モダン・タイムスT
着信に応えると、『マジむかつくんだけどっ!』という叫びが耳を貫き、名前は思わず眉間に皺を寄せた。
まったく、喧しいにもほどがある。一瞬聴覚が使い物にならなくなったではないか。
そんな文句を抑えて、名前は「どうしたんですか」と訊ねる。そうしてほしいのだということは既に察しがついていた。だてに10年付き合ってない。
『上の連中だよ!あいつらときたらさぁ……』
最初は殆ど怒声だった。怒りが先行していて、ただそれを誰かに伝えたい。自分の怒りを知ってほしい。そんな具合であったけれど、名前が静かに相槌を打つうち、釣られたように五条の声音も落ち着いていった。
そこでようやく詳しい事情を聞き出す。
──高専の一年3人が、特級レベルの呪霊と交戦した。
その内容は、名前の臓腑をも凍りつかせる代物だった。
「みんな、は」
ひゅうっと、喉が鳴った。
気管を焼かれるその感覚には覚えがある。いつまでたっても慣れない、おぞましい感覚。冷ややかな風が頬をなぶり、名前は携帯を握り締めた。嫌な想像に、目眩がした。
『大丈夫、恵も野薔薇も無事だよ』
「……虎杖くんは?」
『悠仁は……』
電話口の彼は、どうしてか躊躇いを見せた。大丈夫だと、先程と同じように言えばいいだけなのに。なのに、どうして?
まさか──と言いかけて、名前は首を振った。
「いえ、いいです。あなたのその様子から察しがつきました」
『あれ?そう?』
「はい。だから今は聞きません。また後ほど詳しく聞かせてもらえれば、それで」
嫌な想像をした。それは本当だ。10年前のあの晩夏の日、触れた膚の冷たさは永劫忘れることができない。それは折りに触れ、名前の指先によみがえった。
でも今回は違う。違うのだということを、五条の様子から感じ取った。軽薄なようで、実際のところは仲間意識の強い人間だ。そんな彼が、ただ怒りを露にした。悲しむでも悼むでもなく、そこには燃え盛る憤怒だけがあった。
だから、と名前は未だ騒がしい胸を押さえた。だから、大丈夫。何も心配することはない。そう言い聞かせ、ぎこちない笑みを浮かべる。
すると、電話の向こうの気配も揺らいだ。
『……やっぱ名前にはバレちゃうか』
纏う空気が変わった。声音も、語調も。怒りは鳴りを潜め、春の柔風が名前の耳元を擽った。
『じゃあ高専で待ってるから。そっから先は僕に任せて』
「え、今からですか?」
──確かに『後ほど』とは言ったけれど。言ったけれど、それは些か急な話じゃないか?
名前は腕時計に目をやって、それからさっきまで自分が食事をしていた定食屋を見た。その中で自分を待っている人のことを。考えたがために、声には不満や困惑の色が滲んでしまったらしい。五条悟は、そういうのを敏感に察知する。
『そうだよ。……なに?僕より大事な用事でもあるっていうの?』
一段低くなった声。これは彼が気分を害した時に見せる合図のひとつだ。これから怒りますよ、拗ねますよ、という一種の宣言。
名前は肩を竦めた。「そもそも優劣をつけるつもりはないです」そんなことができるほど、自分は立派な人間じゃない。
後ろ向きな理由からそう言ったのだけれど、返ってきたのは無言の抗議。
「……五条さん?」
返事はない。徹底抗戦を決め込むつもりだろうか。名前はひとつ、息をつく。折れることにはとうに慣れていた。
「……わかりました。急ぎなんでしょう?これから向かいます。ですが少し待ってもらってもいいですか?まだ食事が残っているので」
『ん、』
けれど五条は。彼は言葉少なに答えると、『……ね、怒ってる?』と小さな声で聞いてきた。消え入りそうな──いたいけな少年の響きで。
……らしくない。まったくもって、《五条悟》らしくない。思わず、名前は目を瞬かせる。
「……?怒っていたのは五条さんでしょう?」
『そーじゃなくて。……や、怒ってないならいいけど』
「……怒りませんよ、今さらそんなことで。悟さんの我が儘にはもう慣れましたから」
名前は意識的に声の調子を変えた。親が子へ語りかけるような、そんな語調に。
彼の所業を優しく肯定してやると、何故だか今度は『めんどくさい男だって思ってる?』という詰問を受けた。どんな思考回路をしているんだろう。長い付き合いになるけど、予想がつかない。
「本当に面倒だったら断ってますよ」
『ふぅん?……それならいいや』
満足したのか、彼は『待ってるからね』と念を押して、電話を切る。いともあっさり。自分の言いたいことだけ言って、嵐のように去っていった。そんなものだ。彼は、いつだって。
名前は溜め息をつき、店内に戻った。
「ごめん、七海くん。呼び出しだった」
「そんなことだろうとは思ってました」
淡々と応じる七海の前の皿は既に片付けられている。随分と待たせてしまったらしい。名前の頼んだハンバーグはすっかり干からびていた。なんとも悲しい姿である。
名前は食後のコーヒーを飲む七海の前に座った。
今朝はなんだかおかしなことに、言い渡された任務が七海と被っていた。それは1級術師が二人必要だったから──というわけではない。ただのミスだ、と補助監督に教えられた時にはもう呪いは払い終えていた。
かといってその場で解散というのも味気ない。何せ相手は元同級生。数少ない友人の一人である。だからこれ幸いと昼食に誘ったのだけれど──
「七海くんは先に帰ってくれてもいいよ。私もこれだけ食べたらすぐ高専に行かなくちゃいけないから」
「いえ、待ってます。コーヒーは落ち着いて飲みたいですから」
「……そう」
名前は「ありがとう」と破顔して、冷えたハンバーグにナイフを入れた。でも彼の優しさが温かかったから、苦ではない。雲間からは光が差し込んでいた。
「七海くんはコーヒーの似合う大人になったね」
「五条さんと比べたら誰だって大人でしょう」
「そういう物言いも、昔よりずっとしっくりくる」
「……そうですか」
七海はサングラスの縁に手をやった。そういう仕草もよく似合う。生真面目な勤め人といった風貌だ。術師は浮世離れした風体の者が多いが、彼は違う。地に足のついた大人、というのが名前の評価だった。数少ない常識人、と言い換えてもいい。
──だから、そんな七海が術師の世界に戻ってきた時には、本当に驚いた。驚いたし、悲しかったし、──とても、嬉しかった。
「そういえば、昔、七海くんから上巻だけ借りた本があったね」
「……そうでしたか?」
「うん、私はよく覚えてるよ。飽きて、続きを借りるのはやめにしたんだ」
「あの頃のアナタは五条さんに引っ張り回されてましたからね。本を読む暇もなかったでしょう」
「そうかもしれない。でも、それだけが理由でもないけどね」
雨は上がった。厚い雲はほどけ、煌々とした光が照りつける。アスファルトは乱反射し、少し眩しいくらい。でも名前が目を細めたのはそのせいじゃなかった。
あの頃は必死だった。大きなものを喪って、それを繋ぎ止めるためにがむしゃらになっていた。ただ前だけを見つめ、隣にいる人のことなど顧みていなかった。断絶の帳を降ろしたのは、名前だって同じだった。
「あの本、まだ持ってる?」
「……ええ、恐らくは」
「じゃあ今度はちゃんと読んでみようかな。……また、貸してくれる?」
彼は優しいから断らなかった。「いいですよ」と二つ返事で答え、コーヒーを飲み干した。
「私は急かしませんから、ゆっくり読んでみてください」
「うん、ありがとう」
名前が「疲れた社会人になった今なら、あの本も楽しめそうな気がする」と真剣に言うと、七海もほんの少しだけ頬を緩めた。
「そうかもしれませんね」
その声には、昔と変わらない親愛の情が香っていた。