すべてはその夜始まった


 ──血にまみれて戦う姿は、まさしく《悪魔》そのものだった。

 しかし今、俺の目の前にいるのはどこからどう見ても普通の女の子だ。俺と同じくらいの年齢の、《女の子》。彼女は物慣れない様子でカップラーメンを啜っている。すぐに用意できる夕飯なんて、そんなものしかなかったのだ。けれど彼女──俺が名前と名付けた悪魔は目を輝かせていた。

「すごい、たった三分でこんなものが作れるなんて」

「いや、誰でも作れるからね」

「でも私には作れない。だからキミはすごい。そしてこの仕組みを作った人間はもっとすごい」

 頻りにすごいすごいと言って、名前は箸を進める。その手つきもまたぎこちないものだが、飲み込みは早い方なのだろう。少し教えただけで、徐々に正しい形になっていく。これなら人間社会にもすぐに馴染める気がする。
 そう考えると、今の時間はとても貴重なものなのかもしれない。そんなことを、ぼんやりと思う。

「名前ってさぁ……今までどうやって生きてきたの?」

 彼女と共に遅い夕食を摂りながら、何とはなしに聞いてみる。
 こんなに友好的な会話が望める悪魔など、そうそういない。だから興味を引かれる。だから、彼女の申し出を受けた。……それだけだ。
 名前は箸を止め、小首を傾げる。「どうやって……」鸚鵡返しに呟くその様子は殆ど無邪気。答えあぐねているのか、はたまた問いの意味を理解していないのか。

「例えば食事とか、そういうのはどうしてた?」

「食事……は、倒した悪魔の血を吸ってた」

「それってうまいの?」

「これの方が美味しいよ」

 『これ』と名前が指差すのは完食に近いカップ麺。恐らく彼女の中では比較対象がそれしかないのだろう。
 悪魔の血か、インスタントラーメンか。なんとも哀れを誘う二択だ。俺だったら死んだ方がマシだって思うかもしれない。
 さすがの俺も同情心がわいて、「もっとうまいもん食べさせてあげるよ」と言ってしまう。

「これ以上……、想像できない」

 それで喜ぶ顔が見れるかと思えば、予想外。名前はぱちぱちと目を瞬かせるばかり。今は驚きの方が強くて、歓喜にはほど遠い様子。少し、がっかりした。
 でもまぁ、楽しみが先延ばしにされたのだと考えよう。そうすれば……、うん、悪くない。女の子の好きそうなカフェなんかに連れていったらいったいどんな反応を示すのか。今から楽しみだ。

「じゃあなに?ひたすら悪魔を殺して食うだけの生活してたってこと?デビルハンターよりよっぽど仕事してるね」

「そう?でもデビルハンターの仕事を少しは肩代わりできてたっていうなら嬉しい。ひとりでいると、そういうのはよくわからないから」

 別に褒めたわけじゃない。なのに名前ははにかみ笑う。本当に、心底から嬉しいっていうみたいに。少女みたいに頬を染めるものだから、俺はなんとも言えない気持ちになる。
 出会った時から名前は『人間を守りたい』と言っていた。それが信仰の悪魔としての本能なのだとも。だから今この瞬間の喜びも、きっと彼女自身のものではない。与えられた役割のために生じた歓喜だ。見た目はただの少女なのに──彼女の身に、自由な選択は存在しない。
 それが哀れで、けなげで──俺は接ぎ穂を失った。悪魔に同情するなんてバカげてる。そう頭では理解しているのに、名前があんまりにも『普通』だから、わからなくなった。

「そう言うキミは?」

「え?」

「キミは、どんな生活をしているの?悪魔を殺す以外に、どんな暮らし方があるの?」

 名前が僅かに身を乗り出す。深夜にも関わらず、その目は青空を映している。眩しいほどに晴れ渡る、空の色を。

「どんな、って……学校行って、デビルハンターのバイトして、宿題やって、メシ食って、寝るだけだよ」

 でもそんな《当たり前》を、名前は知らない。彼女はあまりにも無知で、無垢だった。生まれたての雛同然で、だから俺の言うことならなんだって鵜呑みにする。
 他人のシャワー中に乱入するほど物を知らなくて、異性からシャツを借りた挙げ句、それを素肌の上に着ただけの状態でも無防備でいられるほど純真。この調子でいけば彼女は下着の付け方すら知らないだろう。
 なんにも知らないから、俺の曖昧な答えにすら彼女は微笑む。

「『だけ』じゃないよ。悪魔の退治に加えて、勉学にも励んでいるなんて、やっぱりキミはすごい人だ」

 ──血にまみれて戦う姿を、美しいと思った。

 でも今は、何よりこの透き通る眸がきれいだと感じる。黎明の光が宿る眼を、朝露の含んだ色を、そうしたものをこそ美しいと思う。誰にも穢されてはならないとすら、思ってしまう。このような感情の発露こそが信仰の悪魔たる所以だろうか。
 だとしても、抗えない。抗う気すら起こらず、俺もまた笑った。

「名前は俺を買い被りすぎだし、世の中をもっと知るべきだよ。色々なことを知って、そしたらきっと──」

 そこまで言って、口を噤む。
 俺はいったい、何を言おうとしたのだろう?わからないし、わかりたくもない。たぶんきっと、これは知らなくていいことだ。
 中途半端に言葉を呑んだ俺を、しかし名前が咎めることはない。相変わらずの微笑で、ゆるりと首を振る。

「買い被りすぎ、なんてことはない。少なくとも、私にとっては。私にとって、キミはとても親切で、恋慕うに相応しい人だよ」

「……人間なら、誰でもよかったくせに」

 名前を責めるつもりはなかった。
 だって彼女は悪魔だ。それも、強い力を持つ信仰の悪魔。どれほど友好的に見えても、彼女が悪魔であることに変わりはない。親しげな態度を取るのだって、彼女が《そういうもの》として存在しているからに過ぎない。恋慕う──だなんて言ったって、所詮は神々が人間を思うのと同じ感情だ。彼女の身体は、信仰で成り立っている。
 けれど彼女に答えた俺の声は、ささくれだったもの。思いもがけず、恨みがましいものとなった。そんな自分に驚きを隠せない。二の句が、継げない。
 でも名前は気にせずに口を開く。薄紅色の小さな唇を、微笑の形のまま動かす。

「そうだね。でも今はキミでよかったと思ってる。私に声をかけてくれたのが、キミでよかった」

 悪魔に羞恥心というものは存在しないのか。
 ……ないんだろうな、きっと。だからこんな恥ずかしいこと、臆面もなく言い出せるんだ。
 だけど俺は普通の人間だから、「そう」と素っ気ない言葉を返すことしかできない。もう少し大人だったら上手い切り返しができたかもしれないけど、悲しいことに今の俺は十五のガキでしかなかった。それが少し──いや。かなり、くやしい。

「けどまぁ、外に出るのはもうちょっと常識を身につけてからかな。今のアンタじゃ危なっかしくて仕方ないよ」

「危なっかしい……。よくわからないけど、わかった。キミの判断に従うよ」

 名前は神妙な顔で頷いた。たった十五のガキの言うことを真面目に受け止めた。……名前には、俺しかいないのだ。それはほんの些細なことのようで、けれど大きな意味を持つようにも思えた。

「さっそくひとつ聞きたいんだけど、いい?」

「ん、なに?」

「このスープは全部飲むべきものなの?それなら私には少し難しいかもしれない。思ったより味が濃いから」

 ……何を聞かれるかと思えば。
 固い表情のまま、名前が見つめるのは机上のカップ麺。その中にあるのはスープだけだ。捨てるか飲むかは人それぞれの好みによるところだが、名前にはそもそも好き嫌いというものがわからない。彼女にとっての基準は悪魔の血であり、律法は俺の答えによって成り立っている。
 思わず、俺は笑ってしまった。

「全部飲む必要はないよ、体に悪いし……いや、悪魔にも健康の概念があるかは知らないけど。そこらへんはどうなの?」

「……どうなんだろう。そもそも血液以外を摂取すること自体が私たちの体にはよくないのかも」

「まぁ確かに。でも名前の場合、見た目は人間と変わらないし、気にするに越したことはないんじゃない?」

「そう……かもしれない。うん、キミの言う通りだ」

 名前は頷いて、「ごちそうさま」と手を合わせる。変なところで礼儀正しい。聞けば、これも人間観察で得た知識だと言う。

「迷惑だろうけど、これからも色々教えてほしい」

「別に迷惑だなんて思ってないよ」

 深々と頭を下げる名前に、首を振る。
 嘘じゃない。普段なら面倒だと思うかもしれないけど、今の言葉は本当だ。面倒どころか、……たぶん今の俺は楽しんでいる。そう、この心の浮き立つ感覚は、恐らくきっと楽しいという感情だ。
 俺の与えるひとつひとつが名前の生を左右するのだと思えば、面倒なことなど何もなかった。