ミッドナイト・ラン
射出された炎を、寸でのところで躱す。
舞い上がる黒煙、空気の焦げる臭い。冷や汗が、背中を伝う。──まさか学校帰りにこんなものと遭遇するハメになるとは。
「今日はバイト休みなんだけどなぁ……」
俺の前には無機質な成りの悪魔が一体。ライフル銃に似た形状と炎による攻撃から、火炎放射器の悪魔ではないかと推察する。スピードではこちらが上だが、殺傷能力では完敗だ。厄介この上ない、相手。
まずいな、と俺は内心で呟く。考えを巡らす間も攻撃の手は止まない。墨を吐いても炎のお陰で目眩ましにもならないし、間合いを詰めようものならその瞬間に燃やされてしまう。退くことも、攻めることも不可能。俺の蛸では相性が悪い。
「……けどまぁ、負けるつもりはないけどね」
ここで死んだとしても、後悔するような人生は送ってない。ただ今は、生きなくちゃいけない理由ができた。だから死ねない。死ぬわけにはいかない。
俺は名前のことを考えた。従順な彼女のことだから、今ごろ家で大人しく俺の帰りを待っていることだろう。『いってらっしゃい』と小さく手を振る姿が脳裏によみがえる。
俺が死んだら、彼女はどうなるだろう?見送りの言葉なんて、もう随分と長いこと聞いていなかった。俺は彼女の信頼を裏切りたくないと思う。
──その、思いが通じたのか。
「名前……!?」
向かってこようとした悪魔が、反対方向へと吹き飛ばされていく。
でも俺の力じゃない。俺を守るようにして立ちはだかる名前が、この悪魔を蹴り飛ばしたのだ。彼女の白く、しなやかな脚が、信じられないほどの威力を発揮したのを、俺は確かに目撃した。
「──いけるか?」
紡いだのは、殆ど確信。名前が頷いてくれると俺にはわかっていた。──俺は、名前を信じている。
「問題ない、すぐに倒してあげる」
笑って、名前は悪魔に向き直る。ひび割れたコンクリート。名前の蹴りの威力を推し量ることができる。
が、相手も悪魔。効いてはいるが、倒すまでには至らない。
ゆらり、巨躯が起き上がる。
「──っ!」
シリンダーはふたつ。それを背中に背負っているのは人間が火炎放射器を使う時と変わらない。違うのは、底なしのガソリンを持っているという点。長期戦は不利だろう。一気に片をつける、という名前の意見には賛成だ。
俺は視線を走らせる。名前、彼女は今、噴射される炎を躱しながら様子を窺っている。そんな彼女と、目が合う。
「蛸、」
呟きと共に駆け出す足。名前の攻撃に応戦していた悪魔の注意が、こちらに向けられる。
……そこを見逃す、彼女ではない。
「『旧約聖書サムエル記上、十七章四十九節、』」
「『ダビデはその中から一つの石を取り、』」名前は唱える。蛸の足のひとつが燃やされる。火炎放射器の悪魔はわらう。「『石投げで投げて、ペリシテびとの額を撃ったので、』」名前は言葉を続ける。蛸が傷ついた足を切り離す。悪魔は好機とばかりに跳躍する。
──「『石は』、」その体に向けて、名前は人差し指を向ける。
「『石はその額に突き入り、うつむきに地に倒れた』」
言い終えると同時に、路傍に落ちていた石のひとつが空気を裂いた。宙を駆け、悪魔の額へと向かっていった──のだろう。恐らくは、と付け加えなくてはならないのは、その速度が目にも止まらぬものであったからだ。
しかし、悪魔の方が一枚上手だった。
「弾かれたか……っ」
「…………」
呻く俺と、対照的に名前は沈黙を守る。表情は固い。悪魔が、再び名前を見る。
「名前ッ!!」
俺と名前の間には大きな距離があった。何より彼女のいる場所は、悪魔の射程範囲内。炎が十分に届く距離だ。急いで蛸を走らせたとしても、守りきれない。
──名前が死ぬ。
──想像に、心臓が焼かれる感覚があった。
「『わたしはみなぎる雨を降らせる』ッ!」
しかし俺の想像が現実のものとなることはなかった。聖書の一節は名前の元に大量の水を呼び集め、そしてその水は炎へと立ち向かっていった。消火器さながら──いや、それよりも勢いがいい。
これには余裕綽々だった悪魔もたじろぐ。が、退く様子は見られない。勇ましく吠え、銃部を構え直す。
「……そろそろかな」
名前がそう呟いた。……ように、俺には見えた。
「なにを──」
その瞬間だった。どこかで鈍い音がした。火の粉が舞い、それが悪魔の体にも落ち──
「────ッ!!」
絶叫が、こだました。
火だるまになったのは悪魔の方だった。火炎放射器の悪魔が、自身の生み出した炎に焼かれていた。
なぜ?
──そう考えて、俺はようやく気づく。先ほどの音の正体。足元を転がる石ころ。名前が放った礫は、まだ生きていたのだ。……彼女がそう、命じたから。
悪魔の手で弾かれた石は、たった今、火炎放射器の燃料タンクに穴を開けてくれた。
「よかった。悪魔にも蛸みたいな自己認識機構がついてたらどうしようかと思ってたから」
水の障壁を作りながら、名前が言う。歩み寄ってきた彼女の視線は、俺の契約しているもう一体の悪魔へ。蛸を、その足を見つめ、名前は「ありがとう」と手を伸ばす。
「キミが隙を作ってくれたおかげ。助かったよ」
しゃがみこんだ名前が蛸の足を撫でている後ろで、悪魔が盛大に燃えている。
そういえば火炎放射器を使っている間、人間は無防備になると聞いたことがある。まさかそんな弱点まで悪魔に反映されているのか。──なんとも不思議ないきものである。
「けどよく知ってたね、蛸の生態なんて」
「偶然だよ。ちょうど、本で読んでいたところだったから」
「本?……あぁ、生物の教科書かな」
「うん。進化論には賛同しかねるけど、読み物としてはとても興味深いものだった」
「キミのことも知れたし、」と名前はちいさな笑みを浮かべる。蛸を撫でるその手つきはいやに優しい。蛸の方も満更でもないらしく、喜んでいるのが俺にまで伝わってきた。
仲良くなれたならいいことだと思う。……たぶん、いいことのはずだ。
「そういえば、吉田くん以外にこの悪魔と戦ってた人はいないの?」
ふと名前は立ち上がり、小首を傾げる。
「いや?急に襲いかかってきたもんだから、仕方なく俺一人で応戦してただけ。他には……一般人しかいなかったけど」
「そっか」
しかし名前は納得していない、らしい。
「……でも、あれは手負いだった」
誰かと戦った形跡があったのだ、と。そう呟いた名前に、俺は息を呑む。辺りに広がるのは静寂。一般人はとうに避難している。俺たち以外に人の気配はない。
けれど、名前の言葉は俺の中で小さな棘となって残り続けた。
「……まぁ、とりあえず勝てて良かったよ。ありがとう、名前」
「ううん、私は当然のことをしたまで。キミが無事なら、それでいい」
名前は何てことないって顔で言う。謙遜とか、そういうのではない。彼女は心から『当然』だと思っている。俺を──人間を守ることは彼女にとって当然の行いなのだ。名前は、信仰の悪魔だから。
「……」そんな今さらの、当たり前の事実が今は何だか腹立たしく、「こら、」俺は名前の頬を引っ張った。
「にゃにするの」
「名前が素直にお礼を受け入れてくれないからだよ」
「それは……ごめんなさい?」
「うん、今回は許してあげる」
頷くと、名前は疑問符を浮かべながらも「わかった」と答える。答えたからには、彼女は約束を守るだろう。……信仰の悪魔だから。
「これ、どうするの?」
すっかり忘れていたけれど、火炎放射器の悪魔は気を失っていた。その哀れな姿にもはや脅威は感じられない。
俺は指差す名前に消火を指示し、そのあと蛸の足で縛り上げることにする。
「公安のデビルハンターに連絡する。まぁ、この騒ぎだしじきに来るだろうけどね、一応」
「生け捕りにする理由は?」
「生きたまま公安に引き渡すとご褒美が貰えるんだよ」
要するに、お金だ。悪魔の生態は研究の対象であるし、上手くいけば契約を結べるかもしれない。しかし悪魔を生かしたまま捕らえておくとなると、民間のデビルハンターには荷が重い。そんな施設も、人員も、民間には用意されていない代物である。
「ってことで、公安のデビルハンターしか頼れるのはいないってワケ」
「そっか」
頷いた名前の目は凪いでいる。公安には特段の興味はないようだ。
俺は喉元まで出かかった言葉を呑み込んだ。──公安の方が、多くの悪魔と戦えるかもね。そう、冗談でも言えなかった。
俺は名前を見下ろした。信仰の悪魔。聖書の言葉を実現できる、人ならざる存在。
けれど思い出されるのはそれとはかけ離れた記憶だった。俺に『いってらっしゃい』と笑いかけた姿であり、契約したのが俺でよかったと言ってくれた時の真剣な様子であったりした。
「あのさ──、」
俺が声をかけようとした時、ふ、と名前の体がよろめいた。
「名前ッ!?」
慌てて抱き止める。──びっくりするほど、軽い。なんだこれは?臓器すら入ってないんじゃないかってくらいに重さが感じられなかった。それに、膚の白さときたら!抜けるような、とか、そんな芸術的な表現では収まらないほどの白。青ざめている、血の気がない──そう考えて、ハッとする。
そういえば、悪魔は血肉を食らうものだ。
「名前、もしかして──」
「……そういえば、お昼ごはん食べてなかった」
うっすらと開かれた目が、俺を見上げる。乾いた唇がか細い息をつく。小さな手が、薄い腹部をさする。
「吉田くんから十二時には食べるものだって言われてたのに、忘れてた。ごめんなさい……」
「……なるほど、」
神妙な顔で謝る名前に、脱力する。たしかに。たしかに人間だって空腹になれば倒れもする。いや、ここまではいかないかもしれないが、名前はつい先ほどまで大立ち回りを演じていたところだ。エネルギーを消費した、なるほど、納得の理由である。
しかし生憎と手持ちの食料はない。思案し、それから俺はシャツのボタンを外した。
「吉田くん?」
「俺の血、飲みなよ。それでちょっとは回復するでしょ」
「でも、」
「いいから」
躊躇う名前の前に、俺は首筋をさらす。
悪魔を目の前にとんだ自殺行為だ。冷静になれ、と大人ぶった俺が囁くが、聞こえないフリをする。だって俺はまだ子供だから。『あなたの心の赴くまま、あなたの目の望むままに歩め』ってね。
「……痛かったら、言ってね」
気が進まない様子の名前を説得し、歯を立てさせるところまで進める。
俺は目を閉じた。痛みを堪える準備はできていた。
けれど意外なことに、痛みはほんの微かにしかなかった。むしろ心地のいい酩酊感に近いものがあって、顔を離した名前に俺は目を瞬かせた。
「え?終わり?」
「うん」
「ごめんね、ありがとう」と名前は言うが、俺としてはあまりに一瞬のことで呆気に取られるばかり。いや、別に痛い方がよかったなんてそんな奇特なことを言うつもりは毛頭ないが。
「まぁいいや、名前が動けるようになったんなら」
「面目ない……」
「だから、いいって。それよりさっさと公安呼ぼう」
後ろを見れば、『まだか』と蛸が文句を言いたげである。悪いことをした。俺は急いで公衆電話に向かおうとして──もうひとつ頭から抜け落ちていたことを思い出す。
「……その前に、名前のカッコ、どうにかしなきゃね」
「ん?」
そう、それは名前の衣服のこと。見慣れてしまっていたけど、かなり際どい格好をしている。何せ今の名前が着ているのは、俺の貸したオーバーサイズのパーカー一枚きりだ。辛うじて下半身は隠れているが、とても大勢の前に出る格好じゃない。……これで本人に自覚がないというのがまたたちが悪い。
「言ったでしょ、女の子が下着見せちゃダメだって」
「うん。でもこれ元はといえばキミのものだし、……あ、そっか。吉田くんだって自分の下着を見られたくないってこと、」
「いや、全然違うけど」
俺は溜め息をつき、道端に放り出してあった鞄の中を漁る。学校帰りでよかった。ちょうど、ジャージのズボンがある。
「とりあえずこれ、履いてて」
「わかった」
大人しく言うことを聞く名前を見ながら、俺は考える。
──やっぱり、今回の褒賞金で名前の服を買おう。