2007.10
夏の盛りに本を借りた。著名な小説家の書いた、遠い異国の紀行文だった。それを名前が読み終える頃には、風に冷たいものが混じるようになっていた。あまりにもあっけない夏の終わりだった。
「…………」
沈みゆく日の中で、名前は本を閉じた。
深い感慨はなかった。読み始めた時に感じていた高揚が嘘のようだった。きっとあの日の私は死んでしまったんだ。名前はそう思った。彼が亡くなったあの日に、私は死んだ。でもそれは大いに意味のあることだった。
意味のあることに変わっていったのだ、と名前は大きく伸びをした。最強の呪術師──もとい、スパルタ教師にしごかれた身体は、それだけで嫌な音を立てた。
肩を回しながら時計を見た。まだ夜というには早い。どうしようか、と名前は考えを巡らせる。今返しに行くべきか、それとも明日にしようか。急ぐ用事ではないと思う。返却の催促はまだ受けていない。だから後日でも構わないのだ。
次いで、名前はカレンダーを見た。明日は日曜日だった。それなら明後日は?呪術師に決まった時間割りなどない。たった一人の同級生とはいえ、任務が入ってすれ違うこともままある。
名前は席を立った。心残りは、ないに越したことはない。
「……そんなことのためにわざわざ来たんですか」
高専、男子寮。殆どが空室であるが、例外もある。その例外のひとつ、七海建人の部屋をノックする。と、一呼吸のうちに扉は開かれた。
返却が遅れたことに、彼は触れなかった。本を受け取ると、呆れたように目を細めた。それだけだった。それだけだったのに、名前は勝手に罪悪感を抱いた。
名前は「ごめん」と謝った。──何に対して?……わからない。わからないけれど、彼に謝らなければならないことは幾つもある。そんな気がしてならなかった。
しかし七海は微かな微笑を浮かべた。少しだけ、困った様子で。
「謝らないでください。別に、責めてるわけじゃない」
「入りますか?」と聞かれて、頷いた。
入ってみて、『随分久しぶりだな』ということに気づいた。夏の頃までは殆どこの部屋に入り浸っていた。名前と灰原、二人で七海の部屋に集まるのが恒例だった。
室内に大きな変化は見られなかった。幾つか本が増えたようだが、目立つものといえばそれくらいだった。それくらいしかないのに、名前は所在なく辺りを見回した。なんだか知らない人の部屋のようだった。
「勉強してたの?」
机の上には名前も持っている青い参考書が広げられていた。それ以外に、名前の知らない問題集も。
「ええ、まあ」
「自主的に?これ、宿題じゃないでしょう?」
「……勉強は、嫌いじゃありませんから」
名前は「そう」と答えた。
肯定でも否定でもない、曖昧な、それ。でも他になんと言うべきかわからなかった。責めるべきところは何もないはずなのに、胸の辺りがざわついた。
「七海くんは頭がいいからね」
──だから、なんだというのだろう。呪術師に、果たして数式が必要だろうか?
七海は今年の一年の中では一番頭がよかった。『きっといい大学に行けただろうね』灰原と言った、他愛のない冗談が、今さらになって心臓を抉った。
七海は何も答えなかった。以前は『冗談よしてください』と否定してくれたのに。なのに今日の彼は聞こえなかったかのように沈黙を守った。それが答えだったのだろう。たぶん、きっと。少なくとも、名前にとってはそうだった。
「続き、借りてきますか?」
七海は本棚に手をかけながら言った。そこに並ぶものの多くを名前は知らないし、理解することもない。そういう生き方をしてきたし、これから先もそうやって生きていくのだとも思う。それを不幸だとは思わなかった。
名前は首を振った。彼から借りた本は上巻だった。著者がローマを発つところで終わっていた。彼がその先に訪れたであろう石畳の街や澄んだ空気、空と海の混じりゆく景色を、名前が見ることは生涯ない。本の中でも、現実でも。そういう生き方を、名前は選んでいた。
「続きはいいよ。私にはもう、そういうのはとても遠いところのように思えるから」
現実味がない夢は無味乾燥としている。そんなものだ。海辺での生活や安穏とした日々なんて、名前は求めていない。そういったものからは随分と遠いところまでやって来てしまった。この世界から離れた自分なんて、想像すらできやしない。
七海は「そうですか」と平坦な声で応じた。……でも少し、傷ついているみたいだ。泣いているんじゃないかと一瞬思って、そんなことを考える自分に名前は首を傾げた。
特別、悲しむことじゃない。名前には名前の、彼には彼の人生がある。それはごく当たり前のことで、どちらの方が優れているなんてことはないはずだ。──適正があるからって、術師にならなきゃいけない決まりはない。
名前は改めて七海に向き直った。自分よりずっと高いところにある目を。深い緑の色をした瞳を、真っ直ぐに見つめた。
彼との付き合いは決して長いものではない。一年と半年、……でも、かけがえのない時間だった。──間違いなく、七海建人は名前の数少ない友人であった。
「七海くんならどこでだって上手くやっていけるよ。キミは、私とは違うから」
「……そうでしょうね」
彼は否定しなかった。けれど一瞬、痛みを堪えるように顔を歪めた。
でもそれは瞬きのうちに消えていた。後に残ったのは、彫像のような冷たさだった。
名前は彼の部屋を後にした。背後でぱたん、と扉の閉まる音がした。それは断絶の帳だった。既に遠く隔たってしまったのだと実感して、名前は眉を寄せた。力を入れていないと、何か大きなものが押し寄せてくるような気がした。それはとても恐ろしいことだった。
「──おそい」
また別の部屋をノックすると、今度は酷い顰めっ面に出迎えられた。五条悟はいたくご機嫌ななめだ。「約束破るなんてサイテー」「俺の純情を弄んで」などと言って、名前の頬をつねる。
そうしても名前の術式が発動して痛みが五条に返ってくることもないし、仮に発動したとしても彼ならばなんの苦もなく受け流せるであろう。その確信があったから、名前は彼の攻撃を甘んじて受け入れた。どんな理由、どんな形であれ、今は断罪の言葉が心地よかった。
「まだ約束の時間には早いように思うのですが」
「うるさい。俺はもう待ちくたびれたの」
「なるほど……?」
今日は夜通しゲームをしよう、と五条に誘われていた。明日は日曜日。新作ゲームを始めるにはもってこいだ、と彼は言った。相手に名前が選ばれたのは消去法だ。他に引き受けてくれる人がいなかった。ただ、それだけのこと。その理由のなさが、名前にとってもちょうどよかった。
五条に引きずられるようにして、彼の部屋に入るのはもう何度目のことだろう。夏の終わりから数えて、両手では足らなくなった。以前なら夢にも思わなかった変化だ。でもそれを名前は受け入れていた。
「ほら座って座って」
テーブルには彼が頼んだらしいピザや炭酸飲料が並んでいる。どれも名前にとっては物珍しい代物だ。
「私はお茶をいただきますね」
「どーぞぉ」
冷蔵庫から出した緑茶をコップに注ぐと、五条が横から茶色の液体を追加してきた。止める間もない出来事だった。見事な早業。さすが最強の呪術師。名前はポカンとして、気味の悪い色に染まったコップを見下ろした。
「……何してるんですか」
「そりゃ名前が勝手なことするからでしょ」
「断り入れましたよね」
「そうだね?」
「…………」
五条悟は悪びれもしない。何を言っても無駄。お手上げだ。名前は一度きゅっと唇を引き結んでから、えいやとばかりに勢いよくコップの中身を呷った。
「どう?どう?」
「……さいあくです」
うえ、と吐く真似をすると、爆笑でもって返事をされる。
最悪だ。最悪の味に、最悪の反応。名前は五条のコップを引ったくると、中身を口直しに使った。飲みかけだろうが、それが飲み慣れないコーラであろうが、そんなのは些末なこと。今は口内を洗浄するのが最優先だった。
「五条先輩、」
「ん?」
「あなた、普通に最低ですね」
「あはは、よく言われるー」
それで反省もしなければへこみもしないのだから、精神面まで化け物か、と名前は思う。思って、『いや、』と否定する。
そんなことはない。彼にだって人並みの感情はある。誰かを大切に思うこともあるし、大切な人に裏切られて傷つくこともある。
──五条悟が名前を部屋に誘うようになったのは、夏油傑が高専を去ってからのことだ。
名前は咳払いをして、「まぁでも、」と口を開いた。
「いい経験でした。緑茶とコーラは混ぜてはいけないものなんですね」
「ぶははっ!そりゃそーでしょ!」
大笑いする五条に背中を叩かれる。
結構、地味に痛い。痛いけど、この痛みが愛おしい。以前は術式のせいで人と触れ合うことを避けていた。だからこうして遠慮なしに触れられるのは、とても幸せなことだと思う。そしてそれは、今目の前で笑っている性格の悪い男がいなければ得られなかったものだ。
「ほら、早く食おーぜ。ピザが冷めちまう」
「はいはい」
明日をも知れない命だけれど、少なくとも今晩の予定は埋まっている。そしてそれは決して無味乾燥なものではなかった。