早川家で迎える朝はなんともありふれた、平凡なものだった。同じベッドで目を覚ましても、アキには動揺のひとつもない。彼はいつもの冷めた顔で「おはよう」と名前に声をかけ、朝食を用意しに向かった。
予想通りというか、……なんともつまらない反応である。いや、別に何かを期待していたわけではないのだが、こうも冷静だとそれはそれで不満が残るのだ。まったく、乙女心ときたら複雑きわまりない。
名前は溜め息をつき、ベッドを出た。空はまだ明けきらない。白みゆくただ中にある世界。『これなら一度家に帰れるな』とスーツのシワを伸ばしながら考え、はたと気づく。……そこまで見越して、彼は起こしてくれたのか。
思い過ごしだったら恥ずかしいけれど、でもあり得ないと否定できないのが彼の恐ろしいところ。早川アキという男はどこまで気が回るのか。
「アキくんは優しいなぁ」
名前はひとりごち、アキの後を追いかけた。エプロン姿の彼を見てちょっぴりときめいてしまったのは内緒だ。
車を飛ばし、自宅へ。そこでシャワーを浴び、着替えを済ませると調度いい時間になる。名前は荷物を纏めて、駅へと向かった。
「おはようございます、マキマさん」
昨晩別れたばかりの彼女は既に改札の前に立っていた。「おはよう」と柔和に細められる目。そこに疲労の気配は残っていない。彼女は今日も完璧なまでに美しい。
あれだけビールを飲んだのに、と名前は内心で感嘆する。対するアキくんはといえば、頭痛がすると頭を押さえていた。かわいそうに。
「朝早くから悪いね、ちゃんと眠れた?」
「はい、不思議と。睡眠時間は少ないはずなんですけどね、いい眠りだったみたいです。ゆうべは楽しかったからかな」
言いながら、本当に不思議だと名前は思う。
他人の家で、他人のベッドで、おまけにあんな落ち着かない格好だったのに。なのに何故だか不思議と、目覚めは爽やかなものだった。驚くほど心地のいい朝、それにいい夢を見たような気さえする。内容はあいにく思い出せないけれど──目覚めた時、胸に温かなものが残っていたのだけはわかった。
マキマは「それはよかった」と笑い、「実は私も同じなんだ」と続けた。
「ごはんもお酒も美味しかったし」
「あはは、それは確かに。でもマキマさんのお口に合ったならよかったです」
それなら企画した甲斐があるというものだ。そもそもの発端が何であれ、彼女の笑顔が見れたなら大成功といっていいだろう。気がかりは──つまりは朝帰りとなったデンジについてだが──解決していないが、マキマが気にしていない以上、名前が口を挟むことじゃない。
名前は『次に姫野ちゃんに会ったら厳重注意しよう』と思いながら、マキマの後に続いて改札を抜けた。姫野ちゃんに対する罰は……そうだな、一ヶ月アルコール禁止とかどうだろう。抵抗する彼女の顔が容易に浮かんで、名前はひっそりと笑った。次に会うのが楽しみだ。
「京都……って言ったらやっぱり甘味処ですよね。観光する時間あるかなぁ」
新幹線の指定席。発車すると、車窓の景色は続々と切り替わっていく。ぐんぐんと遠ざかる街並み。やがては長閑な稜線が連なるようになって、 目的地が近づいていることを知らせてくれる。
「うーん、お話が早く終わればいいんだけどね」
「じゃあ私、早く終わるように祈ってます」
名前が握り拳を作ると、マキマは「頼もしいね」と手を叩く。どうやら彼女はこの会合をあまり快く思っていないらしい。
京都の偉い人たちに呼ばれてるから一緒に来てほしいの、とマキマに誘われたのが一週間ほど前のこと。とはいっても会合の内容までは知らされていないし、《偉い人》というのもいまいちピンときていない。
それでもあっさり快諾したのは、彼女に頼られたのが嬉しかったからだ。それ以上の理由など必要だろうか?名前にとって《偉い人》などという抽象的なものよりずっと、目の前の彼女の方が重要だった。
「甘味もいいですけど、駅弁も気になるんですよねぇ。新幹線での移動ですし、やっぱり食べておきたいなぁって。……あぁでも、向こうでお昼が出るんでしたっけ」
「うん、でも食べれちゃうと思うよ。それに向こうでの食事なんて美味しく感じないだろうし」
ここまで言うとは相当だ。相当、《偉い人》のことは苦手なのだろう。意外に思うが、彼女にも人間らしい一面があったのかと考えれば不満げな顔も可愛らしく映る。
名前は微笑ましい気持ちで、窓際の席に座るマキマを眺めた。
彼女の頼みを断らなくてよかった。自分に何ができるとも思えないが、わざわざ嫌な思いをしに行かなくちゃならない彼女をひとりにはしたくなかった。名前はそんなことを思っていた。
──そう、ことここに至っても、名前には何の違和感もなかったのだ。前後の座席に座っていた四人が立ち上がるのも、鞄から拳銃を取り出すのも、まったく気づいていなかった。
──そして、車内に銃声が轟いた。
「……っ、いった〜……」
一発、二発、三発、四発。立て続けに撃ち込まれた弾丸を吐き出して、名前は呻く。さすがにこれは効いた。結構、かなり、だいぶ、痛い。
でも「名前ちゃん、大丈夫?」とマキマが気遣わしげに背を撫でてくれるから、平気だ。名前は「はい」と頷き、素早く彼女の体を見回した。
白いシャツに散る朱の色。けれどその身に傷跡はない。これは、名前の体から流れ出した血だ。彼女を危険にさらした、償いの赤。名前はホッと息をつく。
──よかった、間に合って。咄嗟に彼女を庇うことができたのは、不幸中の幸い。もしも彼女に怪我を負わせるハメになっていたら、自分で自分が許せなくなるところだった。
「おまえ、なんで……」
「なんで生きてるんだ……?」
銃を持った男たちの動揺など知ったことじゃない。名前は吐き出した弾丸を握り締めて、ゆらりと立ち上がる。
「──『目には目。歯には歯。手には手。足には足。やけどにはやけど。傷には傷。打ち傷には打ち傷』」
唱えるのは聖書の一節。伸べられた手が指し示すのは
彼らは狼狽えながらも、銃口を向けた。名前に、──その後ろのマキマに。
その哀れなさまを、名前は無感動な目で眺めた。
「『復讐するは我にあり、我これを報いん』」
だから、その一言ですべては終わった。
自分たちが撃ったのと同じだけの弾丸を体に浴びて、男たちは倒れ伏す。
上がる悲鳴。洩れ出す嗚咽。混沌の中、名前は男たちの亡骸を見下ろした。信じる神の違う彼らに、かけるべき言葉が見当たらない。月並みな言葉しか、思い至らない。
「どうか、安らかに──」
それだけを祈る名前の肩をマキマは抱いた。優しく、慈愛に満ちた手で。抱き締めて、「名前ちゃんが悔やむことはないよ」と囁く。
「私を助けてくれて、ありがとう」
それは、とろりとしたたる蜜の一滴。甘く、恐ろしいほどに甘い、声の色。思考までが溶かされていく。彼女に、侵食されていく。
腕の中、名前は「はい」と頷いた。彼女に身を委ねていると、ホッとする。絶対的な信頼と安心感。何も考える必要がないから、心地いい。永遠にこの腕に囚われていられたなら、どんなに楽だろうか。
名前は目を閉じた。目を閉じ、噎せ返るほどの血の海の中で仲間の顔を思い浮かべた。アキや姫野、デンジ、パワー……彼らのことを考えた。何故だか、無性に恋しい。
──早く、みんなのところに帰りたい。
そんなことを考えていた名前は、まさか特異課そのものが壊滅的な被害を受けているなどとは予想だにしていなかった。