モダン・タイムスU
高専、その地下。軋む木製の階段を下りると、開けた空間に出る。剥き出しの煉瓦が冷えた印象を与える室内。住みかとしては些か味気ないその部屋にも最低限の家具は備わっている。
そのうちのひとつ、長椅子に座っていた少年は、名前の姿を認めるとパッと顔を華やがせた。
「名前さん!」
こんにちは、と挨拶を返すこの少年は、五条悟の生徒だとは思えないほど礼儀正しい。虎杖悠仁、彼は呪術師には数少ない善良な人間だ。そんな彼を前にすると、名前も思わず破顔してしまう。
「よかった、元気そうで」
「あー……でもまぁ一応、死んでたらしいっすけど」
「そのようですね」
名前は目の前に立つ少年を矯めつ眇めつ眺め回した。欠損した箇所はないし、心臓も正常に動いている。死んでいた──なんて、冗談にしか聞こえない。虎杖悠仁は健康そのものだった。
「あのー……」
「ちょっとそこ、踊り子さんに手を触れないでくださーい」
背後から五条に腕を引かれ、我に返る。関心が高まるあまり、どうやら虎杖の体に触れてしまっていたらしい。耳にはまだ、彼の心音が残っている。
「ごめんなさい、虎杖くん」昨日今日挨拶を交わしたばかりの人間だ。親しい仲ではないというのに、軽率だった。心音を聞くためとはいえ、いきなり抱き着いてしまうなんて。
こういう時、友人が少ないと距離感を間違えてしまう。つい五条にするのと同じような対応を取ってしまった。
そう、名前が頭を下げると、しかし虎杖は狼狽えた。
「いやっ!別に嫌だったってわけじゃあなくて……」
「……優しいですね、虎杖くんは」
「どーも……?」
なんだか弟ができた気分だ。
名前は目元を緩め、少年の頭を撫でた。最初は灰原に似てると思ったけれど、中身は全然違う。灰原はいつも兄のように名前を導いてくれた。……今も昔も、変わらず。
「悠仁はいいって言ってくれたけどセクハラだからね、セクハラ」
温かな記憶から名前を引き戻したのは、五条の囃し立てる声だった。
彼は「いけないんだー」と小学生みたいな物言いで名前を責める。これではどちらが年少者かわかったものではない。虎杖くんの方がよっぽど出来た人間じゃないか、と名前は五条の頬をつねった。
「そういうあなたは未成年者略取及び誘拐、これは疑う余地のない犯罪では?」
「悠仁の同意は得てるからいいもん」
「未成年者の同意があっても罪には問われますよ」
「マジで?」
「知らなかったなー」と彼は言うが、本当のところはどうだか怪しいものだ。それに例え知っていたとしても、彼が他人の作ったルールなどに従うとは到底思えない。五条悟にとっては己こそがルール。彼を知る人間にとってもそれは周知の事実である。
名前は『やれやれ』と腕を組んだ。
「虎杖くんを匿うというのは賛成ですが……、五条先生、あなたちゃんとお世話できるんですか?」
「おせわ……」
「できるできる、任せなさいって!悠仁のことは僕が立派に育ててみせるから!そりゃもうビッグになるよ!」
「あのー、俺そこまで子供じゃないんですけど……」
自信満々に胸を叩く五条を無視して、辺りを見回す。
暫く日の当たらない生活を強いるというのは心苦しいが、そこはまぁ仕方ない。仕方ないが、それ以外の生活一切は日常と変わりないものにしてあげないといけないだろう。虎杖はまだ成長期の子供だ。睡眠に食事、適度な運動。どれも欠かすことはできない。
「では虎杖くんの食事はどうするおつもりで?」
「それはまぁ適当に……」
「…………」
「悠仁だって高校生だし一人でできるよ」などと宣う男は、何事も自分の尺度で測りすぎるきらいがある。自分にできて、他人にできないこと。それを『まぁなんとかなるでしょ』の精神で片付けようとする。
「だ、大丈夫だって!自分のメシくらい自分で用意できるから……」
「虎杖くんは黙って。五条先生を甘やかさないでください」
「はいっ!すんませんっした!」
名前は溜め息をつく。
虎杖はつい先日まで呪術師とは縁のない世界で生きていたのだ。それが突然こんなことになって、本人も知らないうちに大きな負担となっているだろう。それは肉体的にも、精神的にも。
その上呪力操作の訓練を受けながら、身の回りのこともこなさなければならないなど──可哀想だとは思わないのか。
「わかりました、虎杖くんの面倒は私が見ます」
「はっ!?」
「ええー!悠仁は二人で育ててこうって決めたじゃん!僕も親権を主張するよ」
「ダメです。恵くんの時も思いましたが、五条先生では子供の教育に悪すぎる」
「酷いなぁ、恵も悠仁も僕たち二人の子供だろ?」
飄々と笑う男と、おいてけぼりを食らわされる少年。二人を見比べ、名前は『全然似てないじゃないか』と呆れる。いや、そもそも五条の血など虎杖には一滴も流れていないのだが。
……話が横道に逸れた。脱線したというか、むしろ宇宙にでも飛び出してしまったレベルだ。名前は「ともかく、」と咳払いをする。巻き込まれた虎杖がさすがに哀れだ。
「生活面については私が何とかします。虎杖くんは気にせず訓練の方に集中してください」
「はいっ了解っす!ありがとうございますっ!」
折り目正しくお辞儀をする虎杖に、名前は微笑む。
伏黒恵は昔から大人びた子だったから、なおさら虎杖のこの反応は新鮮なものだった。五条が頼りにならないという点を抜きにしても、彼に世話を焼くのは悪くない──むしろ楽しいくらいだ。
「では私は夕食の用意をしますね。虎杖くん、苦手なものはありますか?」
「好き嫌いはないよ、自慢じゃないけど宿儺の指を食えるくらいだし」
「それは……反応に困るジョークですね」
ソファに戻った悠仁は呪骸を抱え直し、リモコンの再生ボタンを押す。映画鑑賞、もとい修行の再開だ。
邪魔にならないよう、名前は静かに一歩下がる。……が、背中が何やら固いものにぶつかった。
「五条先生?」
背後をとったのは、やはりというか彼だった。しかしなぜ?理由が読めない。表情も、何を考えているのかも。わからないまま、名前は彼に抱き締められた。
「無視するなよ」掠れた囁きが、耳朶を擽る。「やっぱり怒ってんの?」おちゃらけていたかと思えばこれだ。『情緒不安定にも程がある』と思いながらも、名前がそれを口にすることはなかった。
彼なりに動揺が残っているのかもしれない。生き返ったとはいえ、虎杖が殺されたのは真実だ。それを考えれば、無下に突き放すこともできなかった。
「……怒ってませんよ。こんなことで嘘はつきません」
「ほんとに?」
「ええ。ですからそろそろ放していただけませんか?」
「んー……、ヤダ」
「…………そうですか」
だだっ子か。
名前は諦めて、肩の力を抜いた。こうなったら抗うだけ無駄だ。満足するまで付き合ってあげるしかない。「僕を待たせた罰だよ」なんていう理不尽極まりない理由でも、名前は大人しく彼の腕の中にとどまった。
……気づかぬふりをしてくれている虎杖くんには感謝しなくてはならないな。
僅かに感じる羞恥を圧し殺して、名前は五条の背中に手を回す。
何もかもが手遅れだった。そうしてほしいのだと彼の纏う空気から察してしまうのも、それに馬鹿正直に応えてしまうのも。どうしようもないほどに、手遅れだった。