九月に降る風
エンドロールが終わっても、なかなか座席を立つ気分になれなかった。私としてはそんなことより涙を拭うので必死だ。
「はははっ、酷い顔」
そんなの、吉田くんに言われなくたってわかってる。きっと涙と鼻水でぐちゃぐちゃだろう。せっかく貰ったハンカチも、何の役にも立ちやしない。
私は抗議の声すら上げられず、仕方なく吉田くんを睨んだ。
──キミが映画館になんか連れてこなければ、こんなことにはならなかったのに!
それが通じたのか、吉田くんは「ごめんごめん」と私の目許を拭う。
でも笑みまでは隠しきれない。残滓は目に、声に、唇に。気配を察して、でも私に抵抗の余地はなかった。まずはこの壊れてしまった涙腺を修理するのが先決だ。
明るくなった映画館。有り余る眩しさの中、私は吉田くんに引きずられるようにして席を立つ。映画は入れ替わり立ち替わり上映される。清掃員が私たちを待っていた。
「映画がこんなに泣けるものだとは思わなかった」
「まぁ物によりけりだけどね。名前のお気に召したんなら、これを選んで正解だったよ」
出口に向かいながら、鼻を啜る。まだエンディング曲が耳についている。それがまた感情を盛り上げるもので、涙が滲んできた。
けれどだからといって嫌な感じはしなかった。おかしな話だが、悲しいのにそれが心地よくさえあった。静かな悲しみのただ中にあって、私は「うん、」と小さく顎を引いた。
「いい映画だった。たぶん、そういうことなんだと思う。私にとっては、とてもいい映画だった」
「……そっか」
「よかったね」と吉田くんは私の頭を撫でる。
子供のはずなのに、まるで大人みたい。慈愛に満ちた目で見つめられると、なんだか落ち着かない気持ちになる。そういうのは私に与えられた役割のはずなのに、なんて。
「ありがとう、連れてきてくれて」
でも私にとっての彼は導き手でもあったから、素直にお礼を言うことにした。
そうすると、吉田くんも「どういたしまして」と微笑んでくれる。人間らしい会話、私の夢見た光景。言葉を交わすことの、気持ちを通じ合わせることの、なんと素晴らしいことか!私は胸を弾ませた。
「それに服も買ってくれて。キミには世話になりっぱなしだ」
「いいんだよ、それだって名前が働いたお陰で買えたものだし。別に俺が何かしたわけじゃない」
「でも選んでくれたのはキミだよ。私ひとりじゃ服の良し悪しなんてわからなかった」
私は買ったばかりのスカートの裾をつまんでみる。
これが果たして正解なのかはわからない。でも店員には『お似合いですよ』と言われたし、何より吉田くんが決めたのだから間違いはないのだろう。私個人としては動きやすいので気に入っている。それ以上の感情はない。
「ホントにいいなぁと思うものもないの?可愛いのがいいとか、カッコいいのがいいとか」
街を歩きながら、吉田くんは再度問いかけてくる。
でも私からするとその質問の方が不思議だ。そんなことまで考えなくちゃならない人間を、大変なんだなぁと思うくらい。
──でも、強いて言うとするなら。
「吉田くんがいつも着てる学校の制服……ああいうのなら着てみたいかもしれない」
「制服?なんで?」
「だって吉田くんが着てるから」
私が思い出すのは、学生服を着た吉田くんの後ろ姿。それをどこか遠い存在に思った瞬間の、なんともいえない感覚だった。突然世界に放り出された時のような、寄る辺のないあの感覚。だから私は、そんな我が儘を口にする。「もちろん、無理にとは言わないから」と言い添えて。
なのに吉田くんは少し驚いた後で、真剣な顔をつくった。
「制服か……」
呟き、顎に手をやる。それは人間がよくやる、考え込む時の仕草。思考の内容までは知らないけど、私は慌てた。
「だから、無理にとは、」
「確かに、まったく同じものを用意するのはね……」
「うん、わかってる」
「ならスーツはどう?デビルハンターの制服みたいなもんだし、学生服ともそんなに変わんないでしょ」
行き交う人々に、吉田くんは視線を走らせる。
その目の先を追いかけて、私は『なるほど』とひとり納得。なるほど、確かに形は似ている。それにデビルハンターらしいというなら私に反対する理由はない。──私は、人間を守るための存在でありたいのだから。
「じゃあそれはまた今度。とりあえず休憩しよう」
吉田くんの提案に従い、私たちはカフェなるものに入った。人間の食事どころもまた多岐に渡っていて、私には違いなどさっぱりだ。
そう言った私に、吉田くんは微笑ましいものでも見るみたいな目を向ける。……少し、擽ったい。
「パンケーキだけでこんなに種類があるの……?」
「そりゃあね、人の好みはそれぞれだから。ベリー系が好きな人もいればチョコが食べたい人もいるし」
「人間の発想力には感嘆する……」
メニュー表を捲り、私は喉奥で唸る。吉田くんの言うベリー系だけでも五種類くらいはありそうだ。どう違うのか、私には見当もつかない。
けれど、時間は刻々と過ぎていくわけで。
「よし、吉田くん、どれがいいと思う?」
グラスの中の氷が音を立てる。
困り果て、私は吉田くんを見上げた。縋るような思いだった。
なのに彼ときたら「さあ?」と小首を傾げるばかり。出会った時みたいな薄笑いを浮かべている。……これは、たのしんでいる顔だ。
「意地悪はよして、教えてよ」
「でもそれを考えるのも名前の仕事だから」
「しごと、」
仕事、と言われると逆らえない。仕事とは契約だ。契約は果たさなければならない。反故にすることは、赦されない罪である。
「う、ううう……」
「あはは、そこまで悩まなくてもいいのに」
頭を抱えていると、堪えきれないとばかりの笑い声が降ってくる。どうやら私は吉田くんに娯楽を提供できたらしい。よかったのか、悪かったのか。……笑ってくれているなら、良しとしよう。
私は改めて目の前に広がる写真の数々に意識を向けた。いちごたっぷり、フルーツ山盛り、バナナにチーズ、チョコレート……目を回しそうになりながら、私はようやくひとつを選び出す。
「この、人気ナンバーワンっていうのにする。私にはどれがいいかわからないから、今日はみんなの意見を参考にさせてもらう。……それでもいい?」
これでは選んだことにならないんじゃないかと思ったけど、吉田くんは「いいんじゃない?」と言ってくれた。
「まずは経験を積むところからだね」
その経験を、吉田くんが与えてくれるのだろうか、と私はぼんやりと思う。明日も、明後日も、その先も。吉田くんが手を引いてくれるのだろうか?
『そうだったらいいのに』と考えてしまって、私は自分の欲深さを恥じた。こういう時、私は悪魔なのだと痛感する。人間と同じ洋服を着て、人間と同じ食事をして、人間と同じ言語を操って。
──でも、それでも私たちは根本から違ういきものだのだ。
「どうしたの?」
「ううん、早く来ないかなって思っただけ」
別れの日を思って、私は笑みを張りつける。今はただ、この時間ができる限り長く続くことを祈るしかなかった。