舌は火なり


 海風が髪を揺らす。旬にはまだ早いと告げてくるその冷たさに、名前は首を竦める。

「別荘なんて優雅なものだね。私も余生はこういうところで過ごしたいなぁ」

 戯れに、天使の悪魔は一瞥をくれる。退屈だ、と欠伸を噛み殺して。

「そんな長生きするほどの価値がこの世界にあるとは思えないけどね」

 彼には景観美というものが認識できないらしい。ついでに言えば夢見る本能さえも失っているときた。

 ……可哀想に。

 なんて、哀れむのは簡単だ。名前も自分の言葉が戯れ言に過ぎないことは理解している。──悪魔といういきものに、夢を語る資格はない。

「マキマさんは大丈夫かな」

 話題を変えようと、名前は背後に立つ二階建ての建物に視線をやる。木製のそれは火をつけたらよく燃えてくれそうだ。
 そんな物騒なことを考えてしまうのは、この中に単身乗り込んでいったマキマを思ってこそ。しかもこの土地の所有者はヤクザ組織の組長だという話。『これは銃撃戦になるやも』と、名前としては内心穏やかじゃない。
 完全にヤクザ映画の影響を受けている名前に、同じく待機を命じられた天使の悪魔は冷ややかな目。「それ、五分前にも聞いた」と呆れたっぷりに突っ込みを入れる。
 けれど名前にはそんな反応をされる理由がわからない。果たして五分前に何があったのか?どうにも思い出せず、首を傾げる。

「そうだっけ」

「僕の記憶力を疑うの?」

「さぁどうだろう?記憶なんてのはとても不完全なものだからね。結局のところは最後の審判に委ねるしかないよ」

 諳じるのは覚えたての知識。名前が得意気に披露すると、対する少年の眉間には深い皺が刻まれる。

「……めんどくさいな。今度は何に影響を受けたわけ?」

「人間知性論だったかな。ジョン・ロックっていう哲学者の本。すごいよね、人間は。面白いことを考える」

 この手の思索は元来不得手であったが、永久機関について調べるうち、あれよあれよという間に深みに嵌まっていた。というのも、友人の青年が何くれと世話を焼いてくれるからだ。ひとつ読み終えればまた新たな本が貸し出され、知識をつければ彼と議論を交わす羽目になる。お陰でいい勉強になった。……まぁ、どれもこれもデビルハンターとしては役に立たない知識だろうが。
 それでも過去の人間の思考を辿るのは、彼らの目線に立てたようで気分がいい。擬似的にではあっても、人間の真似事ができるのは名前にとって幸いであった。
 しかし厭世家は今日も溜め息をつく。「同意を求めるなよ」そう言った彼の目は諦めに慣れきっていた。

「あんまり深入りしすぎない方がいいと思うけど」

「心配してくれるの?」

「まさか。めんどくさいことに巻き込まれたくないだけ」

 名前は隣に立つ少年を見る。大人びた横顔を、擦りきれた眼差しを。
 人間とは関わらない方がいい。その主張に異を唱えるつもりはない。正論だ、と名前も思っている。悲しいことに、世界は人間と悪魔の間に深い隔たりを作った。狩るものと狩られるもの。立場が逆転することはあっても、同じにはなれない。
 それに何より、人間は弱い。悪魔よりもずっと短命で、簡単に死んでしまう。この三年あまり、名前の横を駆け抜けていった命は数えきれないほどある。

 ──それでも、私は。

「私は人間が好きだよ。今は、昔よりもっと。近づきたいと思うし、それがきっと私のどうしようもない本能なんだ」

 この感情は与えられた役割ゆえのものかもしれない。信仰を司る悪魔。神への信仰は、人間なくしては生まれないから。だから、こんなにも愛おしい。ひとを、愛したいと思う。
 名前は笑った。「私はその本能に従うよ」これは自分で選んだ道。選択の結果だ。
 信仰の悪魔でよかった、と今なら心からそう言える。みんなを愛せてよかった。愛し、悼むことができて、──本当に、よかった。この心を与えてくれた世界に、感謝すらしている。

「だから傷ついたっていいんだ。むしろこの痛みすら愛おしい。人間になれたみたいで、嬉しいよ」

「……そ、」

 天使の悪魔は慈悲深い。肯定も否定もせず、「忠告はしたからね」とだけ言った。
 その表情は靡く髪に遮られて見えない。でも多分、とても人間らしい顔をしているんだろうな、と名前は思った。私たちは似た者同士だ。

「でも最近は全然遊びに行けなくて寂しいよ。観たい映画もあったのに」

 声音を明るいものに変え、名前は言う。
 友人の彼とは先日連絡を取った。どうやら随分と心配をかけてしまったらしい。怒られるのが、あんなに嬉しいことだとは知らなかった。
 詳細は話せなかったが、何も言わずとも彼は理解してくれた。今回の事件は公安のデビルハンターを狙ったものだ。だからこの一件が片付くまで、民間人の彼とは会えない。彼は『巻き込んでくれてもいいのに』と言ってくれたけれど、そんなのは名前自身が許せなかった。

「しょうがないだろ。あんなことがあって、今うちはピリピリしてるんだから」

「ほんとやだよね、戦いなんてさ。せめて話し合いの席くらい用意したらいいのに」

「前者には同意。後者は無理でしょ。奇襲かけなきゃ向こうに勝機はなかったんだろうし」

「嫌な世の中だねぇ〜……」

 会話が途切れると沈黙が訪れる。波音は遠く、吹く風は弱い。地平線は穏やかに凪いでいる。
 平穏。安寧。そういった言葉で表現できるほどの世界なのに、どうしてこうも血気盛んなのか。

「遅いね、マキマさん。大丈夫かな」

「……それ、四回目」

「天使くんは記憶力がいいねぇ」

 名前は建物を見上げた。静まり返った別荘。怒声も銃声も聞こえてこない。その代わり、中の様子もわからないから不安になる。
 天使の悪魔と信仰の悪魔。二人はマキマの保険だった。合図があれば突入する手筈だったが、マキマからの連絡はない。だから何の問題もないだろうと天使の悪魔は判じる。

「あのマキマが人間ごときにやられると思う?」

「わからないよ、マキマさんだって可愛らしい女性なんだから」

「可愛らしい、ねぇ……」

 彼は鼻で笑う。「そんなタマかよ」天使の悪魔のくせして、口が悪い。いったい誰に教わったのか、それともまさか本能で?名前は眉を寄せる。

「言葉が汚いよ、天使くん」

「はいはい、悪かったよ」

 実に嘆かわしいことだ。 口を尖らせる名前を無視して、彼は名前の背後へ視線を投げる。

「ほら、飼い主のお出ましだ」

 振り返ると、「おまたせ」と微笑むマキマと目が合う。彼女は変わらない。別荘に入る前も、今も。血の一滴も浴びることなく、涼しい顔で立っている。名前はホッと息をついた。

「どうでしたか、マキマさん」

「上手くいったよ。みんな素直に喋ってくれた」

 駆け寄ると、「待たせてごめんね」と頭を撫でられる。
 ……気持ちいい。気持ちいいけど、これでは本当に犬にでもなった気分だ。そうわかっていてもなお嫌な感じがしないから始末に負えない。手遅れだね、と天使の悪魔の見透かした目が突き刺さる。

「お荷物お持ちしますよ」

 来た時と同様、マキマはその手に紙袋を抱えていた。てっきり手土産かそれに類する何かだと思っていたのだが、こうして持ち帰ってきたということは違ったらしい。それか、受け取ってもらえなかったか。
 ともかく、形の崩れるものなら厄介だ。車での移動中にもしものことがあってはならない。助手席に座る予定の天使の悪魔に持たせようと、名前は申し出たのだけれど。

「ありがとう。でも大丈夫だよ、そんな大事なものじゃないから」

 意外なことに、マキマは紙袋をあっさりと後部座席に置いた。手で支えることもしない。殆ど放り投げるような形であったから、名前の方が『本当に大丈夫なのか』とハラハラした。

 ──いったい、紙袋の中身はなんなのか?

「詮索しない方が身のためだよ。……たぶんね」

 車に乗り込みながら、天使の悪魔は訳知り顔で肩を竦める。
 彼は冗談を言う質ではないし、嘘もつかない。そんな彼の言うことだから、名前は素直に従うことにした。

 ──恐らく、この選択もまた正しいものだったのだろう。

 マキマの視線を感じながら、名前はエンジンをかけた。