アキくんと雪合戦をする
三年くらい前のアキくんと雪合戦する話。
しんしんと降りしきる、白。地上を浄化するその色に、私は驚きと歓喜の入り交じった声を上げる。
「アキくん、雪、雪だよ!」
初めて迎える、雪の朝。その感動を分かち合いたくて、私はアキくんの部屋のインターホンを連打する。ピンポンピンポンピンポン「やめろ、近所迷惑だろ」出てきたのは顰めっ面のアキくん。私より少し歳上の、初めてできた後輩。彼は真面目で、口うるさい。でもそんな彼を私は気に入っている。
彼は、『善い人』だ。他人の心を思いやれる、優しい人。だから私の我が儘にも耳を貸す。「外に行こうよ」と袖を引けば、嫌々ながらも付き合ってくれる。そんな彼の隣り人でありたいと、私は心から思う。
「なんだ、大して積もってないじゃないか」
階下へ降り、雪原に立つ。口から洩れるのは白い靄。吐き出されるそれはまるで自分が幻想的な生き物にでもなったみたい。例えば……そう。ドラゴンとか、そういう類いの。
でもアキくんは期待外れみたいで『やれやれ』と首を振る。「騒ぐから、どんなもんかと思ったら」さくりと気持ちのいい音がして、足が沈み込む。白の世界。清純なものの一部になれたなら、どんなにいいだろう。
「ええ〜、アキくんは理想が高すぎるよ。私、こんなに積もったの初めて見たもん」
「大袈裟だろ。何年か前には東京にもこれよりもっと雪が降って、電車が止まったりだの騒ぎになったし」
「アキくんは記憶力がいいねぇ」
この雪よりずっと冷めたアキくんを放って、私は雪原に足を踏み出す。
さくり、さくり。初めて知る音、感触。掬い上げたそばからこぼれ落ちる、白。すべてが新鮮で、心に響く。この世界はなんて美しいんだろう、と思うことができる。
「えいっ」
「な……、つめたっ」
私が投げた雪玉はアキくんの胸に見事命中。それを素手で振り払ったアキくんは、悴む指先に眉を寄せる。アキくんはもっと怒ったり泣いたりした方がいい。その方がずっと人間らしくて、自然だ。
「あはは、そんなとこで突っ立ってるのが悪いんだよ〜う」
「この……っ」
「わぁ、アキくんが怒った〜!」
煽る私に柳眉をつり上げたのを見て、私は笑う。でもアキくんは二歩三歩と雪原に踏み入れたところで、深々と溜め息。「バカには付き合ってられない」なんて、大人びたことを言う。
「つまんな〜いっ!」
まだ未成年なんだから、限られた時を大切にしたらいいのに。あなたの心の赴くまま、あなたの目の望むままに歩め。
……なんて、聖書を引用したところで、素直に聞く耳を持つアキくんじゃないのはわかってる。
「おい、こんなとこで寝そべったら風邪引くぞ」
「バカは風邪引かないので〜す」
背中に感じる雪。冷たくて柔らかくて、不思議と気持ちいい。私は目を閉じて、しばし夢想する。
アキくんはいったい、どんな子供だったのだろう?悪魔にすべてを奪われる前、主の不在を知らなかった頃、──主の救いを信じていた頃の、アキくんは。
「アキくんって雪国出身っぽいよね」
「……ああ、そうだけど」
「やっぱり。肌が白くて、きれいだ」
目を開けると、膝をついて私を覗き込むアキくんが見えた。
空の灰色と、対照的に透き通った肌の色。「ほんとうに、きれい」アキくんに似合うのは墓場じゃない。神殿だ。汚れたものと聖なるもの。彼の心には偽善と不法が一切ない。だからこんなにも美しいと思う。
「もっと沢山の雪が降ったら、雪合戦がしたいなぁ。みんな呼んで……姫野ちゃんなら付き合ってくれるよね」
「まぁ、そうだろうな」
「あとは……岸辺先生とか、マキマさんは無理かなぁ」
「マキマさんはこんな子供みたいな真似しない」
「だよねぇ」
アキくんは私とは違う。私なんかよりずっときれい。でもひとつだけ共通項がある。──マキマさんを、神に対するように愛しているという点だ。私たちはマキマさんに夢を見ている。……見させて、もらっている。
「雪だるまも作りたいし、あとはー……、ねぇ、かまくらってどうやって作るの?」
「アレは──って、東京じゃ無理だろ。雪が足りない」
「ええ〜!そんなぁ……」
「ぶすくれたって無理なもんは無理だ」
「うーん、……雪の悪魔とかいないかな」
「そう都合よく現れてたまるか」
アキくんは手を伸ばす。「ほら、いい加減家ん中入れ」引っ張り起こされながら、私はつくづく思う。アキくんは、やっぱり優しい。私についた雪を手ずから払ってくれる。おまけに家にまで入れてくれるなんて。
「コーヒーが飲みたいなぁ。なんだか冷えてきちゃった。ね、アキくん淹れてよ」
「それくらい自分で淹れろ。どこに何があるかは知ってるだろ」
「アキくんのケチ、冷血、イケメン」
「はいはい」
アキくんはさっさと歩いていく。その背中を追いかけながら、私は空想する。
お兄ちゃんというのは、こんな感じなんだろうか。アキくんといると心地がいい。家族とは安らぎの場であるらしいから、アキくんが私の家族だったらよかったのにと思う。私には何かを与えることはできないから、ただの夢物語でしかないのが残念だけれど。