食べて、祈って、恋をして


 青白い光がカーテンの隙間から差し込む。朝の日差し、みなぎる黎明。眩しさの中、私は主の寝顔を見守った。時刻は朝の六時、その一分前。三十秒前、十秒前、一秒前……、

「おはよう、吉田くん」

「うわっ、びっくりした……」

 けたたましいベルの音と共に目覚めた私の主は、私の顔を見るやいなや目を丸くさせる。「一気に目が覚めたよ」それならよかった。お役に立てて何よりだ。

「なに?いつから見てたの?」

「いつから……ずっと?」

「ずっとって……いやいや、寝ててくれていいからね」

 吉田くんは「嘘だろ」と掌で顔を隠す。その間から私を覗き見る瞳。目を合わすに合わせられないといった顔。
 これは羞じらいの仕草だ。けれど私には羞恥を感じる理由がわからない。ただ、感情の素直な発露を好ましいとだけ思う。逃げるように起き上がる彼の背中を追いかけて、私は口を開く。

「でも、私たちに睡眠は必要ないから。それに私が眠っている間にキミに何かあったらたいへん」

「何かってなんだよ」

 私の弁に、吉田くんは思わずといった様子で笑う。「さすがにそこまで治安悪くないから」
 でも油断は禁物だ、と私は思う。殆どの悪魔に分別はない。治安のいい地区だからといって悪魔が出没しないわけではないのだ。警戒するに越したことはない、というのが私の主張である。

「けど危険が迫ったらわかるだろ?契約、したんだし」

「うん、キミが悪魔に襲われてもすぐに駆けつけられるよ」

「なら問題ない」

 吉田くんは寝巻きのシャツから学校の制服に着替えながら、口角を持ち上げる。

「物は試しだよ。せっかく人間らしい生活ができるんだから、睡眠の楽しさも知っておいたら?」

「……なるほど、わかった」

 吉田くんが言うと、何だか説得力がある。……ような気がする。見た目は子供なのに、物言いや眼差しからは年齢以上の聡明さが窺えた。
 だから私は彼の指示に従うことにする。吉田くんが私の主だからというだけでなく、彼自身の資質によって私は服従を誓った。

「朝食はどうするの?」

「ああ、俺、朝はあんまり食べない主義なんだよね」

「そんなところにまで主義主張があるなんて人間は複雑だ」

「好みの問題だよ。悪魔にもあるでしょ、若い女の血の方が好きとか、そういうの」

「さあ?ワガママな悪魔もいたかもしれないけど、忘れた。私には違いなんてよくわからないし」

「俺は会ったことあるよ。けど数年したら俺も忘れちゃいそう。そこまで興味ないし」

 そんな血生臭い話をしながら、リビングへ向かう。
 吉田くんのすっと伸びた背中。白いシャツにかっちりとしたパンツ。学生の標準的な服装。私は自分の体を見下ろす。少し、彼が遠い存在に思える。
 ……なんて、今さらだ。私は悪魔で、彼は人間。デビルハンターで、本来ならば私は狩られる立場のもの。契約を結べた、それだけで私にとってはこの上ない僥倖であるはずなのに。欲張りになってしまうから、己を律することに意識を向ける。欲望のままに動いたら、それこそ悪魔そのものだ。そんなのは嫌だ、と私は思う。

「あれ?どうかした?」

「ううん、なんでもない」

「そう?」

「うん、──ねぇ、それはなに?」

 興味を惹かれて訊ねたのは、彼が取り出した黄色の小箱。包みを破れば中からは茶色いブロック状のものが現れる。まったく未知の物体だ。好奇心を擽られ、彼の手の中を覗き込む。
 吉田くんは「これが俺の朝ごはん」と言う。まさか、これが?これだけで、本当に体がもつのか。

「結構お腹膨れるもんだよ」

「そうなの?」

「食べてみる?」

 躊躇いながらも、頷く。茶色の固形物。歯を立てると、意外と柔らかいことがわかる。舌の上に広がる乾いた感触。仄かな甘さが口内を支配する。

「おいしい……」

「だろ?」

 これで必要な栄養を補給できるというのだから、人間の発明とは恐ろしい。私は「すごい」と、昨日から何度目かわからない呟きを洩らす。
 吉田くんは笑って、コップに注いだ水を飲み干す。

「四時までには帰るから。そしたらアンタの服を買いに行こう」

「服?私は別にこのままでも」

「それじゃ外、出歩けないでしょ」

「……わかった」

 吉田くんは私を人間と同じように扱うつもりらしい。悪魔として見なすなら無駄な出費をしなくても済むのに。「その分働いてくれればいいよ」なんて、そんなこと言われれば私には頷くより他にない。

「じゃあ、行ってきます」

「うん、いってらっしゃい」

 学校に向かう吉田くんの背中を見送って、ドアに鍵をかける。
 打って変わって、しんとした部屋。でもそれは意識の外側の話。私の体は違う。……まだ、心臓がドキドキしてる。
 なんでもない会話、それらすべてが愛おしい。いってらっしゃいと、私が人に言う機会が来るなど想像もしていなかった。悪魔は、孤独ないきものだ。そういうものだとずっと思ってきたから、思いもがけない幸運に体がついていかない。

「……吉田くんの役に立てるようにならなくちゃ」

 私はひとりごち、部屋の中を見渡す。最低限の家具、最低限の荷物。自由に使ってくれていいと言われたけど、この中ではテレビの使い方くらいしか聞いていない。私は電源ボタンを押した。テレビ番組は情報の宝庫だ。私にとって今一番必要なものを教えてくれるだろう。
 事実、その見立ては正しかった。特に興味深かったのは料理番組だ。何しろ私にとって人間の食事は未開の地に等しい。だから道具の扱いから食材に至るまで何もかもが目新しく、私はメモを取るのに集中した。いずれは吉田くんの食事も私が用意できるようになりたい。
 それ以外の時間、つまりは興味をそそる番組のない時は、もっぱら本を読むことに注力した。教科書というものは偉大である。辞書というのも素晴らしい。ただ、進化論などというバカげた思想だけはいただけない。人間を造ったのは神以外の他にいないと、どうしてわからないのだろう?
 そんなことを考えていると、時間はあっという間に過ぎていった。一時間が経ち、二時間が経ち、ふと時計を見れば三時を過ぎたところ。

「もうすぐ帰ってくるかな」

 呟く声は自然弾んだものとなる。
 有意義な時間を過ごせたことに間違いはないけど、でもやっぱりひとりは寂しい。……その感情すら、はじめて知った。これから私は何度吉田くんに感謝することになるだろう?

「…………っ」

 早く会いたい、と浮き足立つ私を、刹那、雷のような衝撃が襲う。

 ──吉田くんが、危ない。

 それはある種の閃きであり、予感であり、天啓であった。私は天の囁きに命じられるがまま、地を蹴った。

「名前……!?」

 一瞬あと。吉田くんの前に飛び出した私の脚は、何か重たいものを蹴り飛ばしていた。
 《それ》はコンクリートにめり込むも、すぐに体勢を立て直す。筒状の身体、拳銃に似た形の頭部。銃口から噴き出す炎で、相手が火炎放射器の悪魔であると悟る。
 なかなかに強敵。吉田くんの契約悪魔──蛸では相性が悪い。
 となれば、ここは私の出番だろう。

「──いけるか?」

 吉田くんが私の後ろに立つ。私の主。私にとって、唯一絶対のひと。

「問題ない、すぐに倒してあげる」

 私は笑って、頷いた。

 ──彼のためなら、私はなんだってできるから。