ネオン煌めく繁華街から、閑静な住宅街へ。車を走らせている間も、名前の口はひとりでに溜め息を溢す。──ああ、どうしてこんなことになってしまったのだろう?「幸せが逃げちゃうよ」なんて、助手席のマキマから揶揄われても、気がかりが晴れることはない。
「だって……心配じゃないんですか、マキマさん。あんな状態の姫野ちゃんとデンジくんを二人っきりにするなんて」
特異四課の親睦会は、日付を跨ぐ頃に解散となった。しかし名前の仕事は終わっていない。女性であるマキマと、酔い潰れた保護者しかいない早川一家を自宅まで無事に送り届けること。それが本日の最終ミッションである。こうなることを想定していたから、アルコール類は一切摂取していなかったのだ。これまでも飲みの席では常に名前が運転手を買って出ていた。
けれど各々が家路につこうという段になって、問題が発覚した。──姫野とデンジの姿が見えないのである。よくよく聞いたところ、なんでも姫野の方がデンジを背負って姿を消したというではないか。名前にしたらとんだ計算違い、誤算である。なんで止めなかったの、と目撃者である伏を詰問したいくらいだ。どうせなら、雰囲気に酔ったデンジをマキマの家で休ませたかった。名前の本音はこんなところである。
しかしそんな思惑など、マキマには関係のないこと。何も知らないのであろう彼女は、「二人一緒なら心配するようなことはないでしょ」と言う。姫野の酒癖の悪さを聞いたことすらないのだろうか。或いは、興味もないのか。
できれば無知ゆえであってほしい、と名前は思う。デンジくんへの情は、本物であってほしい、と。
「心配するようなことが起きちゃうかもしれないじゃないですか。……まぁ、何がとは、私の口からはとても言えませんけど」
「名前ちゃんは
「ええ〜……このくらいが普通じゃないですか?」
というか、そんなスレた世界は嫌だ。名前の個人的な願望としては、人間にはそれなりに慎ましくいてもらいたい。何せ色欲とは人を罪へと導くものなのだから。
けれどマキマは笑う。「名前ちゃんはいい子だよ」と、眼差し柔らかく笑う。
それは春の日差しのように穏やかで、しかしその音色に名前の胸は不思議とさざめいた。言うなれば、真夏の爛熟し切った香り。心を波立たせる蠱惑の響きである。意味深長でありながら、多くは語らない、それ。名前はドキドキする心臓を抑え、「ありがとうございます」と答えた。次の角を曲がれば、もう彼女の家は目前だ。
マキマに別れを告げ、次に向かったのはマンションの一室。早川アキが所有する部屋であり、デンジやパワーの居候先。名前は覚束ない足取りのアキと眠気を訴えるパワーに肩を貸しながら、やっとの思いで扉を開けた。
「ああ、こらこら、パワーちゃんったら……廊下で寝るもんじゃありませんよ。まずはシャワーを浴びなきゃ」
「嫌じゃ。ワシは眠い。寝る」
「それならベッドに行こうね」
「ここがベッドじゃ、ワシのベッドじゃ、すべてワシのものじゃ」
「ここは廊下だよ、パワーちゃん」
パワーと押し問答を繰り返していると、その間にも右肩にかかる体重がどんどん重くなっていく。視線を下ろせば、半分閉じかかった瞼。既に夢うつつのアキがいて、名前はまた溜め息を吐きたくなる。
こういう役回りは、本当ならアキくんのもののはずなのに。なのにどうしてこんなことで悪魔が右往左往しなくてはならないのか。人間を弄ぶはずが、完全に翻弄されている。……いやまぁ確かに、ひとりは魔人だけども。
「アキくんアキくん起きて、せめてベッドまでは自分の足で歩いて」
「ん……んん、」
「ガハハハハハ!!チョンマゲのアホ面じゃあ!」
唸るアキを指差して、パワーは大笑いする。
何が可笑しいのか、それとも箸が転がっても愉快なお年頃なのか。ともかく、名前はもう深く考えることはしなかった。それより早く、玄関から先に進みたい。その一心だった。
「そうだね、だから最高にカッコいいパワーちゃんはこんなアホ面を曝さないよう、ちゃんとベッドで寝ようね。大人のパワーちゃんならできるもんね?」
「仕方ないのう!ワシは最高にカッコいい悪魔じゃからなぁ!」
パワーはお腹を掻きながら飼い猫を呼んで、自室へと引っ込んだ。
お酒は飲んでいないはずだが、いつも以上にハイになっている。とてもひとりじゃ対応できない。だから大人しく言うことを聞いてくれて、名前は心底ホッとしていた。酔っぱらいふたりを相手にするのは、さすがに荷が重すぎる。
名前はその酔っぱらいの片割れを抱え直した。完全に脱力しきった腕、体。無防備な、顔。
「普通の女の子だったらここまでお世話できないんだからね」
うつらうつらとした様子のアキが何だか憎らしく思えて、名前は彼の頬を軽くつねった。
それでもまったくの無抵抗。微かに眉を寄せただけで、これではなんの達成感も得られない。おまけにそんな状態でも顔の造りは整ったままで、毒気が抜かれる始末。
名前は「仕方ないなぁ」と呟いて、靴を脱いだ。ついで、彼のそれも脱がせてやる。これがなかなか難しく、両方を脱がす頃には靴を並べる気力も失せていた。面倒なことは、あとで片付けよう。
「さぁアキくん、お部屋に行こうね」
促すと、こくりと頷かれる。
返事は立派。けれどふらつく足では頼りなく、名前は半ば引きずるようにしてアキを彼の自室まで運んだ。
最低限の家具で構成された部屋。どこか寒々しい造りは彼の心そのもの。内側には冷えた復讐心が眠っている。
名前は暗がりを手探りで移動し、舟を漕ぐアキをベッドに横たえ……ようとした。
「ちょっと、手を離して。ねぇ、アキくんってば」
「ん……」
「アキくん、アキくーん?」
最初に身を屈めたのがまずかった。その体勢で体重をかけられては成す術がない。アキに肩を貸した格好のまま、名前までもがベッドに転がる羽目となる。
これはいけない。いけないことだ。名前は慌ててアキの頬を叩く。
しかし彼は吐息のような声を洩らすばかり。呼び掛けても、軽く揺さぶってみても、肩に回る手はほどけない。どころか、もがいたせいで殆ど抱き締められた格好になってしまった。
「どうしよう……」
名前は途方にくれた。無論、本気で押し退けようと思えばできないことはない。問題は、そこまでやる必要があるのだろうかという点だ。
このまま名前がここで眠ったとして、それで彼が動揺するだろうか。──答えは否。彼は気にしないだろうし、そう考えると今無理に起こす方が彼にとっては迷惑なことかもしれない。
「…………」
名前は眼前にある穏やかな寝顔を見つめた。
鼻先が触れ合うほどの距離。赤みがかって見える頬。唇から洩れる吐息にはまだアルコールが混じっている。そんな彼の顔を、まじまじと見つめた。
「……もう、人の苦労も知らないで」
緊張の抜けた顔、その輪郭に名前は指を滑らせる。
冷たい膚だった。一見、熱を持っているかに見えたから、思いもがけない感覚だった。そしてそれがなんだか途方もなく悲しいことのように思われた。こんな風に安らいだ顔も、ほんのひと時のものなのだと突きつけられた気分だった。仮初めの安寧。彼の心は、ここにない。
「……アキくん、」
彼のために、私ができることはなんだろう?何度目かわからない問いを、己に投げ掛ける。
しかし答えるものはない。いつだって返ってくるのは沈黙。残されるのは無力感ばかりだった。
「せめて今だけは……ゆっくりおやすみ」
だからだろうか。気づけば名前は彼の瞼に唇を落としていた。母親が眠りに落ちる際の子供にするように。その眠りが妨げられないことだけを願って、触れるだけの口づけをした。
そんなことしかできない自分を悔しく思いながら、名前もまた瞼を下ろす。聴こえてくる規則正しい心音だけが、今の名前にとっては救いだった。