アメリカへ渡ったのが名前の気紛れなら、モーテルの管理人になったのだって彼女の気紛れだった。曰く、『一度やってみたかった』とのこと。
『アメリカって感じがするでしょ』
そう言って笑っていたのは記憶に新しい。恐らくは洋画の影響だ。名前の好きな映画のひとつに、モーテルを舞台にしたサスペンスものがあった。たぶん、理由なんていうのはそんな些細なものだろう。
けれどこの生活は存外に悪くない、と俺は思う。名前が接客を担当し、俺が設備を整える。悪くはない生活だ。安定した暮らし。ともすると代わり映えのしない、退屈とも評されそうなそれ。こういった日常を俺はずっと求めていたのかもしれない。そう思うほど、心地がよかった。
──でも、名前はどう思っているんだろう?
疑問が生まれたのはある日の晩のことだった。
名前はテレビを観ていた。それは古い映画だった。モノクロの画面の中、パイロット姿の男が映っていた。名前はそれをぼんやりと眺めていた。
俺は声をかけようとして、躊躇った。
何故か?──理由は目の前にある。
名前──俺の妹、俺とはちっとも似ていないブロンドの女は、そこにいなかった。
いや、確かにソファに座ってはいるのだが、意識だけが肉体を離れていた。そんな目をしていた。虚ろな──何ものも映さない、空虚な瞳。その冷たさに、俺は言葉を失った。自分の妹が突然まったく知らない赤の他人のように思われた。
「あれ?アキくんったらどうしたの?ひょっとして立ったまま眠ってるなんて器用な真似できるようになっちゃった?」
けれどそんなのは思い過ごしだった。突っ立ったままの俺を認めた名前はぱちぱちと目を瞬かせた。
その目に宿るのは親愛の情。いつもと変わらない──変わるはずのない、普遍的な愛。心地のよい気安さに、俺は知らずホッと胸を撫で下ろす。
名前は名前だ。俺の妹、俺だけの──たったひとりの家族。俺には名前しかいないし、名前にも俺しかいない。そんな当たり前のことに、俺は安堵している。
「そんなことできる人間いないだろ。フィクションじゃあるまいし」
「いやいやわからないよ。生き物は進化するものだし」
「そういう話だったか?」
俺は首を捻るが、名前の関心は既になく。彼女といえば俺の運んできた出来立てのポップコーンに目を輝かせていた。
「やっぱりこれがなくちゃね」ひとつふたつみっつ。立て続けに放り込んでは咀嚼していく。夕食を食べたばかりだというのに、だ。
『よく食べるな』その言葉を呑み込んで、俺は名前の隣に腰を落ち着けた。朴念仁だの唐変木だの、散々なことを言われる俺でもさすがに学習する。……名前に拗ねられると厄介だ。
俺は手を伸ばし、ポップコーンをひとつつまんだ。テレビの向こうでは、戦闘機がミサイルを撃っているところだった。
「……これ、面白いのか?」
「ん?ん〜……、どうかな?面白いのかな?」
「俺に聞くなよ、どんな話かもわかってないっていうのに」
「あはは、そうだったね」
灰色の画面から視線を外し、名前は笑う。が、俺にはやはり笑いどころがわからない。どうして笑うのかも、その笑みがどこか寂しげに映る理由も。
途端に彼女がどこか遠い存在に思えた。すぐ隣にある温もり。膝を抱えて座る名前と俺の体の半分は触れ合っている。なのに深い隔たりを感じた。伏せられた睫毛の下を覗く権利は、俺にはない。
「ねぇ、そういえばさっきの電話はなんだったの?」
顔を覗き込まれ、意識が浮上する。
最早映画などただの背景と化している。だがそれがどうしたというのだろう。そんなのはちっぽけなことに過ぎないし、何となく流れは読めている。もしかしたら俺は昔この映画を観たことがあるのかもしれないとさえ思った。
「あぁ、ただの間違い電話だった」
「なぁんだ」
残念だ、という感情が露になった声、表情。口を尖らす様子は幼く、子供のよう。ただの、いたいけな少女である。
「何が不満なんだ」そう考えて、少し胸が痛んだ。言い表すなら良心の呵責といった代物。恐らく俺は罪悪感を抱いている。……名前に対して、拭えない罪の意識がある。
「や、期待してたのと違ったなぁ〜、と」
「期待?電話がかかってくる予定でもあったのか?」
「ううん、そういうんじゃなくて。ええっと、なんて説明したらいいのかな……」
名前は眉を寄せる。膝の上で所在なく遊ぶ指先。蒼ざめてさえ見える膚。その下を流れる血のことを、俺は意識の片隅で考えていた。ずっと、ずっと。たぶん、名前に手を引かれて海を渡った日から、ずっと。
「ちょっと前に観た映画の話だよ」少し困った様子で名前は言う。「映画を観ようとポップコーンを作ってたら殺人鬼から電話がかかってくる、っていう場面から始まるやつ」──その言葉から、ふとある光景が脳裏に浮かぶ。
「──ああ、『スクリーム』か」
俺は映画のタイトルを言い当てた。
九十七年の八月に公開された、スプラッタームービー。ほんの
なのに名前は僅かに目を見張った。信じられない、とでも言うみたいに。
「……覚えてるの?」
「そりゃあ……」
当たり前だろ、と言いかけて、続く言葉を見失う。
名前は「そっか」と小さく顎を引いた。「覚えてて、くれたんだ」そう言った声が震えていることに、果たして名前は気づいているのだろうか?
これはいったいどういう感情なんだろう。俺は自分よりずっと小さな体を見下ろし、思う。歓喜か、はたまた悲嘆か。どちらでもあるようで、どちらでもない気がした。
──俺は、自分の妹のことさえ理解できていない。
テレビの中では、仲間に取り残された戦闘機がたったひとりで四機の敵機と戦っていた。
俺は手を伸ばしかけ、やめた。自分が何をしたいのか、何をするのが最善なのか。それすらもわからなかった。
こんな時、兄として取るべき行動とは?手を握るのも、抱き締めるのも、妹にするものとしては適切でないように思われた。
──いっそ、妹でさえなかったなら。
「悲しい映画だね」
名前はぽつりと溢す。「誰も悪くないのに。悪いひとなんかいないのに」なのに被弾した戦闘機は空しく地上へと落下していく。
俺は「そうだな」と相槌を打つ。この後、敵の戦闘機を奪って逃走を図るも、敵機だと思った親友の手によって撃たれて死ぬのだ。俺は、そのやりきれない結末を知っている。知っているのだということを、今更ながら思い出す。
「でも、誰かを想う人間は美しいね」
行方知れずとなった親友を、主人公の男はひたすら待ち続ける。その様子を、名前は目を細めて見つめる。憧憬のこもった、眼差しで。
俺は黙って、ただ正面を見つめた。今度は素直に頷けなかった。名前の顔も見れなかった。この平穏を壊したくはなかった。世の中にあるのは──俺が抱いているのは、純粋なだけの愛情ばかりじゃない。そんなことを口走ってしまうのが怖かった。
俺は外側の世界のことを考えた。窓の外のことを。近くを走るハイウェイや、勢いよく流れる川、山頂にかかる月のことを考えた。自分にはまったく関係のない、外側の世界に意識を向けた。
けれど一度生まれた問いは消えなかった。
──妹でさえなかったなら、
その時俺はどうするだろう。どうしたいと望んでいるというのだろう。そうであったら良かったのにと、どうして思ってしまったのだろう。
俺たちは同じ方向に目をやりながら、それでいてまったく違うものを見ていた。俺は名前の見る世界を知らないし、名前もまた俺の見ている世界を知らない。
知らないままでいいのだ、ということだけが唯一確かなことだった。