銃の悪魔編IFアキ√X


 岸辺隊長に連絡を取ったのは、アメリカに着いてすぐのことだった。

『……まさかお前がこんな真似をするとはな』

 盗聴の心配をする彼に、居場所がバレるのは時間の問題だから大丈夫だと私が答えた後。岸辺隊長は呆れとも感嘆ともつかない溜め息をついた。

 まさか公安から逃げ出すとは。──まさか、マキマを裏切るとは。

 彼が言いたいのはそういう意味なのだと諒解し、私は笑った。自分自身でも驚いている。こんな大胆なことをしてしまうなんて。──これほど大きな罪を犯してしまうなんて。
 私は電話ボックスのすぐ隣で控えているアキくんを見た。私がすべてを投げ出してでも生かしたいと思った人のことを。

「別に、公安への恨みはないですよ。マキマさんと敵対するつもりもない。私はただ、アキくんに生きていてほしいだけ。……それだけです」

『そっちがその気でも、マキマが許してくれるとは限らんぞ。マキマはお前を気に入っていたからな』

「……それはどうでしょう」

 私は笑みを自嘲の形に変える。「わざわざアメリカまで追ってくるほどの価値があるとは思えません」
 それなりに利用価値のある存在だった。彼女にとっての私を俯瞰する。利用価値はあった。便利な部下、使い勝手のいい悪魔。
 ……でも、それだけだ。そしてそれは簡単にすげ替えることのできるものでもある。敵国に踏み込むほどの価値はないだろう。

「さっきも言ったように、私はマキマさんと戦いたいわけじゃない。普通の人間みたいに人を愛し、愛されて……そういうことを知った彼女を、私は愛したい。他のみんなと同じように、愛してみたい」

 たぶん、そういうことだったのだろう。
 彼女から離れてみて、私は本当の願いを思い出した。マキマさんに恋をしてほしかった、本当の理由。
 それは人並みの感情を彼女に知ってほしかったからに他ならない。私は平凡な人間となった彼女を《信仰の悪魔》として愛したかった。ただ、それだけだったのだ。

「だから私は、今も変わらず彼女の幸せを祈っています」

『幸せ、か』

 それまで黙って聞いていた岸辺隊長が独りごちる。

『その幸せが、他人の不幸の上にあるとしてもか?お前の大切な誰かの犠牲の上にあるとしても?』

 そして次に言葉を発した時、その声音は鋭く私の耳を刺した。
 まったく、痛いところを突く。大切な誰か──そう言われて思い出すのは、《彼》が最後の最後まで案じていた二人のこと。彼らは今も、鎖に繋がれている。

「……いいえ」

 私は静かに、けれどはっきりと否定した。

「もしマキマさんが彼らを傷つけるというなら、止めなくてはなりません」

 それが私にできる唯一の罪滅ぼし。何もかもを奪ってしまったアキくんに対する、贖罪の道。私はアキくんの願いを叶えなければならない。そのためならば、かつて好意を抱いていたひとを殺すことになったとしても、私は躊躇わないだろう。
 私は信仰の悪魔ではあるけれど、神さまにはなれない。すべてのひとを救うことなど、できやしないのだ。
 岸辺隊長は『そうか』とだけ答えた。彼は否定も肯定もしなかった。
 そういえばアキくんも同じだった。彼もまた、ただ黙って私を抱き締めてくれた。そうしたことに私がどれほど救われたことか。……きっと彼は知らないだろう。ガラスの向こうのアキくんを、私は指でなぞった。

「ともかく、そちらのことは任せましたよ」

『老いぼれに背負わすには重すぎる荷物だ』

「なに言ってるんですか。最強のデビルハンターさんが時間稼ぎもできないなんて言わせませんよ」

 日本の状況はこちらにいても伝わってくる。『信仰を持つすべての人が私の眼になってくれる』と言ったのは嘘じゃない。
 とはいえ距離があるのは確かだから、彼らを守るにしても些かの時間が必要になる。そしてそれは最強のデビルハンターにとってはわけないことのはずだ。私の勝手で負担を強いてしまうのは申し訳ないけれど、その代わりとなるものは差し出すつもりでいる。
 そう言外に含めて言うと、電話口から溜め息が聞こえてきた。

「電話、終わったのか」

 電話ボックスを出ると、眩しさが目を焼いた。気遣わしげに聞いてくるアキくんを直視できない。日本よりも乾いた風が私の体をなぶる。
 私は「うん」と頷いて、アキくんの腕を引いた。「さ、早く移動しよう」物言いたげな眼差しから逃れるようにして、歩を進める。
 卑怯な私は、アキくんに真実を告げられない。彼の家族も想い人も、信念さえ奪ってしまったのだと。……そんなこと、言えるはずもなかった。





「……どうかしたのか?」

 追憶を破ったのはアキくんの声だった。
 窓から吹き込む風には幾らか冷たいものが混じるようになっていた。ここはアメリカ北西部。そして夏はとうに終わりを迎えた。今は秋すらも沈みゆく時。故郷のよりも温暖な気候が私たちを取り巻いていた。
 ──なのに私はまだ、あの輝かしい季節を忘れられないでいる。

「ううん、何でもないよ」

 咄嗟に笑みを刷き、私は懐かしい筆跡の手紙を元通り折り畳んだ。

 ──すべての営みには時と裁きがある。

 そこに書かれた言葉の示すものを、私は正確に理解しているつもりだ。

「……まだ寝惚けてるんじゃないか?」

「そう思うんならアキくん特製のあつーいコーヒーを淹れてくれてもいいんだよ?」

「……仕方ないな」

 そんな冗談さえ真面目に受け取ってくれる彼に、罪悪感が募る。
 いったい私はいくつ罪を重ねれば気が済むのだろう?既に地獄行きの決定したこの体では償いきれそうにないな、と私は心の内でわらう。恐れはないけれど、もう二度と彼らと会えないのだと思うとどうしようもなく悲しかった。──彼らはきっと、天国に行けるだろうから。
 私はキッチンに立つアキくんの背中を眺めた。やがては失われるものを。手放さなくてはならない温もりを思って、目を閉じた。

 ──いっそこのまま、時が止まってしまえばいいのに。

 そんなことを考えてしまう自分を、私は恥じた。結局のところどんなに取り繕ったところで私は悪魔で、決して人間にはなれないのだ。