銃の悪魔編IFアキ√Y


 肌寒さを感じ、目を覚ます。
 すると眼前に広がるのは暗闇ばかり。重く垂れ込めるおりの中、俺はぼんやりと辺りを見回す。傍らのベッドには一人分の空白が横たわっていた。
 酷い焦燥感に駆り立てられ、寝室を出る。寝室を、居間を、管理人室を出て、裏手へ回る。と、途端に色を増す黒色。足許さえ覚束ない。雲は月に覆われている。モーテルの看板が発するネオンだけが光源だった。
 そんな中で、俺は人影を見た。佇む人を、その影だけで俺にはわかった。──あれは、名前だ。探し人の姿にホッと息をつく。今の今まで忘れていた呼吸の仕方を、ようやく思い出すことができた。

「……眠れないのか?」

 発した声は、思いの外掠れていた。
 ひりついた喉は渇きを訴える。隣に立ったのに、名前の表情は見えない。彼女が何を考えているのかも。

「ううん。少し、考えなくちゃいけないことがあって」

「それは、」

 ──俺には話せないことか?

 問いかけた言葉は喉の奥に張りついた。こびりついて残っているにも関わらず、口に出すことは躊躇われた。何より俺は、彼女に肯定されるのを恐れていた。
 名前は遠くに目を馳せていた。或いは、とても小さなものに目を凝らしていた。どちらにせよ、視線は交わらなかった。俺が名前を横目に窺っても、名前はひたすら前を見ていた。

「……お前にもそんなものがあったんだな」

 迷った末にそう言うと、微かに空気が震えた。

「悩みなんてなさそうって?アキくんったら酷いなぁ」

 その言葉も、声の調子も、いつもと変わらない。明朗快活、天真爛漫。俺とは似ても似つかない、妹の明るい声。……なのにその響きからはどことなく寒々しい気配が感じられた。
 名前は「静かな夜だね」と呟いた。「この静けさが永遠に続けばいいのにってずっと思ってた」……名前は、何を言おうとしているのだろう?何故だか、嫌な予感がした。
 相槌すら打ちかねて、俺は沈黙を選んだ。名前もまた、口を閉ざした。二人揃って目の前の景色を眺めやった。
 モーテルの裏手には山の連なりがあった。雲間からは僅かに月明かりが差して、万年雪の姿を窺い見ることができた。川は谷間を勢いよく流れ、岩を打ちすえているのであろう音さえ聞こえてきた。それくらいに静かな夜だった。世界には俺たち二人しか存在していなかった。
 そのとき俺は諒解した。名前の言った言葉──この静けさが永遠に続けばいいのに──それは決して彼女だけのものではないということを。停滞を望んでいるのは、俺だって同じだった。
 同じだったのに、なのに名前は、喉を震わす。

「ねぇ、アキくん。アキくんはここでの生活、どう思う?」

「どうって、」

「このまま、続けていきたいと思う?」

 名前はようやく俺を見た。
 俺を見ている、なのにその目からはどんな感情も窺い知ることができなかった。青空は夜の闇に沈み、ぽっかりとした穴だけが俺の前には広がっていた。

「……そう、だな。悪くはない生活だと思う。雪も滅多に降らないらしいし」

 俺は考え考え、言葉を紡ぐ。言いたかったこと、言うべきこと。伝えなければ、ならないこと。それは幾つもあるようで、たったひとつの言葉に集約されるような気がした。そしてそれは最初からずっとわかっていたことでもあった。

「けど、本当はどこだっていいんだ。どこだってよかった。──名前、お前がいるなら、どこだって」

「……アキくんは、勘違いをしているんだね」

 けれど名前は。同じ言葉を俺にくれたはずの彼女は、ゾッとするほど冷たい声で、俺の思いを切り捨てた。

「おかしいな、そこまでの効力はなかったはずなんだけど。上手くいかないものだね。まさかキミをそこまでねじ曲げてしまうなんて。ふふっ、またひとつ、罪を重ねてしまったみたいだ」

「名前……?」

 笑っているらしい名前に、その空虚な声に、戸惑った。名前、よく知っているはずの彼女が、まるで知らない誰かのように思えた。

 ──そもそも、俺は名前の何を知っているというのだろう?

「ねぇ、アキくん。もしも私が──私が悪魔だとしたら。……それでもキミは、同じように思ってくれたのかな」

 実際、俺は何も知らなかったのだ。
 冷ややかに、なのにどこか寂しげに。声を震わせ微笑む名前を、俺は初めて見た。

「信じられないって顔してるね。でも本当だよ。本当に私は悪魔なんだ。嫌ってくらい、どうしようもないほどに。……私は、キミの妹なんかじゃないんだよ」

「でも記憶が、」

「よく考えてごらん。そうすればその記憶だってとても不鮮明で、曖昧なものだと気づけるはずだよ」

 名前は幼い子どもに言い含める調子で言う。俺が、俺こそが間違っているのだと、俺の記憶のすべてが誤りであるのだと断じる。
 だがそんなはずはない。名前は俺の妹だ。たったひとり残された、唯一の家族。悪魔にすべてを奪われた俺にとっては──そう思うのに、肝心の名前の顔が思い出せなかった。今よりずっと昔の、幼い頃の妹の顔が。雪合戦をしたこと、キャッチボールに誘ったこと、冬の夜に身を寄せ合って眠ったこと、風邪を引いた彼女を看病したこと。思い出は幾らでも溢れてくるのに、彼女の顔だけが黒く塗り潰されて見えなかった。
 そしてそれこそが答えなのだと、俺は理解せざるをえなかった。

「私はキミを騙したんだ。キミに偽りの記憶を植えつけて、キミの優しさにつけこんだ。……私は、キミとは違う。違う、いきものなんだ」

 名前は目を細める。その言葉は俺に言い聞かせるようで、でもそれだけじゃないようだった。
 名前は噛み締めるように言って、手を伸ばした。さしたる距離はない。隔たりだって同じだ。俺たちの間を晩秋の風が吹き抜けていった。
 けれど名前の手は宙で止まった。俺へと伸ばされた手は途中で力をなくし、だらりと下ろされた。苦笑する名前が、そこにはいた。

「でも安心して、それももうすぐ終わる。大きな戦いが終わったら、そしたらキミは自由だよ」

「自由……」

「もちろん本当の記憶も返すよ。それから自分がどうしたいか、……本当のキミが何を願うのか。好きなように生きたらいい。それが困難な夢であるというならいくらでも力を貸すよ。今回ばかりは見返りも求めないから安心して」

 名前の言っていること。そのほとんどを今の俺は理解できない。大きな戦いとやらも、自由というものの尊さも。……かつての俺ならば、わかってあげられたのだろうか。名前にこんな顔をさせる、俺ならば。
 かつてと今にどれほどの差があるのか。それを考えると、どうしてか苛立ちを覚えた。かつての俺に、そして名前に。俺の知らない俺ならば名前の言葉を素直に受け入れたのだろうか。……そう、なのかもしれない。それほどまでに名前の語ることはどこか遠いものだった。
 でも、今の俺が気にかかるのはただひとつ、たった一点のみだ。

「そしたら、お前はどうするんだ?名前は、どこへ行く?」

「……わたし?」

 名前は目を瞬かせた。表れるのは素直な驚き。黒々とした瞳の中を、小さな星が走る。
 そしてその目はすぐに弧を描いた。

「おかしなことを聞くね。言ったでしょう?私は悪魔なんだって。人間の敵、キミの倒すべきもの。そんなものの行く末なんて、気にすることないのに」

「だが、」

「……悪魔の行き着く先はひとつだよ」

 名前の囁きが落ちる。雲が流れ、再び月を覆い隠す。名前の瞳が夜に呑まれる。川の流れがごうごうと音を立てる。名前の唇が、痛々しい笑みを刷く。

「キミだって知っているでしょう?……罪は、償わなくちゃいけないの」

 俺は、息を呑んだ。

「それなら……っ」

 それなら?──俺に、何ができるというのだろう?
 名前は罰を望んでいる。地獄に落ちるという罰を。俺の赦しは必要とされていない。例え俺がどんな慰めの言葉をかけたとしても、それが彼女に届くことはない。
 それを痛感した。微笑む名前に、諦念の滲む声に。俺は手を握り締めた。伸ばしかけたそれに、他の行き場はない。俺たちはこんなにも近いのに、どうしようもなく遠いところにある。
 俺は唇を噛んだ。だからといって、『はいそうですか』と頷くことなんてできるはずもなかった。

「……それなら、今すぐじゃなくてもいいはずだ。これから先、ずっと先の未来でだって……、そういうものじゃないのか?」

「……何が言いたいの?」

「俺は、俺はもう、目の前で誰かが死ぬのは嫌だ。お前が地獄に行くって言うんなら、俺がくたばった後で勝手にしたらいい。でも俺が生きているうちは駄目だ」

「……それ、すっごく身勝手なこと言ってるってわかってる?」

 駄々をこねているだけだという自覚はあった。でもそれしか思いつかなかった。名前が罰を望んでいるというのなら、それ以外に道などなかった。

「そっくりそのまま返してやるよ。お前だってじゅうぶん勝手だ。勝手に俺を連れ出して、兄貴に仕立て上げて、なのに用済みになったから捨てるって?お前こそ勝手すぎるだろ」

 俺は名前に向き直った。なじられて、責任を感じて、それでもいいから頷いてほしかった。

「……うん、そうだね。キミには私を非難する権利がある」

「……っ、だからっ、そういうことを言ってるんじゃない!」

 なのに名前はひどく優しい顔で見当違いなことを言うものだから、俺はついに声を荒げた。
 俺は名前の両肩を掴んだ。それはあまりにも容易いことだった。あれほど触れるのを躊躇っていたのがバカらしいほどだった。本当のところ、俺たちの間に隔たりなんてものは存在していなかったのだ。

「俺の選択を、お前が勝手に決めるな!お前が、名前が言ったんだ。俺は自由だって、好きに生きたらいいって、お前が言ったんだろ!」

 見開かれた名前の目に俺が映る。
 それは距離を詰めなければわからないもので、最初からこうしていればよかったのだと諒解した。勝手に壁を感じて、隔たりを作って、色々なものを見過ごしてきた。それが間違いだった。守りたくて見ないふりをして、そのせいで大きなものを失いかけた。

 ……でも、そんなのは二度とごめんだ。

 俺は名前を睨みすえた。

「言っとくけどな、俺はとっくに気づいてたぞ。あんまり見くびるんじゃない。俺は、それでもいいと思って、」

「……どうして?」

 俺の言葉を遮り、名前は呟く。

「どうしてそんな優しいの?どうしていつもいつも、欲しい言葉をくれるの?どうして私を、私を、……ただの人間にしてくれるの?」

 大人びている、と思っていた顔に変化が生まれる。今の彼女は迷子の子どものようだった。揺れる瞳は頼りなく、寄る辺を失っていた。そんな名前を、思いの外小さな体を、俺は抱き締めた。

「……そんなの、決まってるだろ」

 記憶が戻ったわけじゃない。だけどこの気持ちだけは今も昔も変わらない。そんな気がしてならなかった。

「悪魔とか人間とか、どっちだってよかったんだ。名前がどっちだって、俺は、」

「……アキくんは、優しいね」

 優しくなんかない、という否定の語は呑み込んだ。
 本当は、妹じゃなくて安心したなんて。それは今言うべきことではないとわかっていたから、俺は黙って背中を抱く力を強めた。

「そんなに優しいから、だから私みたいな悪魔に気に入られちゃうんだよ」

 名前が顔を上げる。仄かな月光が夜の闇を拭い落とす。
 彼女の輪郭を縁取る光は薄いヴェールのようでもあった。潤んだ瞳を見て、俺は朝露越しの青空を思い出していた。微笑は自嘲に似ていて、それが心からの笑みであったらいいのにと俺は思う。
 なんの憂いもなく、笑っていてほしい。……名前に願うのはそれだけだ。

「思い出させてあげる。キミが本当に守りたかったもの。思い出させてあげるから、どうか選んでほしい。私と共に永遠に等しい時間を生きるか、それとも人間らしく死ぬか」

 もちろん後者を選んだとしても奪ったものはすべて返すし、キミの願いはなんだって叶えてあげる。二つの違いは、そこに私がいるかいないかというただその一点のみ。だから、安心して選んでほしい。
 名前は淡々と言って、なのにどこか悲しげに眉を下げた。

「私の手を取るということは、そういうことだよ」

 ──俺の答えは決まっていた。答えなど、最初からひとつしか存在していなかった。

 抱き締めた手を離さないでいると、名前は泣きそうな顔でくしゃりと笑った。そこにあるのは悲しみであり、喜びであった。どこまでも不器用な少女がそこにはいた。
 その時俺の胸に溢れたのは恐らく──愛しさと呼ばれるものだったのだろう。