悪魔は見ていた


 バシャッと水飛沫が上がる。抵抗を続けていた悪魔の、その残骸。もがれた四肢が水溜まりに落ちる音だった。

「吉田くん、怪我はない?」

 霧雨の向こうから近づく気配。足音はなく、返り血のひとつさえ浴びず。切り落とした獲物の断片をタコの悪魔に食べさせてやりながら、名前は俺の顔を覗き込む。
 その硬質な眼、秀貌は相変わらず冷めたもの。弱り、のたうつ同胞の姿にも深い感慨の色はない。
 いつだって名前の狩りは淡々としている。それが仕事だとでもいうみたいに。

「俺は大丈夫。でも名前はずぶ濡れになっちゃったね」

「いけなかった?」

「風邪、引くかもしれないじゃん」

「引かないよ。だって悪魔だもの」

 そうなのかなぁ。タコが広げた触手の下、俺は反論を企てるけれど、名前は「そうだよ」と言って譲らない。

「実際、カサ代わりにされてるキミの悪魔だってそうでしょう?」

 それはそうだけど、でも、何となく認めづらかった。
 名前だって悪魔なのに。悪魔だけど、でも、感情がある。人と同じものを美味しいと喜んで、映画を観れば涙も流す。そんな名前を、死骸を貪る悪魔と同列に扱う気にはなれなかった。
 だから俺は「わからないよ」と言って、名前の濡れた頬を袖口で拭った。
 「もしかしたら悪魔にさえ打ち勝つ病原菌が現れるかもしれないじゃん」なんて、都合のいい可能性を語って。そうして俺は名前の手を取った。
 先程まで悪魔の身体を捌いていたその手は、ぞくりとするほど冷えきっていた。

「……さ、行こう?」

「うん、」

 素直に頷いて、名前は手を握り返してくれる。

 ──なのに、この胸のざわつきはなんだろう?

 ビルの隙間から見える空は重苦しい鈍色。雲は厚く、晴れ間は遠い。まだ当分雨は止まないだろう。その予感にさえ胸が逸り、心臓が厭な音を立てる。

「今日は生け捕りにできたから、公安に持っていかないといけないんだよね?」

 獲物は既に虫の息。その身体をタコに任せ、名前は訊ねてくる。その問いに対し一瞬答えにつまったのは、氷のように冷たい微笑を思い出したから。
 マキマさん──公安に所属する彼女が俺たちの前に姿を現してからはや一週間。以来なんの音沙汰もないけれど、それが逆に怖い。このまま何も起こらずに──なんてことがありえないのは、含みのある眼差しが如実に語っていた。
 『いつでも連絡、待ってるから。今度はちゃんと、言葉で聞かせて』──その台詞は決して冗談などではなかったと思う。
 彼女は俺にも笑みかけはしたけれど、名前に対するのとはまるで違った。俺への視線は絶対零度。そこには敵意が滲んでいた。
 だからいやでもわかった。彼女は本気で名前を求めているのだと。

「吉田くん?」

「ああ、うん。そうだよ。面倒だよね、その分報酬は弾んでくれるけど」

 名前は変わらない。マキマさんと出会う前も、出会ってからも。公安に勧誘されたこともそれを断ったことも、マキマさんのことすら話題に出すことはなかった。

 ──そして、俺も。

「雨、やまないね」

 大通りに出たところで傘を広げる。
 ひとつの傘を分けあうことで自然と触れる肩、伝わる温もり。

「離れないでね、濡れたら困るから」

「私はもう濡れてるから構わないけど」

「構わなくないよ、俺が困る」

「吉田くんが困るの?」

「そうだよ」

 そうだよ、その通りだ。
 不思議そうに眼を瞬かせる名前が、すこし、憎らしい。でも「わかった」と素直に体を寄せてくれるから、許してあげるしかなかった。

「早くやむといいね」

 名前はそう言って、遠くに目を馳せる。俺はその横顔から目を逸らす。返事はしない。『そうだね』なんて言ってあげられない。憂鬱な空模様はそれだけで気が塞ぐのに、『いっそ降りやまなければいい』とさえ思ってしまう。
 俺は繋がれた右手に意識を向けた。名前の心臓へと向かう左腕のことを考えた。白々としたそれは雨に濡れて、光っているようにさえ見えた。





「ひどい格好だな」

「悪魔とやり合ってるうちに降り出しちゃって」

「そりゃ災難だったな」

 公安本部にはちょうど岸辺さんがいた。マキマさんはお休みらしい。
 それを聞いて俺はひとり脱力した。気を張っていたぶん拍子抜け。身構えていたのが滑稽に思えてくる。

「どうした、変な顔して」

「……してます?変な顔」

「必要なら鏡も貸してやろうか」

 岸辺さんから借りたタオルで名前の髪を拭ってやりながら、俺は苦笑する。
 さすがは最強のデビルハンター。洞察力もずば抜けている。隠しおおせると思ったのに。

「こいつが新しく契約したっていう悪魔か」

 そんな男にまじまじ見つめられても名前は動じない。ただ彼が何者なのか、どういった位置付けの人間か測りかねているらしい。助けを求めるような視線を感じ取って、俺は笑いかけた。

「この人は岸辺さん。公安のデビルハンターで……、俺の師匠みたいなひと」

「師匠……先生?」

「まぁそんなとこ」

「岸辺先生……」

「ホー……」

 『先生』と復唱する名前に、岸辺さんは「ずいぶん躾が行き届いてるな」と俺を見る。
 別に、俺が何かしたわけじゃないけど。名前は最初から素直で、悪魔らしくない悪魔だった。
 そう言うと、「信仰の悪魔ってのはみんなそういうもんなのかもな」と岸辺さんは呟く。
 ……どういうことだろう。同じ名前を持つ悪魔はいないはずなのに。その言い方ではまるで以前にも信仰の悪魔が存在していたみたいじゃないか。

「岸辺さん、」

「たぶんお前の想像通りだよ」

 訊ねかけた声を遮って、彼は言う。「けど、深入りはしない方がいい」お前のためだ。そう続けたのは決して嘘ではない。彼なりの気遣いで、本心だったのだろう。

「……わかりました」

 だから俺もそう答えて、大人しく引き下がった。

「それじゃあ」

 帰ろうか、と声をかけると、名前は自分から進んで俺の手を握った。それは雛鳥の刷り込みで、それ以外に理由などないのかもしれないけれど。でも俺はその手に応えたいと思った。たとえ刷り込みだったとしても、名前が俺を選んでくれたのだけは真実だ。
 だからもしも名前の過去に彼女自身知らない何かが隠されていたとしても──彼女がマキマさんにとって特別な存在であったとしても──大人しく譲ってあげられそうにはなかった。