春にして君を想うU


 コーヒーを手に寝室に戻ると、先刻まで寝ていたはずの五条も目を覚ましていた。少し残念だ。そう思いながら、名前は「おはようございます」と声をかける。眠っている時の彼が纏う、静謐な気配が好きだった。……絶対に、口には出さないけれど。
 けれど返事はなかった。返されたのは無言の視線。五条は不機嫌さを隠しもしない。への字に曲がった唇は不満を表していた。

「なんで先に起きてんの」

「なんでって……目が覚めたから?」

 それ以外に理由があるだろうか?
 しかしその答えは彼のお気に召さなかったらしい。五条は柳眉をきゅっと顰めて、頬を膨らませた。

「今日は俺が名前の世話を焼きたかったのに」

「……焼かれるのはお嫌いですか?」

「そういうんじゃないけどさぁ」

 なんだかはっきりしない物言いだ。その上とうに覚醒しているというのに、なかなかベッドから出ようとしない。体だけ起こして、膝を抱える姿は拗ねた子供のようだった。とても28歳の成人男性のする格好ではなかろう。……にも関わらず、違和感を抱かせないのが五条悟の恐ろしいところである。
 名前は『何をそんな拗ねることがあるんだろう』と内心首を傾げながら、室内に足を踏み入れる。一歩、二歩。この家唯一の、そして二人分にしても大きすぎるベッドへと歩み寄り、湯気のたつコーヒーを差し出した。

「とりあえず冷めないうちに飲んでください。こんな砂糖たっぷりのコーヒー、あなたしか飲めないんですから」

 甘党好みに調整されたコーヒーは、彼に受け取ってもらえなければ捨てるしかない代物。無糖派の名前がそう言うと、さすがの彼も「ん、」と言葉少なにではあるものの、カップを受け取った。
 名前はベッドの縁に座って、その様子を見守った。優美な影を落とす銀の絹糸に、繊細な鼻梁。冬の日の朝を思わせる瞳には、未だ微睡みが揺蕩っている。雪花石膏アラバスターの彫刻さながらだ、と名前は何度目かわからない感想を抱いた。
 辺りには静けさがあった。雲雀の鳴く声がして、木立が揺れる。遠くで犬が吠え、誰かが盛大なくしゃみをする。そうしたものの真ん中で、五条悟はコーヒーを啜る。穏やかで心地いい、平凡な朝の光景。そういったものを、名前は愛おしいと思う。

「……名前、」

 ことり。小さな音がして、五条がカップをサイドテーブルに置く。そしてその両手は真っ直ぐ名前へと差し出された。──なぜ?

「立ち上がらせてほしいんですか?」

「違う違う」

 かと思えば、五条は自分の膝の間を指差す。「ほら早く」と。明確な言葉には表さず、欲求を満たそうとする。尖らされた唇が、何かを名前に求めている。
 名前は『よくわからない人だな』と思いながらも、望まれるがままに動いた。距離を詰め、五条の膝の間に体を納め、ワガママな体を抱き締めた。

「これでいいですか、悟さん」

「……うん」

 銀の髪の一房が首筋を擽る。でも名前は何も言わなかった。言うべきことではないと、なんとなくわかっていた。それを抜きにしても、感じられる温もりは心地のいいものだった。理由など、それだけでいい。

「髪、伸びたね」

 彼の手が、名前の黒髪を持ち上げる。その気配を、名前は背後で感じる。自分からは見えない、なのに彼にとっては明らかなものを。そしてそれはきっと、他にも存在しているのだろう。名前にとっての彼もそうであるように。

「切った方がいいですか?」

「いいって言ったら切ってくれるの?」

「私は別に、構わないけど」

 あっさり頷くと、溜め息をつかれる。「安売りするなよ」なんて。「髪は女の命だろ」その文句の正当性を名前は知らないけれど、彼が口にすることに少しだけ驚いた。そういうのは『下らない』と一蹴するタイプだと思っていた。
 しかしこのように言うということは、きっと正しく伝わっていないんだろう。名前は悟に、「そういうんじゃないですよ」と静かに反論した。

「安く見積もってるわけじゃない。あなたじゃなきゃ言いませんよ、こんなこと」

「…………」

 返事の代わりに、背中に回った手に力が込められる。普段は騒がしいくらいの彼だが、時々こうして沈黙を好むことがあった。そういった時、名前もまた口を噤むことにしている。──その時間は、嫌いじゃなかった。

「……あのさ、」

「はい」

「名前は俺のこと──」

 けれど静寂は無粋な騒音によって打ち破られた。──目覚ましのベルだ。機械音がけたたましく鳴り響いて、五条は苛立たしげに髪をかき上げた。
 「あー!もうっ!うるさっ」昨晩セットしたのは自分なのに、そう叫んで目覚ましを止める手は殆ど殴るようなものだった。
 彼は明らかに気分を害している。先程までより、ずっと。
 遠ざかる体温を少しだけ惜しみながら、名前は袖を引いた。

「──悟くん」

「……は、」

「って、呼んだ方がいいですか」

 ぶつかる瞳。透き通る蒼は、いっそ吸い込まれそうなほど。寒々しくも翳りのない空の色も名前は好きだった。
 思えば彼に関しては好ましいと思うことばかりだ。反対に、『やれやれ』と思うことはあっても、嫌いだとは思ったことはない。そんな当たり前にあった感情を、今さらながら彼の瞳の中に見いだす。彼にとっての私もそうであったらいいと、そう願っているということまで。

「……いいよ、今のままで」

 先に目を逸らしたのは五条の方だった。ふいと視線を外し、彼はひとりで立ち上がる。それは少し、寂しいことだった。
 でも彼はその場にとどまった。ベッドのわきに立ったまま、名前を見下ろした。

「早くおいでよ、……俺のこと、甘やかしてくれるんでしょ」

 差し出された手に触れると、指先に熱がこもっていることを知った。珍しいな、と名前は思った。彼の肌が熱を持つのは、大概が夜の話だ。彼の体が熱いと感じるのも、その目元に仄かな朱色あけいろが滲んでいるのも。朝の長閑な光の下に立つ今の彼の姿を、奇妙な感慨の中で名前は見ていた。

「朝は和食がいいな。こってこてのヤツ」

「ご飯炊いてませんよ」

「早炊きすればいいでしょ。予定より早く起きれたし」

 そんな何てことない言葉を交わしながら、リビングに向かう。勝手知ったる家のなか。なのに手は繋いだまま。五条から離すことはなかったし、名前からも異論はなかった。そうであるのが当たり前のように思えてならなかった。

「まぁ、あなたが待っていてくれるなら私は何でもいいですけど。おかずは?さすがに今から買いに行くのは難しくないですか?」

「卵はあるし、シャケも昨日買っておいたよ」

「……最初からそのつもりだったなら、ご飯も炊いておいてくれればよかったのに」

「ごめん、それは普通に忘れてた」

 二人でキッチンに立つのに疑問を抱かなくなったのはいつからだろう。彼が高専の近くに家を借りた時には既に日常と化していた気がする。だからきっと……そうだ、『それならもう都合がいいからいっそ』と言って、彼がこの家を借りたのだ。
 『家政婦みたいじゃないか』とひとには眉を顰められることもあるけれど、折に触れて世話を焼きにいく今の生活が、名前としては嫌ではなかった。

「今日は野薔薇さんを迎えに行く日でしたよね。よろしく伝えておいてください。私はまた後日挨拶に伺いますから」

「着いてきてくれてもいいのに。恵にも会いたいでしょ?」

「『五条先生』の邪魔はしたくないので。私は雑事を片付けていますよ」

 公私混同するつもりはない、と暗に告げると、五条はわかりやすく残念がった。「その『五条先生』っていうの好きじゃない」……そんな、可愛らしく言われても困る。
 名前は火を止めて、代わりにその手を五条の頭へやった。長身の彼が相手だと、なかなか難しい。そんなことを思いながら、爪先だって、彼の頭を撫でた。

「今晩、時間があるなら映画を観に行きませんか?久しぶりに……どうでしょう?」

「……俺と?」

「はい、私と悟さんで」

 首肯すると、冷ややかなかんばせが春の陽気に包まれる。「やった」と無邪気に笑う姿に、名前まで感化される。だから彼といるのは心地いい。自然に笑うことができるから、だから我儘だって聞いてあげたくなる。

「あ、でも夕飯は1年に奢ってやるつもりだから、その後でもいい?迎えに行くよ」

「今日が難しいなら無理しないで。私はいつでも構いませんから」

「やだ。もう決めたから、反故にするならいくら名前でもデコピンだからね」

「それは怖いですね」

 笑いながら、このあとの予定を決めていく。彼が教師をしている間に、この部屋の片付けをしよう。忙しかったのか、ごみも溜まっている。洗濯物も出しっぱなしだ。掃除なんてもっての他であろう。
 腕がなるな、と名前は浮き立つ心で思う。──今晩の予定を楽しみにしているのは、決して彼だけではないのだ。