家族を思うとき
その人はデンジの姿を見つけるなり、駆け寄ってきた。
「デンジくん……っ!」
それは涙まじりの抱擁だった。その人──名前の声は震えていた。震える声で、「よかった」と囁いた。
「キミが無事で、よかった」
首筋を擽る吐息。布越しに感じる温もり。人間の、柔らかな感触。そうしたものに、デンジの意識は奪われる。
「お、大袈裟だなぁ〜!俺ぁ、そう簡単に死なねぇっすよ」
「……うん、そうだね」
「そうかもしれないね」と顔を上げた名前には、少しばかりの笑みが戻っていた。
煙るような、仄かな笑み。たったそれだけ。それだけなのに、どうしてか安堵を覚える。この人に泣かれるのは、なんとなくいやな気持ちだ。
「わざわざ迎えに来てくれたんすか?」
「わざわざってわけじゃないけど、そうなるね。デンジくんは怪我人だし、病院から一人で帰らせるのはちょっとね」
「もーピンピンしてっけどなぁ」
彼女はポチタのことを知っている。悪魔の心臓。不死の肉体。すべて承知のはずなのに、デンジのことを普通の人間のように扱う。人間の、子供のように。「でも貧血で倒れちゃうかもしれないでしょ」と気遣わしげに顔を覗き込んでくる。
頬を包まれ、デンジは言葉に詰まる。……これは、悪くはない感覚だった。
「ワシがついてるから心配いらないがのぉ〜」
「うーん、パワーちゃんをあてにするのはちょっとなぁ。デンジくんが抵抗しなかったら血を吸っちゃうだろうし」
「そんなことしないが?」とすっとぼけるパワーは、戦いの途中で逃亡したお陰で無傷だ。でも悪魔を一人で行動させることもできず、仕方なしにデンジと一緒に病院にいた。暇を持て余した彼女は「早く帰ろう」と名前をせっつく。お陰で彼女の温かな手も離れていってしまった。
少し、肌寒い。デンジはぼんやりと思う。春も終わりが近い。もうすぐ夏が来るはずだ。なのに、とデンジは腕をさすった。早く家に帰りたいというのだけは、パワーに同意だった。
「腹が減ったなぁ〜……。のう名前、何か持っておらんのか?」
「デンジくん、私の鞄からパワーちゃんにお菓子をあげてくれる?たぶんクッキーとか入ってたと思うから」
「おう」
車の中でもパワーは騒がしかった。疲れただのお腹が空いただの、ワガママ三昧。敵から逃げたくせに、偉そうだ。……いや、偉そうなのはいつものことか。
「なんじゃこれしかないのかぁ?」
「ごめんね、帰ったら夕飯の用意するからそれまで待っててね」
「しょうがないのぉ〜……」
デンジは隣でハンドルを握っている人を盗み見た。
デビルハンターで、自分より少し歳上の、ツラのいい女。名前という名前と、マキマさんのことが好きだということしか知らない。デンジが知っているのはそれだけだ。
──それだけなのに、どうしてこの人は俺を抱き締めてくれたんだ?
デンジにとってはそれが一番不思議なことだった。
「そーいやぁ名前さん、マキマさんと京都行ってるんじゃなかったでしたっけ?」
「あぁ、うん。その予定だったんだけどね、とんぼ返り。結局すぐこっちに帰るハメになっちゃった」
相槌を打ちながら、デンジは『襲撃のせいだろうな』と考えた。
たぶん、この想像は間違ってない。血相変えて辺りを見回す彼女と、自分を見つけて泣きそうに顔を歪める彼女、駆け寄り、抱き締めてきた彼女の記憶は未だ鮮明なまま。温かさも柔らかな感触も、膚に残っている。
「それじゃあ土産はなしか!?」パワーは後部座席から不満の声を上げる。それどころじゃないだろう、と叱る者はこの場にいない。名前ときたら、「ごめんね」と苦笑するばかり。
早パイが聞いたらまた『甘い』と顔を顰めるんだろうなぁとデンジは思う。謝ることなんかないのに。──俺は、抱き締めてくれただけで嬉しかった。
「ワシは肉が食いたい気分じゃ」
「うーん、残念だけどアキくんにその予定はなかったみたいだね」
「最悪じゃ!」
家に着くと、名前は早速冷蔵庫を開けた。パワーは勝手気ままなもので、ニャーコを抱いてリビングで横になっている。
「勝手に使ってごめんね、アキくん」
家主は不在なのに、名前は病院の方角へ向かって手を合わせた。律儀な人だ。だから二人は何だかんだで馬が合っていたんだろう。
デンジは彼女がここにいることを不思議に思った。……本当は、アイツの側にいたいはずだ。
「……なぁ、名前さん、」
「なぁに、デンジくん」
「あの、さぁ」
言おうとして、腹の辺りが僅かに痛むのを感じた。悪いものでも食べたあとみたいな、そんな感覚。
ふと、昔のことを思い出した。家を出ていく父親の背中。途端に広く感じる部屋。痛いほどの静寂。風の唸り声。足元に忍び寄る夜の闇。ひとり取り残された時の、寄る辺なきあの感覚を。
「……俺らなら心配いらねぇっすよ!パワーは……役に立たねぇけど、メシなんて金がありゃあどうとでもなるし、今日一日くらいは、」
そうしたものを抑えて、デンジは言葉を続けた。言葉通りに、笑顔を取り繕って。笑って、──でも、その先までは言えなかった。『俺らのことはいいから、病院に戻ってくれていい』とは。そう言ってやることだけは、できなかった。
「デンジくんは、優しいね」
なのに名前は目を細めて微笑んだ。子供を褒める時の調子で言って、「でも気にしすぎだよ」とデンジの頭に手を置いた。
「確かに病院には後で戻るつもりでいたけど、そんなに急いじゃいないから」
「そう、なんすか」
「うん。それにデンジくんたちにまともなご飯を食べてもらう方が大事だよ」
名前は炊飯器の内釜に米を入れた。洗うのはデンジの仕事だ。手渡されたそれに、デンジは水を注ぐ。これくらいの仕事ならできるようになった。そりゃあ最初のうちは、水と一緒に米も洗い流していたけれど。
「……言い忘れてた」
隣に立った名前が呟いた。呟き、デンジが『何を』と聞くより早く、その口を封じた。病院まで迎えに来てくれた時と同じ、温かな抱擁によって。
「ひとりでよく頑張ったね。ありがとう、戦ってくれて。……守ってくれて、ありがとう」
「そ、んな……、俺ぁ、なにも、」
「ううん、キミのおかげ。デンジくんが、頑張ってくれたからだよ」
ありがとう、と名前は繰り返す。優しい手つきでデンジの頭を撫でる。日に焼けた髪を静かに梳る。
デンジは二の句が継げず、彼女の肩口に顔を埋めた。甘く、爽やかな香りがした。でも心臓が喧しくなることはなかったし、それ以上を求めたいとも思わなかった。
それはひどく、穏やかな心地だった。水音が意識の片隅で響いていたけれど、デンジは口を開かなかった。この心地のいい静寂を壊したくなかった。
名前はじきにこの家を出ていってしまう。病院に戻る、と彼女は言っていた。引き留める術はないし、そうしてはいけないというのもわかっていた。
デンジは彼女の目が微かに赤くなっていたのを思い出した。──守ってくれて、ありがとう。その言葉の指すものは、ひとつしかない。
──この人は、たぶんアイツのことが好きなんだ。
これは恋ではない。そんなものではないけれど、でも少しだけ寂しいのかもしれない、とデンジは思った。彼女は、母親みたいに優しかったから。