その血はそのいのちそのもの


 よく晴れた朝だった。絶好の行楽日和と言えるかもしれない。けれどこれより始まるは仁義なき戦いである。そう考えると晴れ渡る空も薄気味悪い。

「デンジくんもパワーちゃんも絶対に無茶はダメだからね。周りをよく見て、よく考えて行動するんだよ。間違っても味方の悪魔を攻撃しないこと」

「はぁい」

「そんなこと言われずともワシは最強じゃが?」

「そういう話じゃないんだよ、パワーちゃん」

 全然話を聞いていない。暖簾に腕押し、糠に釘。パワーの長い髪をひとつに纏めてやりながら、名前はデンジに視線をやる。
 「デンジくん、パワーちゃんのことお願いね」素直な彼は、「任せてくださいよ!」と胸を叩く。
 なんとも頼もしいことだ。顔つきも少し精悍さが増した。彼はもう立派なデビルハンターである。……それがいいことなのかは、わからないけれど。
 名前は目の前に聳えるビルを見上げた。敵組織のアジト……なんて表現すると仰々しい。が、実際は何の変哲もない古ぼけたビルだ。
 その周りを取り囲むのは何台ものパトカー。それから人、人、人……退魔課と警察の人間がいて、その更に外側ではいわゆる野次馬と呼ばれる人々が生け垣を作っていた。物々しい雰囲気が呼び水となったのだろう。
 面白いものなんて何にもないんだけどね。名前は肩を竦める。少し離れたところにはアキが立っていた。彼は日本刀を背負って、ビルを眺めていた。
 いや、眺めているというのともちょっと違うか。見ているようで見ていない。マネキンとか蝋人形とか、なんかそんな感じだ。
 名前は迷った。声をかけるべきか否か。より正確に言うと、どちらなら赦されるのか。
 あぁ、神さま──私にはまだ、その資格はあるのですか。

「……アキくん、」

 神さま、と呼びかける。同じ調子で、彼の名前を口にする。赦しを乞う。希う。
 彼は名前を見る。深い深い闇の中に名前を映す。空虚な硝子玉の中に名前はいる。マネキンの、蝋人形の、──生気のない目で、名前を見る。

 ──なんだかすごく、厭な感じだ。

「どうした?」

 そう思ったのは感じたのは錯覚だったのだろうか。我に返った時、彼は訝しげに眉を寄せていた。それは生きている人間特有のもので、表情で、だから名前はホッとして「なんでもないよ」と笑った。
 なんでもないよ、──本当に。そうじゃなきゃ、そういうことにしなきゃ、じゃなきゃこの予感は──いったいどこへ向かうのだろう。
 先のことを考えるのは恐ろしいから、怖いから、名前は考えるのをやめた。愚かなままでいい。知らない方が幸せなこともある。たぶん、きっと、それは私にとって必要のないものだ。名前はそう思うことにした。

「アキくんも──無茶、しないでね」

 死なないで、とは言えなかった。言いたかったけど、本当はすごく言いたかったけれど、でも言えなかった。
 彼は「そっちこそ」と言った。「こんなとこで死ぬなよ」
 自分はいつ死んだっていいと思ってるくせに。自分のことは棚に上げてそういうこと言うんだ、アキくんは。
 酷いと思わない?思い出の中の姫野は『そうだね』と苦笑する。『アキくんはそういうひとだから』だからしょうがないよ。

 ──そっか、しょうがないことなんだ。

「アキくんのスケコマシ」

「はぁ?」

 なんの話だ、と顔を顰める。自覚なし。ゆえに余計に厄介。
 手に負えないよ、姫野ちゃん。
 想像上の彼女も溜め息をつく。これはもう惚れた弱味というやつだ。
 だから──まぁ、しょうがないよね。





 ビルには地下駐車場があった。一応はそういう役割を与えられていた。けれど名前が足を踏み入れた時、もうその役割は過去のものとなっていた。
 そこには車の一台も止まっていない。代わりにいるのは人、人、人……の形をしたバケモノだけ。動き回る死体。またの名をゾンビ。徘徊する死者のせいで足の踏み場もない。すし詰め状態だ。暗くて湿っていて臭い駐車場の中でぎゅうぎゅうになっている。
 ツンとした臭いが鼻の奥に突き刺さって、名前は危うく嘔吐きかけた。

 ──なんてにおいだろう。

 悪臭だ。刺激臭だ。腐った肉の臭いだ。春先、道端で押し潰されている蛙なんかはこんな臭いがするのだろう。或いはひっくり返った格好のまま脚を震わしているセミ。嗅いだことはないから、違うかもしれないけど。
 でも分類としては間違っていないはずだ。腐乱した肉のかたまり。死んでないけど生きてもいない。意識はあるんだろうか?……ないんだろうな。だってもう人間じゃないもの。人間じゃないから、好きにもなれない。
 厭だなぁ。すごく厭な感じだ。そんなことを思いながら、名前は先へ進んだ。周りには血とか脳漿とかが飛び散っていた。ゾンビの血は赤かった。人間と同じ、赤色をしていた。

 ──気分が悪い。

 公安の悪魔に任された仕事はゾンビを一掃することだった。何せ数が多い。その上ふつうの人間がゾンビに噛まれるとゾンビになってしまう。馬鹿馬鹿しい。
 種の存続なんて悪魔には関係ないことなのに、どうしてそんな機能までついているんだろう。世界中がゾンビになったらどうするんだろうか。共食いでも始める気か。滑稽だ。まぁ悪魔が悪魔を殺している時点で共食いにあたるのかもしれないけど。

「なにぶつぶつ言ってんの。とうとう本気でおかしくなっちゃった?」

 天使の悪魔はそう言って、ゾンビの頭をかじった。まだ人間の形をしているそれを。目玉が溶けて後頭部が陥没して顎から下が削れてるそれを。生きているのか死んでいるのかわからないそれを、天使の悪魔は無表情で貪った。
 まったく、とんだ悪食だ。

「それ、美味しいの?」

「美味しそうに見える?」

「ううん、ぜんぜん」

 そういうことだよ、と天使の悪魔は言った。
 どういうことなの?美味しくないのにどうして食べられるの?悪魔ってみんなそうなの?……そういうものなんだろうなぁ。名前以外の悪魔は皆、ゾンビと化した人間を食らっていた。
 名前は疎外感を味わいながら、ゾンビを屠った。
 人間にも悪魔にもなれない半端者。生きていないのに死ぬこともできないゾンビ。厭だなぁ、とまた思う。衣服や肌だけじゃなく、肺だとか臓腑にまで臭気がこびりついてしまいそうだ。
 名前はさらに奥へと進んだ。ゾンビの群れの奥の奥、暗がりの中に一際強い異臭を放つものがいた。

「デビルハンターだ!」

 それはわけのわからない構造をしたイキモノだった。どこが頭でどこが身体なのか。脳も内臓も殆ど露出してしまっているし、顔らしき部分は胴体らしきものの真ん中から生えていた。
 あぁ、気味が悪い。本当に生きているの?喋って動いているのだから、生きてはいるのだろう。でも同じ生命体だとは思えない。思いたくない。暗くて湿っていて酷く臭うんだもの。穢らわしくてたまらないよ。

「悪魔のくせに人間なんかに肩入れするんだ」

 やだなぁ。喋らないでほしいなぁ。黙っていてくれたらよかったのになぁ。なのにゾンビの悪魔は人間の言葉を使って喋った。
 口の端から唾が飛んだ。名前は首を捻って避けた。でも目に見えない飛沫はもう既に染み
付いてしまったかもしれない。
 それはとても厭な想像だった。

「キミこそなんで生きてるのかなぁ。デンジくんに殺されたんじゃなかったの」

「デンジぃ?誰、それ?人間のことなんかいちいち覚えてないよ。僕、悪魔だもん!」

 ゾンビの悪魔は歯抜けの口で笑う。
 老人特有の、黴たような湿気たような、そんな臭いがする。死臭ってこんな感じなんだろうなと名前は思う。ゾンビだから既に死んでいるようなものだけど。
 そういえば。
 そういえば、ゾンビってどうやって増えるのかな。死体を改造するようなものなのかな。それとも生きている身体に直接手を加えるのかな。
 私がさっき殺したゾンビはどっちだったんだろう。
 どっちにしろ冒涜的で、罪深くて、最低の気分だ。吐き気がする。目の前の悪魔にも、自分にも。

「まぁいいや!悪魔でも人間でもデビルハンターは殺すから!」

「殺す、ねぇ……」

 殺したら少しはマシな気分になるだろうか。そうしたら私はこの悪魔を殺しただろうか。殺したいと、思っているのだろうか。デンジくんを殺した悪魔。姫野ちゃんを殺した人間。悪魔は嫌い。人間は好き。なら人間を殺した人間は?人間を殺した私は?私は、どこへ向かうのだろう。

『殺しちゃダメだよ』

 ゾンビの悪魔を捌いていると、女性の柔らかな声がした。耳に馴染んだ、最も大切なひとの声。

 ──マキマさん

 けれど振り返ってみても誰もいない。悪魔も、人間も。飛び散っているのは血とか脳漿とかで、足許に散乱しているのはゾンビの悪魔の肉や骨だった。
 そうしたものの中で、名前は記憶の中のマキマに話しかける。

「どうしてですか?悪魔は殺されるべきものでしょう?存在しない方がいいものでしょう?」

『そうだね。でもその悪魔にはまだ使い途があるから』

 だから生け捕りにして、と名前は命じられていた。
 ゾンビの悪魔は公安によって飼い殺しにされる。人間を殺した悪魔を人間が生かし続ける。そう、どこかの誰かが決めた。
 決められてしまったから、名前には手が出せない。「殺して」とゾンビの悪魔に懇願されるけど。殺してしまった方がいいような気もするけど。
 でも名前は手を止めた。難しいことは考えたくなかった。優しいそのひとに従っている方が楽だった。
 名前は「ごめんね」と囁いてからゾンビの悪魔を抱き上げた。膨張した肉はぶよぶよしていたし、体液でぬらぬら光っていた。でも臭いの方はあんまり気にならなかった。
 鼻がバカになってしまったんだろうか。それともこの臭いに慣れてしまったのか。悪臭が染み付いて、染み渡って、その中に取り込まれてしまったのか。
 そういうことなんだろうなぁ、と名前は思った。最初からそんな気はしてたんだ。だから厭だった、近づきたくなかった、気づかないふりをしていた。
 暗くて湿っていて穢らわしいものの一部に過ぎないんだと、認めたくなかったんだ。