自分を納得させる。
 そもそも傘を忘れたのが悪いのだ。この程度で不幸ぶるのが間違ってるし、世の中にはもっとままならないことがある。
 ……どうしようもない、運命だって。
 なんて、自嘲ぎみに笑ってみせるけれど。

「……アキくん?」

 返事がない。不思議に思い、隣に立つ青年を見上げる。
 物憂げな顔。遠く、馳せられた目の向かう先はどこだろう?いつもはわかりやすい彼の感情が、掴めない。ガラス戸を打つ雨音のせいだろうか。頭を揺さぶられる感覚がある。

「……俺も、忘れた」

「え、アキくんも?そりゃ珍しいねぇ」

 驚きに、名前は声を上げる。
 早川アキといえば真面目を絵に描いたような人間だ。天気予報を見忘れることもないだろうし、傘を常備していないなんてこともないはず。とはいっても弘法にも筆の誤りという言葉もあるくらいだ、時には失敗もする。これくらい、些細なことだ。……名前の今日の一日に比べたら。
 しかし彼にとっては大ごとだったのかもしれない。「色々、バタバタしてたので」と返す言葉は言い訳がましく、早口。黒髪の間から覗く膚は仄かに赤らんでいた。
 でもそれを指摘するのは野暮というものだろう。名前は静かに笑って、「そうだね」とだけ答える。
 このところ、色々なことが起こりすぎた。──私にも、アキくんにも。

「早川家はどう、最近?パワーちゃんはお風呂入るようになった?」

 『色々なこと』のひとつを言い当てると、アキは眉根を寄せた。

「いや、まだ猫の方が素直ですね」

「ああ〜……うん、わかるよ。お疲れさま」

 パワーは聞き分けのない子ども同然だ。彼の苦労が目に浮かぶ。「はぁ……」と吐き出される深い溜め息に、名前は彼の肩を叩く。

「今度またお邪魔するよ。マキマさんの名前出せば言うこと聞くのは確実だし、最悪、また私がお風呂入れるから」

「お願いします。あとできたら掃除も……アイツ、また最近サボりがちで」

「オッケー、任せて」

 トイレの臭いも気になるし、風呂場の排水口の詰まりも……などと、挙げ連ねるアキの目は虚ろ。でも聞き分けのない魔人に掃除をさせようと思えるだけすごいことだ。並みのデビルハンターではできることじゃない。
 この点はデンジという前例を知っているからこそだろうか。パワーに比べたら、彼の方がずっと同居人としては優れている。最近は箸の使い方も慣れてきたようだし、先日会った時は『洗濯や皿洗いもできるようになった』、と誇らしげにしていた。体の作りが人と違うだけで、根は可愛らしくいい子だ。
 雨に煙る街並みを眺めて、名前は思う。

 デンジくんもパワーちゃんも──アキくんも含めて、私にとってはみんな可愛い子どものようなもの。

「……聞きましたよ、新人のこと。今日また一人、亡くなったって」

 だから、この喪失感に慣れることは一生ないのだろう。

「……うん、」

 ともすれば雨音に紛れかねない囁きに、名前は小さな頷きでもって返す。消極的な肯定。──否定できたら、どんなによかったか。名前は目を閉じる。
 うつし世は夢。この世界に永遠はない。この体が保管する、記憶さえ。やがては薄れて消えていくのだ。名前も、笑顔も、声も。──忘れたくないと、希おうとも。
 そうわかっていてもなお諦めきれなくて、名前は記憶を辿った。辿りながら、思いつくまま、口を開いた。

「伏さんのとこの子で……結構、見所があったんだけどね。優しくて、真面目で、私なんかのことも『先輩』って慕ってくれて。でも……やっぱり、難しいね」

 雨が降っていた。物悲しい旋律。やるせなさの限り。侘しさが、心の内にまで染み渡る。冷たい雨粒。ひび割れた心が軋む。無理やり持ち上げた口角の引き攣れが、酷く痛む。

「……そうですね」

 雨が降っていた。降りしきり、降り積もり、囚われる。音。音の波。奔流に、呑み込まれる。
 隣にある気配すらもおぼろ。どこか遠く、霧がかる。気配も、声も、己の意識さえも。「そう考えるとアキくんは立派だよ」と笑う自分すら、薄い膜がかかったかのようだった。

「昔は暗くて死相が出てるってヒヤヒヤしたもんだけどさ、いつの間にかチームを率いるくらいになって……いやぁ、大きくなったねぇ」

「…………」

 雨が降っていた。ざあ、っと一際大きな水音が響く。雲は嘶き、蒼ざめた馬を想起させる。
 嫌な感覚だ。じっとりと汗ばむ肌に嫌悪を催す。暗く湿った空気。耳障りな水の音。重く垂れ込む空。信仰を忘れた心。何もかもがいやな──厭な、感覚だ。

「……雨、やまないね」

 呟くと、立ち尽くしていたはずの影が揺れる。

「……名前、」

「ん?な、に……?」

 笑顔で呼び掛けに応じる。……その、つもりだった。

「走るぞ」

 けれど、言葉は宙に落ち、名前の体は駆け出していた。嵐の中、吹き荒ぶ風も身を切る冷たさも感じる暇なく。名前はただ呆然と、握られた手を見つめていた。しなやかな指先が血の気を失っているのを、しとどに濡れそぼっているのを、眺めていることしかできなかった。

 ──アキくんは、何を考えているんだろう。

 ビルを飛び出して、向かった先は駐車場。整然と並ぶ車、その合間を抜けていく。迷いはない。そのうちの一台のドアを開けるのも、ずぶ濡れの名前を助手席に押し込めるのも。彼は何食わぬ顔で運転席に座り、けれどエンジンをかけることはしなかった。
 その代わりに彼がとった行動といえばまったく奇妙なもの。おもむろにジャケットを脱いだかと思えば、それを名前の頭から被せた。
 「……アキくん?」これはいったい、どういうイジメだろう。滴り落ちる雨粒に眉を寄せ、名前は困惑を滲ませる。彼は何を望んでいるのだろう。──私なんかに、何を願うの?
 問いかけに、彼は視線のひとつすら寄越さない。睨むように前方を見据え、ゆっくりと口を開く。

「……これなら、誰にもわからないだろ」

 その薄い唇から紡がれた答えに、名前は目を見開いた。

「……だからってさ、他にやり方だってあったろうに」

 声が震えたのは寒さのせいじゃない。嘆く言葉は彼を責めるためのものじゃない。──頬を伝うのだって、涙なんかじゃない。

「ほんと、さぁ……キミって不器用だねぇ……」

「そうかもな」

「そうだよ、ぜったい、そう」

 泣いてなんかない。悲しくなんて、思っているはずがない。これは雨だ。雨があんまりにも酷いから、だから溢れるのを止められないでいる。ただそれだけのこと。
 ……そんな言い訳を、彼は言外に肯定する。名前に目を向けることなく、彼は静かに相槌を打つ。抱き締めることも慰めることもしないけれど、彼は静寂を守ってくれた。名前の嘘を、真実にしてくれた。
 それで、じゅうぶん。じゅうぶんだった。お陰で名前は祝福することができた。死は忌むべきものではないと、言い聞かせることができた。
 ……そうでなければ、きっと、信仰心を喪っていただろう。

「なんかお腹空いてきちゃったなぁ」

「……寄ってきますか?うちは今晩、サーモンのレモン蒸しにする予定です」

「え?いいの?」

「ちょうど一尾余ってるんで。ついでに掃除もしてってください」

「ついでというか、キミはそっちが本命でしょ」

 名前は目許を拭って、笑った。しかし、対する彼は相変わらずの冷めた顔。でも名前が肩の力を抜くと、ようやく車を発進させた。……待っていて、くれたのだろう。
 名前は小さく「ありがとう」と呟いた。ありがとう、黙って、そばにいてくれて。それが今はどれだけの支えになったことか。きっと、彼は知らない。知られないままでいいと、名前は思う。

「──『魂は栄光と共に天にある。この世の生は苦しみに満ちており、我々は生まれた時から原罪を負う』」

 だが神は限りない叡智で我々をお導きくださる。たとえお姿は見えなくとも神は我々の心の奥にいつもおられるのだ──

 目を閉じ、祈りの聖句を唱える。どうか、安らかな眠りを。もう二度と、雨にも嵐にも煩わされないように。ただそれだけを願った。