霊はこれをくださった神にかえる
──病院は、嫌いだ。苦痛と悲哀で彩られた空間。湿気た気配がそれを余計に引き立てる。
焦燥に駆られ、名前はアキの手を取った。ベッドの中で眠る彼。青ざめた膚、身動ぎひとつしない身体。薄らと開いた唇から洩れ出る微かな吐息だけが、今の名前にとっては拠る辺であった。それだけが生を実感させてくれた。それだけしか、支えとなるものはなかった。
「アキくん、……ごめんね」
握り締めた手は冷たい。それがまた悲しくて、名前は泣きたい気持ちになる。
そういえば彼は雪が嫌いだと言っていた。嫌なことを思い出す、と。なのに今の彼は、その膚は、しんと凍りついている。温めてあげたいのに、名前の冷えた手では熱を分け与えることすらできなかった。
「私はキミに、どう償えばいい?」
掠れた声が、ひりつく静寂の中に響く。答えはない。痛みを伴う沈黙だけが名前の隣人だった。これまでも、これからも。
──悪魔は、孤独ないきものだ。
「…………」
どのくらいの時間そうしていただろう。
日差しが勢いを増し、暁の星が溶けゆく頃。彼は、深い眠りから目覚めた。とても静かに、静かすぎるほどに。目覚めた彼は、虚ろな目で名前を見た。
「四課は誰が生き残ってる」
自分だって重傷を負っていたのに、彼がいの一番に気にするのは仲間の安否だった。
どこまでも彼らしい──しかしデビルハンターとしては致命的な、その優しさ。そういうところを名前は好ましく思っていたが、今この時ばかりは彼がもう少し非情であったならと思わずにはいられない。これ以上、傷ついた姿を見るのは嫌だった。
けれど真実を告げないわけにはいかない。偽りを言うことは、禁じられている。
「コベニちゃん、円くん、デンジくん、パワーちゃんは無事だよ」
だから名前はできる限り感情を込めず、告げた。事実だけを述べ、その他の多くのものには触れないようにした。痛みや悲しみといった感情を、圧し殺した。
彼もまた、多くを語らなかった。「そうか」とだけ答え、二人の間には再び沈黙が訪れた。
彼の目は何ものも映していなかった。どこか宙へと投げられた視線。空虚の巣食う目に、名前は痛々しさを感じる。──見ていられない、と思った。
「私はそろそろ行くね。キミは何も心配しないで、後始末なら私たちに任せて。体力の回復に努めるんだよ」
今はひとりにしてあげた方がいい。きっと、泣きたいだろうから。
そう考えて、名前は声をかけた。声をかけ、立ち上がろうとした。
「……アキくん?」
しかしそれを阻むものがあった。彼の手が、名前の手首を掴んでいた。
「どうしたの?」
「いや……」
この行動は彼にとって無意識のものであったらしい。訊ねると、曖昧に言葉を濁す。でもそういった感覚は名前にも覚えがある。自分自身でもわかりかねる行動をとることだってままあるものだ。特に、今のような非常時では。
「他に聞きたいことはある?」
名前は座り直し、ここにいるための理由を作った。この場面ではそうするのが最善だろう。そう思った。或いは、そう思いたかったのかもしれない。今は、誰かと話していたい気分だった。
「敵の、動向は」
「彼らなら車で逃げていったよ。行き先もわかってる。でも相手は一応人間だから、まだ手が出せない。それも時間の問題だけど」
敵の動きを知るのは簡単なことだった。幸いなことに彼らには人目を避けるつもりがなかったらしく、多くの一般人がこの騒ぎを目にしていた。
彼ら自身にその気がなくとも、人は大なり小なり信仰心を持っているものだ。だから彼らは名前の忠実な目として働いてくれた。お陰で敵の居場所も素性もすぐに判明した。あとは準備を整えるだけ。ことを構えるのは、それからだ。
それらのことを、名前はできるだけ明るく伝えた。彼が安心できるよう。安心して、体を休めることができるよう。言うと、アキは「そうか」とだけ呟いた。その声には喜びも安堵もない。無機質な、音の連なり。傷は深い。
「アキくん、」
思わずだった。思わず、手を伸ばしていた。今はひとりにしてあげた方がいい、そっとしておいてあげるべきだ。そう思ったのと同じ心で、名前は彼を抱き締めていた。
「なにを……」
「──これなら、誰にもわからないでしょ」
囁くと、ちいさく息を呑む音がした。
それはいつの日かの再現だった。あの雨の日に彼がしてくれたのと同じことを名前は口にした。そして彼の方も同じように、名前を受け入れた。
「ああ……」
そうだな、と答えた声が震えていたのにも気づかないふりをする。
名前はただ黙したまま、彼の頭を胸元に抱き寄せた。切れ切れに聞こえる声も、シャツを濡らす熱い涙も、自分の胸にだけ仕舞っておくことにした。
夜は過ぎ去り、眩しいほどの朝がやって来る。黄金色の太陽、のどかな光の満ちる空。時は変わらず移ろい、世界は変わらず美しいまま。沈みゆく月だって、今宵もまた夜空に君臨するだろう。
──けれど、彼女にはもう二度と会えないのだ。
名前は彼女のことを想った。屈託なく笑う横顔を、彼を見つめる温かな眼差しを。声の高さや膚の色、そんな些細なことまでも思い出していた。思い出しながら、目を閉じた。眼裏によみがえる面影を閉じ込めるように。この悲しみも含めて忘れてしまうことが、一番恐ろしかった。
「…………」
彼女の名前を呟きかけて、やめる。返事はないと、実感させられるのが嫌だった。
──目の奥が熱い。散々泣いて、飽きるほど泣いて、そのはずなのに、また泣いてしまいそうだった。
その感情を抑えたくて、彼を抱き締めたのかもしれない。ひとりは、寂しいから。寂しすぎるから、身を寄せ合うしかないのだ。
名前は彼を抱く力を強めた。来客が訪れるまで、ずっと。抱き締めながら、彼女の願いについて考えた。
彼女は彼の幸福を願っていた。──せめてそれだけは、叶えてあげたい。
なのに思いも空しく、彼は未来の悪魔と契約を結んでしまったのだ。