雨降り流みなぎり、風吹きて


 手を離すと、男はぼんやりとした足取りで大通りへ向かっていく。
 この路地裏で起こった出来事は彼の記憶には残らない。どんな情報を敵に流したかも、そもそも名前の顔すら男が覚えていることはないのだ。その背を見送り、名前は思考を巡らす。
 男は普通の人間だった。暴力団に属しているだけの、普通の人間。彼の仲間の多くも悪魔とは関わりのない生活を送っていただろう。……銃の悪魔にさえ、利用されなければ。

 ──彼らのことを、哀れだと思う。

「どうだ?何か収穫はあったか?」

「岸辺隊長、」

 耳慣れた足音に振り返る。
 暗がりから姿を現すのは草臥れた顔の男。岸辺はこんな時もアルコールを摂取するのをやめない。なんでも、スキットルを手放したら死んでしまう体質だとか。『冗談だよ』と姫野は言っていたけれど、名前にはすべてが嘘だとは思えなかった。──アルコールは、現実からの逃避に有効だ。

「どうやら彼らは殆ど何も知らされていないようです。仲間を殺された怒りを利用されているだけでしょう。……ただの、数合わせに過ぎない」

 名前の呟きに、岸辺は「そうか」と応じる。応じたけれど、名前を肯定することはない。むしろ呆れた目で、名前を見下ろした。

「それを知ってどうする?俺たちはデビルハンターだ。慈善家じゃない」

 哀れみは必要ない。相手を知ることも、また。
 それらはこの仕事をする上で一番に切り捨てるべき部分だった。すべてが救われるほど世界は優しくないし、すべてを救えるほど名前は万能じゃない。人であれ悪魔であれ、できることは限られている。
 そんなことは百も承知。デビルハンターになった時に散々叩き込まれたはずだ。なのにどうして今さら、こんな感傷的な気持ちになるのだろう。
 大切な仲間を殺された。その憎しみだけで戦えたらよかった。

「……すみません、せっかく先生から指導を受けたのに」

「謝ることはない。健全な証拠だ」

 「デビルハンターには向かないが」と言い添えて、岸辺はスキットルを傾ける。その姿は西部劇さながらだ。彼の周りでは乾いた風が吹いている。
 名前は微かな笑みを刷く。「そんなものに向いている人なんて、どこにもいないですよ」
 誰だってそうだ、と名前は思う。乾いた言葉を吐く岸辺も、悪魔に怯えるコベニも、──デビルハンターという仕事に固執する彼も。

「俺からすりゃ、お前もアキも似たようなもんだがな」

「……アキくんの話なんてしてませんけど」

「してたろ。顔がそう言ってる」

「…………」

 名前は思わず両頬を押さえた。
 けれど大きな変化があるようには思えない。そもそも、いったいどういう顔だというのか。どういう表情をしていたら、彼のことを考えているのがバレてしまうのか。岸辺の方を窺い見るが、答えをくれるほど彼は優しくない。
 諦めて、溜め息をつく。……降参だ。

「……アキくん、未来の悪魔と契約したんです」

「らしいな、マキマから聞いてる」

 岸辺は何てことない顔をしている。いつもの、表情の死んだ目。そこから本心を窺い知ることはできない。
 けれど否定も返ってこないことを知っているから、名前は安心して言葉を続けられる。

「私、止めたんです。姫野ちゃんが望んでたから、……ううん、そうじゃない、それだけじゃなく……私自身が、嫌だったから」

 俯くと、長い影が落ちる。黄昏時、暮れゆく空。鳥たちが黒い群れとなって彼方へと飛び去る。彼方へ、──彼らの塒(ねぐら)へと。
 ……あのあと。彼の病室には、訪問客があった。ひとりは姫野の妹。そしてもう一組は、京都からの使者だった。
 京都公安、その対魔課に属する二人は、アキに新たな悪魔との契約を持ちかけた。今回の戦いで狐の悪魔との契約が破棄されたためだ。呪いの悪魔の力は無駄撃ちできないから、これは当然の成り行きといえよう。
 しかし名前にはそれを受け入れることができなかった。どうしたってゆるせなかった。だから名前はアキの返事を待たず、彼らを病室から叩き出した。『早川アキはまだ重傷だ』彼の怪我は自分が治したのに、そんな見え透いた嘘までついて。

「でもアキくんは止まらなかった。……私じゃ、止められなかった」

 翌日、彼は未来の悪魔と契約を結んだ。名前になんの相談もなく、彼は勝手に決めて、勝手に行動を済ませてた。名前が駆けつけた時には、すべてが終わっていたのだ。
 でも重要なのはそんなことじゃない。何より一番悲しいのは、彼が自分の死を特別なものだと認識していないこと。その先の世界をちっとも考えてくれていないことだった。
 ……大切な人を喪うのが、どれほどの痛みを伴うものなのか。彼ならばよく知っているはずなのに。

「ああいうやつは止まらないよ、誰がなんと言おうともな」

「先生にも止められませんか?」

「無理だろ。姫野もお前もダメだったんだから」

 名前は苦く笑う。「たしかに」私はともかく、姫野ちゃんでも曲げられなかった意志は、もう手の施しようがない。
 しかし、と名前は思考する。この結末は、果たして救いになるのだろうか?そう考えたものの、答えは一瞬で導き出された。
 答えは、否。彼を好いていた姫野であっても、──彼を好いていたからこそ、彼女もまた苦笑したに違いない。

「それでも、やれるだけのことはやりますよ。私にできることなら、なんだって」

「そうか」

「はい、それに今回は私だけでしたから。ほら、デンジくんとかにも協力してもらえば……彼やパワーちゃんは、アキくんがいなくなったら私よりよっぽど困るじゃないですか」

「まぁアキほどまともな飼い主が回ってくるかはわからんな」

「でしょう?」

 気を取り直して、名前は腕捲りする。
 そうだ、まだ希望はある。名前はマキマによって《早川家》と名付けられた三人を思い浮かべる。
 今はまだ家族というにはほど遠いが、あれで彼は愛情深い人間だ。思いを寄せられれば寄せられただけのものは返してくれる、はず。だから三人の仲を今以上に深めれば、アキにも未練が生まれるだろう。デンジもパワーも、保護者なしでは生きていくのが難しい。彼の責任感の強さは賭けるに十分あたいすると名前は考えた。

「ありがとうございます、先生。お話、聞いてくださって」

「俺は別に何も聞いちゃいない。お前が勝手に喋ってただけだ」

「あはは、こういう時は素直に受け入れるのが一番ですよ」

 少し、すっきりした。やはり話を聞いてもらえるというのは素敵なことだ。人間でなければ果たせない行為。そうしたものを、名前は好ましいと思う。だから人間が好きで仕方ない。
 名前は晴れやかな顔で笑って、岸辺の腕に手をかけた。

「お礼にご飯でも奢りますよ、さぁ遠慮なくどうぞ」

 なんでもこい、と腹を括ったのに、岸辺は「じゃあラーメンでも食うか」と返してくる。
 その程度でいいのか。名前は意外な気持ちで目を丸くする。「遠慮なくって言ったのに」せっかくなんだし、もっと欲張ってくれても断るつもりはなかった。なのにこういう時に限って、岸辺は「いや、今はラーメンの気分なんだ」と言う。

「それにお前に奢られるのはちょっとな……」

「へぇ?今さら真人間みたいなこと言うんですね」

 彼の指導を受けていた頃なんてそれこそ毎回のように集られていた気がするが、何か心境の変化でもあったのだろうか?
 名前が小首を傾げると、「大人には色々事情ってもんがあるんだよ」とぼやかれる。その横顔はなんだか新鮮で、彼にしては珍しく温かなものを微かに感じ取ることができた。

「そういや吉田には連絡したか?心配してたろ、あれだけニュースで大騒ぎされれば」

「ええ、まぁ……怪我はないかって聞かれたので、無事だってことは。詳細は勿論口外してないですけど、しばらく忙しくなるとも伝えてあります」

「……ま、及第点ってところか」

 岸辺は呟き、スキットルを懐に仕舞い込む。どうやら飲みきってしまったらしい。ずいぶん燃費の悪い体だ。
 ──いや、それより気になる点が名前にはある。

「何の話ですか?ていうか私いま、知らない間に採点されてました?」

 岸辺は『及第点』と言った。つまりはぎりぎり合格ということ。だがしかし、果たしてそれは喜んでいいものか。

「気にするな。老いぼれの世迷いごとだ」

「いやいや、そー言われると余計気になるじゃないですか!」

「なら忘れろ」

「そんな無茶な。忘却は私の能力外ですよ」

 答えをせがむも、岸辺は沈黙を保ったまま。悲しいかな、名前の『お願い』は宙に消えていった。