凶暴な純愛


 パンケーキを前にして、名前は目を輝かせていた。

「すごくおいしい、柔らかくて、ふわふわで、甘くて、おいしい」

「ははは、よかったね」

 思った通り、いやそれ以上の喜びようである。語彙は貧弱だが、楽しんでくれているのは伝わってくる。パンケーキも、映画も。連れてきてよかったと心から思えるほど、名前は真っ直ぐな感情を露にしてくれた。
 ……俺には少し、眩しいくらいだ。

「どうしよう。あんまり幸せだと、明日からが怖くなる」

 映画館に行って、カフェでお茶をして。そんな、何てことない休日。人間にとってはごく平凡な時間を、名前は真剣な顔で惜しむ。過ぎゆく時が勿体ないとばかりに、時間をかけて食べ進めようとする。そんなことをしたらバニラアイスも溶けてしまうのに。
 案の定触れた途端に川と化すアイスに、名前はあっと声を上げる。「しまった……」その声の深刻さときたら!平気な顔で悪魔を蹴り飛ばしていた女の子と同じものとは到底思えない。俺は思わず笑ってしまった。

「そんな重く考えるなよ。こんなとこ、何度だって連れてきてあげるから」

「また?このお店に?」

「名前が望むならね。でもそれはここだけじゃないよ。他の店にも、映画にも。どこにだって連れていってあげる」

 「約束、」と小指を差し出す。その一瞬、名前は目を見開いた。
 瞳の中に去来する幾つかの感情。それは恐らく喜びや期待だけではなかった。もっと別の──恐れや痛みといった類いのものもあったのだろう。
 それらの多くを俺は知らない。名前も理由も、俺には推察することしかできない。

「……ありがとう、吉田くん」

 けれど名前は応えてくれた。躊躇いを瞬きの向こうに沈め、ちいさな笑みを返してくれた。──それで十分だろう?離れていく指を眺め、己に言い聞かせる。
 ……俺は途方もない勘違いをしているのかもしれない。そんな、予感があった。

「映画、っていうのはどれもあんなに泣かせてくるものなの?」

 ナイフの扱いに苦心しながら、名前はふと訊ねてくる。
 その目許は相変わらず赤く、腫れぼったいまま。誰が見たって泣いた後だとわかる顔。彼女が悪魔だと喧伝したとして、いったいどれほどの人が納得するだろう?このカフェにいる誰もが信じちゃくれない気がする。
 一般市民にとって悪魔というものは、人智の及ばないところに位置する恐ろしい存在だ。間違ってもパンケーキに感動したり、映画の中での生き死にに涙したりなどはしない。デビルハンターの俺ですら、ずっとそう思っていた。

「そういうわけじゃないよ。映画にだって色々ジャンルがあるからね」

「ああ、このパンケーキみたいに」

「そうそう」

 従順に頷く姿に、心地よさを覚えないといえば嘘になる。俺の選択が名前のこれからを決めてしまう。名前を形作るのは俺なのだ。それは悦びといってもいい感覚だった。
 俺は身を乗り出すようにして、「次はどんなのがいい?」と訊ねた。
 誰だって、自分の趣味に興味を持ってもらえたらこうなるはず。別に名前が特別ってわけじゃない。何も、おかしなことなどない。これは人間としてごく当たり前の感覚だ。
 ……そんな言い訳をしている時点で手遅れなのだと、自覚しなくてはならないのかもしれないけど。

「怖いのはいける?っていうか、名前に怖いものなんてあるわけ?」

「私にだって怖いものはいっぱいあるよ」

「じゃあ笑えるのがいいかな、それかラブストーリー?」

「ラブ……愛があるのはいいね」

 「愛があるのは素敵なことだ」と名前の目が弧を描く。
 その様はまさしく慈愛の聖母。それを模して作られたのだから、当然か。こういう時俺は彼女が信仰の悪魔なのだと実感させられる。
 恋と愛とは少し違うような気がしたけど、小難しい講釈を垂れる気にもなれず、俺は「そうだね」とだけ答えた。実際のところ、俺もよくわかっていない。

「なら逃避行ものにしようか。一組のカップルが問題を起こしながらあちこち旅する話。どう?」

「うん、それは興味深い」

 最初はそう言っていた名前だが、俺が「『ナチュラル・ボーン・キラーズ』って言うんだけど」とタイトルを明かすと、途端に眉をひそめた。

「人殺し?」

「うん、でも愛の物語だよ。ほら、愛の逃避行にちょっとした暴力は付き物じゃない?」

「うーん……?」

 嘘は言っていない。なのに名前は不審そうな目を向けてくる。
 心外だ。……と言いたいところだけど、俺は自分の好みが一般的ではないのを知っている。自覚はある。だから俺の好きなものを名前もまた好意的に思ってくれるかどうかは微妙なところだと理解していた。

 ──そのはずなのに、どうしてか胸にすきま風が吹く。

「まぁでも、試してみるよ。吉田くんが勧めてくれたんだし、それに私も色々なことを知りたいから」

 けれど名前は「うん」と頷いて、溶け出したアイスを掬い取った。そんなのもう美味しくないだろうに。「これもまた勉強だ」と真面目な顔で言う。

「……さっき観た『レオン』ほど感動的じゃないかもよ?」

「別にいいよ。映画にだって色々なジャンルがあるんでしょう?私は他のものも観てみたい、挑戦してみたい。キミに、教えてほしい」

 窓際の席には春の和やかな光が差し込んでいた。俺にも、名前にも、その他大勢にも。等しく降り注いでいるはずなのに、何故だか俺には名前ばかりが輝いて見えた。
 それは彼女の髪が燃えるような黄金色だからだろうか。納得しようとする傍らで、何より俺自身が『そうではない』とわかっていた。悪魔だからだとか聖母だからだとか、そういった表面的な話じゃない。もっと別の──とても簡単な理由で。その瞬間を、俺は『きれいだ』と思った。

「吉田くん、お腹いっぱいになったの?進んでないみたいだけど」

 なのに名前は素知らぬ風で小首を傾げる。……ちょっとばかり、憎らしい。やっぱり彼女は悪魔だ。悪魔だから、こんなにも調子を狂わされる。

「いらないならそのオムレツも少し分けてほしい」

「……いいよ、好きなだけ食べな」

 オムレツの乗った皿を名前の方に寄せると、彼女はパッと瞳を華やがせた。「ありがとう!」なんて、随分と安い悪魔だ。憎らしいと思っていたはずなのに、そんな感情さえ瞬時に霧散。俺は、溜め息を吐いた。

「ちょっと、トイレ行ってくる」

 気持ちを切り替えよう。振り回されるのは、どうしたって性に合わない。ここで体勢を立て直さなくては。そんなことを考えて、席を立った。

 ──それなのに。

「あれは……」

 その場を離れたのはほんの数分。けれど俺が戻った時、数分前の俺の居場所は、まったく別の人物によって占拠されていた。
 白いシャツに黒いネクタイ。どこにでもいる、ありふれた大人の装いをした──底知れない目の、おんな。

「やぁ、こんにちは。お邪魔してるよ」

 災厄が、目の前に鎮座していた。