人は二人の主に兼ね仕うること能わず


 リンチ特集、という文字が目に入って、名前は思わず足を止める。
 デヴィッド・リンチ──アメリカの、カルト的人気を誇る映画監督。その名の刻まれたモノクロのポスターには、見慣れた作品名も一緒に並んでいる。『イレイザーヘッド』『エレファント・マン』『ブルーベルベット』『ワイルド・アット・ハート』……『砂の惑星』が抜けているのが気になるが、これは一般的な評価のせいだろうか。
 そういえばもうすぐ新作が公開されるんだった。タイトルは確か……そう、『ロスト・ハイウェイ』。だから特集を組んで上映を行っているのだろう。得心がいく。
 と同時に、名前は面映ゆい気持ちになる。最近、映画館を見かけるといつもこうだ。いつも、ある友人のことを思い浮かべてしまう。──吉田ヒロフミ。掴み所のない、彼のことを。

『一番観やすいのっていったら砂の惑星だけど、でも彼らしさには欠けるよね』

 ──いつだったかに聞いた、彼の言葉が耳許でよみがえる。
 『次点でブルーベルベットかな』まぁオレはどっちも好きだけどね──

「名前、置いてくぞ」

 気だるげな声。響いたそれは、十メートルほど先から。行き交う通行人の中、黒いジャケットが翻る。
 呼び掛けたのは、頬に残る縫合の痕が特徴的な男。最強のデビルハンターとして名高い岸辺は、「何やってるんだ」と淡々とした調子で問うてくる。
 が、さしたる興味はないのだろう。声音から関心の低さが窺い知れるというものだ。それでも名前は「すみません」と頭を下げてから、彼の元へ駆け寄った。

「ちょっと、気になるポスターがあって」

「気になる?……ああ、映画か」

 ビルの中の小劇場を視界に入れて、岸辺は僅かに顎を引く。
 「そういやマキマも映画好きだったな」でも名前が連想したのはヒロフミだった。彼女じゃない。『誘ってね』と言ってくれた彼女ではなく、彼のことを考えてしまった。……どうしてだろう?
 でもその先はわからなかった。考えることを放棄して、名前は「そうですね」と相槌だけを打った。
 友人を想うのと、聖なる人を想うのとではハードルが違う。それに名前の恋慕うひとは色々と多忙なのだ。そう簡単に誘えるはずがない。友人のように、気安い関係は築けない。……できるわけが、ない。

「でも今回は吉田くんを誘おうと思ってます。彼もほら、ああいうのが好きだから」

 岸辺の隣を歩きながら、名前は口を開く。
 けれど言いながら考えたのは『今さらだろうか』ということ。そもそも名前にヒロフミを紹介したのは岸辺だ。ずいぶん親しいようだった。だから彼が映画好きだということも、どういった種類の映画を好むのかも、岸辺は知っているだろう。今さら、名前が教えなくたって。
 しかし岸辺は「そうなのか」と返してきた。そうなのか、──まるで、初めて聞いたみたいに。

「仲良くしてるんだな」

「まぁ……」

 岸辺の物言いは端的が過ぎる。直線的で、避けようがない。名前は曖昧に笑み、指先を遊ばせた。まぁ、そこそこ。そこそこ、仲良くしてますよ。──そう、あっけらかんと言えたらよかった。
 なのに物慣れない名前の口は願いを聞き届けてはくれない。もごもごと言葉を喉奥で詰まらせ、名前はふいと視線を逃がす。
 ……友だちと認めるのが、こんなに気恥ずかしいものだとは知らなかった。

「……そうか」

 だが彼がそれに触れることはない。揶揄うこともなければ、呆れることもなく、ただ一言。ぽつりと零れたそれは、なんだか不思議な音をしていた。
 溜め息のような、或いは安堵のそれか。奇妙な、そして不可解な響きに名前は目を瞬かせる。「岸辺隊長?」凝視するが、彼は意に介さない。遠い目をして、名前を見下ろしている。掴めない、表情だ。そういえば、彼らの目は似たところがある。
 感情の見えない目。でもそれだけじゃない。そんな、一部分の印象だけではなく──全体的な空気、というものだろうか。纏う匂いや気配といった曖昧なものがどことなく似ているように思われた。
 そして彼の方も──岸辺もまた、名前を通して誰かをみていた。そんな気がした。そしてその誰かは、もう彼の側にはいないのだろうということも。
 懐かしむように細められた目から感じ取って、名前は寂しさを覚えた。目の前の彼は、いつの日かの私かもしれない。──そんなことを、思った。

「まぁ、なんだ……優しくしてやってくれ」

「冷たくしたつもりはないですけど……」

「せめて殴らないでいてやれ」

「いやだから……そもそも私、そういうキャラじゃないので」

 誰と重ねようと好きにしたらいい。いいけど、でもさすがにこれは聞き流せない。
 名前は眉を寄せる。暴力なんて嫌いだ。争いなんてなくなればいいと思う。手をあげたことだって、仕事以外ではないはずだ。
 いったい、どんなひとを思い浮かべていたのやら。名前の抗議に、岸辺は暫し口を噤む。

「……そうだったな」

 やれやれと頭を掻く姿はいつもの彼だ。最強のデビルハンター。表情ひとつ変えずに悪魔を狩る男。無表情からは温もりが感じられない。
 しかし「これが親心ってやつか」という呟きにはしみじみとした響きがあった。最強のデビルハンターにはあまりに相応しくない。珍しい反応に、名前は思わず吹き出してしまった。



 そんなことがあったせいだろうか。

「あれ、名前ちゃんポケベルなんて持ってたんだ」

 そんな、何てことない指摘にさえ、大袈裟に肩を揺らしてしまう。

「マキマさん、」

「知らなかったな。教えてくれればよかったのに」

「それは、えっと……」

 小首を傾げる仕草は童女のそれ。愛らしくさえあるのに、彼女がやるとどこか含みがある。
 頬に落ちる影すらも神秘的。だから、何らかの意味があるのではないかと勘ぐってしまう。

 マキマさんは、何を言おうとしているのだろう──?

 名前は視線をさ迷わせる。
 公安デビルハンターの本部。討伐した悪魔の報告に訪れた、その帰り。エントランスまで来たところで、懐に入れたポケベルがメッセージの受信を報せてきた。
 誰からのものか、なんてのは見なくてもわかる。名前のベル友は今のところ一人しかいない。だからすぐに返事をしたくて、取り出した。
 そこで、マキマに声をかけられたのだ。

「実は先日、買ったばかりで……」

 戸惑いを抑えて、名前は答える。
 なんとも言い訳がましい台詞だ。そう考え、内心で首を振る。
 でもそれならどうするのが正解だったのだろう?こんなことまで報告すべきだったのか。多忙なはずのこのひとに?
 ……頭を捻っても、答えは出ない。

「ふうん、そっか」

 麗しの君は笑む。優雅に、可憐に。気高い顔をゆったりと綻ばせ、微笑む。

「相手は誰かな」

 歌うように、言葉を紡ぐ。その音色は天使イズラフェルの如く。

「もしかして──吉田くん?」

 審判を報せる、ラッパを吹く。

「そうです、けど」

 奇妙な緊張感を味わいながら、名前は肯定する。嘘はつけないし、その理由もない──はずだ。何だろう、この感覚は。
 そういえば、前にもこんなことがあった。あれは──そう、初めて彼と映画を観に行った次の日のことだ。
 あの時はそこまで親しくなかったから彼を友人と呼ぶことはなかった。『仲良かったなんて知らなかったな』そう言った彼女に、『まだ友だちってほどじゃない』と答えた。嘘じゃない。あの時は本当にそう思っていた。まさかここまで自分の日常に侵食してくるとは思ってもみなかったのだ。

「その、最近よくしてもらってて。このポケベルも勧められて、買ってみたんです。使い方はまだイマイチわかっていないんですけどね」

 だから、疚しく思う必要などない。
 ──そう言い聞かせている時点で、後ろ暗さを感じているということなのだろう。
 名前は「あはは」と笑う。笑うけれど、その音は空虚。乾き、やがて静かなエントランスに吸い込まれていく。そしてあとに残るのは、沈黙。

「そうなんだ」

 名前はごくりと喉を鳴らす。それ以外は指先ひとつ動かせない。魅入られたように、──呪われたように。冷えた眼差しに囚われ、呑まれる。
 そんな名前に、マキマは目を細める。

「それなら、私も買ってみようかな」

「え?」

「ポケベル。私とも試してみない?それとも……私じゃ、いや?」

 冷えた眼差し──なんて、とんでもない!悲しげに翳る瞳はいっそいじらしいまで。名前は反射的に「まさか!」と声を上げる。
 マキマさんに不満なんてあるはずがない。マキマさんからの誘いだったらなんでも歓迎だ。
 マキマさんなら──マキマさんの望むことなら──なんだって。

「嬉しいです!そしたらどこにいてもマキマさんにメッセージが送れるんですね!」

「そうだね、そうなるね」

 「私が連絡したら、すぐに返事しなきゃダメだよ?」そう続けて、彼女は悪戯っぽく片目を瞑る。そうすると無邪気な子供のよう。
 彼女には様々な顔がある。だから余計に目が離せない。──だから余計に、惹かれてしまう。
 名前は元気よく「はい!」と返事した。彼女の愛犬でいるのはとても心地のいいものだ。

「じゃあ早速見に行こう」

「今からですか?」

「そうだよ?何か用事あった?」

「いえ……」

 握り締めたままのポケベルには、『今どこ?』というメッセージだけが浮かんでいる。
 ポケベルを持つようになってから、差出人の青年が意外と筆まめな質だと知った。彼は授業のあとや昼休み、学校が終わってから──その都度に、短い文章を送ってくる。それは『おはよう』の挨拶から始まって、内容は『授業がつまらない』だとか、『眠い』だとか、そういった報告が殆どだ。
 だからたぶん、このメッセージにも深い意味はないはず。

「わかりました。返信だけしてくるので、少し待っててください」

「うん、なるたけ急いでね」

「了解です!」

 命令通り、公衆電話に向かって名前は駆け出す。
 ──それにしてもまさかマキマさんと『ベル友』になるとは。
 ヒロフミへのメッセージを打ち込みながら、名前は頬を緩ませる。
 この予想外の幸運も、彼のお陰だ。彼のお陰で得られたもの、学んだこと、それらすべてが愛おしい。
 『帰ったらお礼の電話をしよう』そう考えていた名前は知らなかった。彼のメッセージの意味するところを。電話口で、『せっかくお茶にでも誘おうと思ってたのに』と非難されることになろうとは、予想だにしていなかった。