わたしの他に他の神々があってはならない


 グラスやお皿のぶつかる音、酒量と共に大きくなっていく声。居酒屋を満たすのはいつだって喧騒だ。混沌とした喧騒。それは特異四課の集まるテーブルとて例外ではない。

「姫野ちゃん飲みすぎじゃない?」

 名前は隣に座る姫野の顔を覗き込む。彼女の前には空のグラスがひとつ、ふたつ、みっつ……そしてまたひとつ、テーブルに追加される。明らかにペースが早い。「全然平気だよぉ〜」なんて、笑う彼女の頬は真っ赤。まったく信用ならない、と名前は眉を寄せる。

「そんなこと言って……もう酔ってるでしょ」

「酔ってないもん」

「可愛く言ってもダメ。酔っぱらいはすぐそう言うんだから」

 ビールジョッキを奪おうと手を伸ばすが、あえなく失敗。逆に、「名前ちゃんには早いでしょ」と姫野に窘められる。心外だ。好んで飲まないだけで、そもそも悪魔の身に子供も大人もない。それにたぶん、彼女たちよりかはアルコールに強いはずだ。姫野も彼女のバディも、びっくりするほど酔いやすい。
 名前は斜め向かいでビールを呷るアキを見やった。火照る頬。覚束ない手つき。普段は冷静な彼の目も、今は熱っぽく潤んでいる。二人揃ってなんという有り様だろう。名前は途方にくれる。歯止め役には期待できない。かといって、このまま姫野を自由にさせておくわけにもいかない。
 姫野は酒が入ると誰彼構わずキスをする習性がある。彼女のことは好きだけど、そういう不埒なことはよくないと名前は思う。口づけとはもっと神聖なものであるべきだ。

「どうしたの、名前ちゃん。浮かない顔だね」

 対して、この人の冴え渡る眼の、なんと聡明なこと。目の前に座す麗しの人。心配してくれたマキマに、名前は「なんでもないです」と答えながら、内心で感嘆の息をつく。
 姫野たちと同じペースでジョッキを空にしていくのに、浮わついたところはひとつもない。上臈。彼女のおわすところ、例外なくその場は神聖なものと化す。

「でも手が止まってるよ?」

「食欲があんまり……、なんか空気にあてられたみたいで」

「そうなの?薬買ってこようか?」

「だ、大丈夫ですよ!マキマさんにそんなことさせられないですし……」

「遠慮しなくていいのに」

 気遣わしげな声、眼差し。なんて親切なひとだろう!沈んだ心を、何度目かわからない感動が襲う。やっぱりマキマさんは唯一無二だ。名前は思う。唯一絶対、焦がれずにはいられないひと。慕わしい気持ちが自然とわき上がる。

「せめて少しは食べた方がいいんじゃないかな。ほら、サラダとか……厚焼き玉子はどう?」

「じゃあそれをいただきます」

「うん、でも無理はしないでね」

 マキマは慈愛溢れる笑みを名前に向けてから、店員を呼んだ。名前はただ見守るだけ。ぼんやりとした視線を投げていると、机上に置かれた右手が不意に柔らかなもので包まれる。
 柔らかでありながらどこか冷ややかなそれ。「マキマさん?」これは、彼女の手だ。彼女に今、手を握られている。いったいどういうことだろう?驚きと困惑を滲ませるも、聖母はけざやかなる微笑を崩さない。

「まだ落ち込んでいるの?新人くんのことで」

 そしてその唇は、いつだって真実を言い当てるのだ。

「どうして、」

「『わかったか』って?……ふふっ、どうしてだろう。名前ちゃんのことだからかな?」

 マキマは笑みを悪戯っぽいものに変える。名前はそんな彼女から目が離せない。喧騒は遠く、地平線の向こう。彼女の瞬きでさえ甘美な誘いに思えてしまう。

「名前ちゃんが気にすることじゃないよ。彼らが亡くなったのは悪い悪魔のせい。それ以外の理由はない、違う?」

「でも、」

「違わないよ」

 反論の語は封じられる。彼女の目に、声に、指先に。マキマの手は優しく名前のそれを撫でていた。その行いは、愛撫に等しかった。

「マキマ、さん……」

 頭がぼうっとする。悲しみが他人のものになる。思考が塗り替えられる。彼女の眸だけが、世界のすべてになる。

「つらいことは忘れよう?私は名前ちゃんに笑っていてほしいな」

「はい……」

 名前は夢うつつに頷く。手の甲が熱い。指先が痺れるようだ。
 「もう大丈夫だね?」という問いかけに、再度「はい」と応じたのさえ殆ど無意識。名前が思うのは、マキマの眼が狼のそれに似ているということ。そんな些末なことをぼんやりと考えていた。
 そんな名前を現実に引き戻したのは、ポケベルの通知だった。一定の間隔を持った無機質なそれに、名前はびくりと肩を震わす。何故だろう、先刻までの記憶が曖昧だ。いつの間にかマキマの手はビールジョッキを掴んでいた。
 メッセージの主は吉田ヒロフミだった。尤も、彼以外には考えられないのだが。
 画面に浮かぶのは『気をつけてね』の一文のみ。特異課の面々との飲み会があると彼には伝えてあった。
 学生でありデビルハンターでもある彼と会えるのは休日が基本だ。だから平日の夜、通話をしながら同じ映画を観ることが多いのだが、今日は遅くなるだろうからと事前に断っておいた。その際に理由を問われ、説明したのだが……果たして気をつけることなどあるだろうか?この、デビルハンターの集まりに?名前は内心で『心配しすぎだ』と笑みこぼす。いくら憧れようと、普通の女の子にはなれない。私はそういう運命にあるのだから、と。

「なぁににやけてんのさぁ!」

 ……その面映ゆい気持ちが滲み出てしまったらしい。内心に留めておいたつもりだったが、酔っ払った姫野に絡まれる。
 頬にかかる息が熱い。し、酒くさい。名前は眉を寄せた。目を離している間に、いったい何杯飲んだのか。テーブルの上は記憶よりもずっと隙間がなくなっていた。

「姫野ちゃん、そろそろお水にしたら?」

「ああっ!それってポケベル?ポケベルじゃん!」

 無視だ。完全なる無視。獲物を見つけた今の姫野に、名前の声は届かない。姫野は目ざとくポケベルを発見すると、「名前ちゃんがそんなの使うようになるとはねぇ〜!」と意味ありげに笑った。

「しかも嬉しそうにしちゃってさ!相手は誰かなぁ?最近よく一緒に映画を観に行ってる彼?なに?もしかして付き合うようになったとか!?」

「ちょっ、くるし……」

「なぁんで教えてくんなかったのかなぁ〜!お姉さんは寂しいよ。ねぇアキくん!アキくんも寂しいよねぇ?」

「……?そうですね……」

「だよね!!こりゃお赤飯炊かなきゃ!店員さーん!赤飯お願いしまーす!」

 なんでこんなに楽しそうなんだろう。興奮状態の彼女は、自分の腕が名前の首を絞めているのも、アキの相槌が酷くぼんやりとしたものだということにも気づいていない。名前は遠く、目を馳せる。
 面倒なことになった。だから彼女には知られたくなかったのに。でもこうなってはもう遅い。揶揄われるのも囃し立てられるのも、覚悟しなければ。
 諦めの境地に達した名前は、ふと突き刺さる視線を感じてそちらに目を向ける。テーブルの向こう。対岸にある、金色の双眸。それは名前の視線に気づくと、ゆったり弧を描く。

「名前ちゃんが元気になってよかった」

 背筋を走るざわつき。気まずさに、名前は顔を強ばらせる。「ありがとうございます」とは言ったものの、奇妙な違和感は拭えない。
 しかしそれ以上に胸に巣食うのは疚しさ、そして罪悪感。何故だかはわからない。ただ、姫野に対するのとは違う意味で彼女には知られたくなかったと思うし、そう思ってしまうことさえ罪だと感じられた。

「あ、ほら。名前ちゃんが頼んだのが来たよ。取り分けてあげるね」

「すみません、ありがとうございます」

「いいんだよ、私が好きでやってることだから」

 けれどそんな感情もマキマの微笑によって次第に薄れていく。違和感も、罪悪感も。考えなくてはならないと思っていたことさえ、忘れてしまう。今の名前の頭からはマキマのこと以外抜け落ちていた。
 だから姫野がデンジの唇を奪ったのにも気づくのが遅れたし、彼女が嘔吐するのも止められなかった。名前が動き出せたのは、すべてが終わってからのことだった。