氷の微笑


 そのひとは、いつの間にか目の前に座っていた。とても静かに、──静かすぎるほどに。座したそのひとは、私の視線に気づくと柔く笑んだ。

「はじめまして、こんにちは」

「こんにちは……?」

 よくわからないまま、言葉を返す。
 ……気づかなかった。まったく、気配を感じられなかった。ここまで接近を許してしまったのははじめてのことだ。
 しかし不思議と焦りはない。目の前のひとを異質なものと直感しているのに、逃げ出そうという意思さえ生まれなかった。危険はないと本能が訴え、体は何ものかによって支配されていた。

 ──大丈夫、怖いことなんかなんにもないよ。

 この囁きは誰のものだろう?
 知らないもののようで、よく聞き慣れたもののようにも思われた。
 私はこのひとを知っているのだ。たぶん、恐らく、きっと。悠久の時の中で記憶は褪せてしまったけれど、私の体はこのひとを忘れられなかった。そういうことなのだろう。
 私は改めて目の前のひとを見つめた。赤銅色の髪に、金色の目。美しいひとだ、と私は思う。世界中の誰もが本能で悟っている美。それを表したのがこのひとだ。
 私がこの結論に至ると同時に、彼女は笑みを深めた。
 「私は、マキマ」形のよい唇が動く。言葉を紡ぐ。脳を麻痺させる、甘い音色を奏でる。

「キミを探してたんだ」

「私を……?」

「そう。ずっと、ずっと……ね」

 細められた目が切なげに揺れた。……ような気がした。
 でも私の勘違いかもしれない。そうであってほしいと思ってしまっただけ。何も思い出せないのに、どうしてか彼女を慕わしいと思う気持ちが胸に溢れて止まらなかった。

「私、私……ごめんなさい。あなたのことが、わからない」

「……そっか」

 残念、と彼女──マキマさんは呟く。
 途端に痛む、私の心。心臓をこのひとに握られている気分。それが少し、怖くもある。
 私はもう一度、「ごめんなさい」と謝罪の言葉を口にした。……胸を苛む、罪悪感。けれどマキマさんは「気にしないで」と眉を下げた。

「いいんだよ、過ぎたことは。それよりこれからのことを考えよう?」

「これから?」

「うん。これからの、キミと私のこと」

 彼女、は。彼女はとても冷静に、平然と、当たり前の顔をして言葉を続ける。

「私、どうしてもやらなくちゃいけないことがあるんだ。だから手伝ってほしいの。私のために、力を貸して?」

 彼女の目が私を見る。私を捕らえ、居竦める。彼女は私を逃さない。どこにも、逃げられない。
 「これはキミにしか頼めないことなんだよ」──囁きが、脳髄を焼く、焼き尽くす。焔。硫黄の雨。雨が、身体に降り注ぎ、染み渡っていく。
 これは、罰だ。──なんのための?……決まっているじゃないか、すべてを忘れた罰だ。これこそが私に相応しい罰。彼女の眼差しが、思考を溶かしていく。
 いつの間にか。机上にあった私の手は、彼女のそれに折り重なるようにして伏せられている。それはまさしく私の今を表していた。彼女に屈伏する、私の姿。服従こそがあるべき形であり、正しい選択だと、私の中の何者かが囁いていた。
 私は、震える唇を開く。

「あんたは……」

 その時聞こえた声は不思議なほどよく響き、私を支配していた甘い微睡みを一瞬にして打ち破った。
 私は弾かれたように顔を上げた。
 ──吉田くん。彼の僅かに見開かれた黒い目が、私を素通りして、マキマさんを見つめている。
 そこに宿るのは驚きと──恐れ、だろうか?まさか、そんな──どうして?初めて見る色に、私は困惑を隠せない。

「……やぁ、こんにちは。お邪魔してるよ」

 私を挟んで、二人は向き合う。マキマさんの含みのある微笑と、「どうも」と会釈する吉田くんの固い声。二人を交互に見やって、私は『どうしよう』と焦った。
 いや、別に焦る必要はないのだとわかっている。後ろめたさを覚えることも、申し訳なく思うのも。だって私の答えは決まっている。最初から私は、約束を違えるつもりはない。契約とはそういうものだ。
 けれど彼女に気圧されていたのも事実で──そもそも、この空気はなんだろう?居たたまれなさに、私は「あの、」と口を挟む。
 ──すると、

「どうしたの、名前?」

「あぁ、ごめんね。話が途中だったね」

 吉田くんとマキマさん。瞬時に私を射抜く、二組の双眸。澄んだ、しかしそれ故に底の知れない四つの眼に、私の心臓は縮み上がる。
 危うく飛び出てくるところだったそれを抑え、私は恐る恐るマキマさんに向き直った。

「話っていうのは、」

「私と一緒に公安で働こうって話だよ」

 いつの間にそんな話になっていたのだろう?それとも私が聞き逃していただけ?
 記憶を辿ってみるけど、それらしいものには思い至らない。だから吉田くんはそんなに私を見ないでほしい。無言の視線が突き刺さって痛いくらいだ。

「……ごめんなさい。それは吉田くんに聞いてみないと。私は吉田くんと契約している悪魔だから、私の一存では決められない」

 未だ彼女に囚われたままの左手が視界の隅に入ったが、気にしないふりをした。そうでもしないと躊躇ってしまいそうで、怖かった。私が私でなくなるような気がして、恐ろしかった。……何より、そんな自分を私は許せそうになかった。
 一息に言い切ると、マキマさんは「へえ?」と片眉を持ち上げた。

「やっぱり契約してたんだ」

 どこか責めるようでさえある語調に、反射的に謝りかける。
 けれど、私が何を言うより早く、吉田くんは「はい」と首肯した。

「だからすみません、名前を公安には渡せません」

 肩に置かれた手が力を帯びる。緊張感が伝わって、私まで固唾を飲んでしまう。
 ……では、マキマさんは?
 私たちとはどこまでも対照的。彼女はいつだって余裕たっぷり。悠然と足を組み替え、微笑む。悪戯っぽく、私の膚に指を這わせる。

「結論を急ぐことはないよ。よく考えてみて?どうするのが一番いいか、……どうすれば、キミの願いを達成できるか。ちゃんと考えてごらん」

「だからそれは……っ」

「私が話してるのはキミじゃないよ、吉田ヒロフミくん」

 反論しかけた吉田くんを、マキマさんが見上げる。見下ろされているのは、彼女のほう。そのはずなのに、この場の絶対的な支配者は彼女だった。
 マキマさん、彼女の声には強大な力があった。飄々としているのが常の吉田くんですら、言葉を失うほどに。
 そんな彼を置き去りにして、マキマさんは視線を移した。標的は私。私を見つめて、「よく考えてみてくれるよね?」と念を押す。押されて、私は曖昧に頷くしかなかった。

「でも私の願いなんて、」

「あるでしょう?信仰の悪魔としての願いが。……人を、助けたいんでしょう?」

「……それ、は」

「人を助けるのに公安のデビルハンターほど相応しい場所はないと思うけどな。少なくとも民間のデビルハンターなんかよりは、よっぽど」

「…………」

 ──彼女が言いたいことはわかる。理にかなっているし、それが正しいことなのだとも理解している。
 それでも私には受け入れることができなかった。受け入れられず、沈黙でもって答える以外道はなかった。彼女の方が正しいのだとわかっているから、否定の語を紡ぐことまではできなかった。
 そんな気持ちが伝わったのか。マキマさんは「今日はとりあえず帰るよ」と席を立った。するり、一撫でしていく指先はひどく冷たい。

「いつでも連絡、待ってるから。今度はちゃんと、言葉で聞かせて」

 微笑みはどこまでも美しく、──過ぎるほどに美しいから、恐ろしいこともあるのだと、この時私は初めて知った。