あるいは裏切りという名の犬


 意識が浮上したのは、喉が渇きを訴えるのとほぼ同時だった。

「ここ、は……」

 口をついて出るのは掠れた声。視界を満たす闇。静寂。未だはっきりしない頭を働かせ、それでもアキは考える。ここがどこで、今の自分を取り巻く環境が何なのか。
 暫しの間思考するうち、眼前に広がるのが自室の天井であることを思い出す。微睡みが抜けてしまえば何てことはない。どうしてこんなことすらわからなかったのか、自分でも不思議なくらいだ。
 寝ぼけているにもほどがあるな、と己に呆れ、ゆっくりと起き上がる。ベッドの軋みすら馴染み深い。それを忘れていたなんて、よほど心地のいい夢でも見ていたのか。
 内容は判然としなかったが、悪くない感覚だった。あたたかく、柔らかな眠り。言葉で言い表すならこれは──甘美、といったところか。それこそ、このままもう一度ベッドに戻りたいくらいには。
 しかしいかに素晴らしい夢だったとしても、喉の渇きが癒えることはない。

「……名前?」

 ベッドから出ようとして、そこでアキは自分以外の人影が横たわっていることに気づく。
 窓から差し込む一筋の光。仄かな月明かりが照らし出すのは、白皙の顏(かんばせ)。なよやかでありながら、どこか眩しくすらある寝顔。それは睫毛の先に宿る星の光のためであり、ベッドに広がる豊かな髪が白き月明かりによって金襴緞子(きんらんどんす)の装いとなっているためでもあった。
 そのさまをアキは芒とした頭で眺めた。別段、深い理由などはない。何とはなしに目をやると、何となく離れがたくなった。ただ、それだけのこと。……それだけのことだ。
 なのに見つめているうち、次は触れてみたいと思うようになった。触れて、本当に今ここに存在しているのか確かめたくなった。そうしなければ、という強い思いに駆られた。

「……名前、」

 息をひそめ、そろりと手を伸ばす。指先をすり抜けていく金のヴェール。裳裾のように絡まり合い、縺れ、流れ落ちる。
 しかしその存在が失われることはない。望めば、何度でも。触れて、確かめることができる。その実感がようやくわいて、ホッとした。
 ……不安、だったのだろう。他人事のようにそう思う。不安だった。何か、大きなものがうしなわれるような予感があった。
 けれどそれは錯覚だったのだ。錯覚だった。その言葉を、噛み締める。名前は今、ここにいる。ここにいて、呼吸をしている。隣に、寄り添っていてくれる。

「──アキくん?」

 どれくらい、そうしていたのか。
 か細い声に、指先が震える。名前の目。一点の曇りもない紺青の色。星が瞬き、微睡みが息づく。その目が、アキの身を捉えていた。
 名前はもう一度アキを呼んだ。呼んでから、「どこへ行くの」と問うた。

「遠くへ行ったらダメだよ。遠くへ行ったら、キミを守れない」

 だからダメだよ、と名前は言う。その手が縋るのはアキの袖。恋うるような響きさえ、そこにはあった。
 アキには彼女が何を言っているのか全く見当がつかなかった。自分のことは棚に上げ、『寝惚けているのだろうか』とさえ考えた。しかしそれ以外にどんな理由があるというのだろう?今この場には、どんな災厄も存在しなかった。

「……わかった」

 けれど大人しく頷くことにした。これだって何となくだ。何となく、逆らいがたい空気があった。──そういうことに、しておこう。
 促されるがまま、身を横たえる。言いなりに動けば、名前は小さく息をついた。これで安心だといわんばかりに。瞳を緩め、アキの背中に腕を回した。

「大丈夫、大丈夫だよ……」

 ──やっぱり寝惚けているんだ。
 背中をあやす手に、アキは確信する。そうでなきゃ理由がつかない。名前がこんな風に抱き締めてくるなんて、──その手に、胸に、温もりに、安堵を覚えるなんて。
 何もかもを夢うつつのせいにして、アキは目を閉じる。名前の腕の中。絶対的な安らぎの中で、残る睡魔に身を委ねる。
 懐かしい感覚だ。眠りに落ちる際で、アキは思う。懐かしい感覚、これは──そうだ、今よりずっと平和だった頃に感じたもの。日常が永遠に続くと信じ込んでいた時には必ず存在していた温もり。

「──かあさん、」

 返事はなかった。けれどその代わりに、背中に回った手が応えてくれた。それで十分だった。
 この温もりは他の誰のものでもない。父のものでも弟のものでもなく、自分だけのものなのだ。そう理解できたから、安心して眠りにつくことができた。
 ──渇きはもう、感じなかった。