歌に生き、愛に生き


 鳴り響く轟音、地響き。名前の目が捉えたのは、空を駆ける二つの影。遠目には何がなんだかわからないが、間違いない。これは異常事態だ。

「いったい何事です、か……」

 高専の敷地は広い。どうせならバスの一本でも走らせてくれたらいいのに。そんな不満も、瞬時に霧散する。
 派手な破壊音を立てて木屑の飛び散る建物。そこに向かう途中、名前が出くわしたのは、ボロボロの野薔薇とそんな彼女に羽交い締めにされる真依だった。竹刀を持った真希もいる。

 ……本当に、何がどうしてこうなったのだろう?

「あっ!ちょっと聞いてくださいよ名前さんっ!!」

「黙んなさいよアンタッ!この人は関係ないでしょ!」

「うっさい!暴れんなッ!」

 互いを罵り合う二人。おいてけぼりを食らう名前は、「二人を止めてください」と真希に頼む。
 真依は彼女の妹だし、野薔薇は後輩だ。ここは真希が適任だろうと名前は思ったのだけれど、彼女から返されたのは肩を竦める仕草だけ。『これはアンタが原因だろ』と言外に示され、名前は溜め息をつく。
 ……まぁ確かに。話をややこしくしてしまった自覚はある。

「落ち着いてください、お二人とも。野薔薇さんは真依さんは離して、真依さんも挑発しない。交流会はまだ先でしょう?」

「けど──っ!」

「……野薔薇さん、今は抑えて」

「……はい」

 不満げではあったが、野薔薇は真依を締め上げていた手をほどく。『やれやれ』とばかりに鼻を鳴らす真依に青筋を立ててはいるけれど、寸でのところで堪えている。一応は名前の指示に従うつもりらしい。
 よかった、と名前はホッと息をつく。教師でもない自分の言うことにどれほどの力があるかは疑問だったが、なんとか場を収めることはできた。真依も野薔薇も血気盛んな質であるとはいえ、根は良い子だ。年長者を立ててくれたのだろう、と名前は内心で分析しつつ、真依に向き直る。

「そういえば今日は交流会の打ち合わせがありましたね、付き添いですか?」

「ええ、まあ──それ以外の用も頼まれて」

 何故だか、彼女は苦虫を噛み潰した表情を浮かべる。よほど『それ以外の用』というのが不本意なものなのか。
 いったいどんな──と聞きかけたところで、不意に大きな影が頭上から差し込んだ。

「おお、ミス名字じゃないか」

「東堂くん、」

 己の巨躯でもって光を遮っていたのは一級術師、東堂葵。京都校の3年生である彼すらも駆り出されるとは一体何事か。
 ただの打ち合わせではないのか──そう考えたのは一瞬のこと。すぐさまその理由に思い至り、名前は「ああ、」と手を叩く。

「そういえば今日でしたね、握手会。昨晩のラジオも聴きましたよ。高田さん、とても楽しみにしていると仰っていましたね」

「ああ。その上高田ちゃんは俺たち遠征民のことまで気にかけてくれた……最高だ。ミス名字もちゃんとラジオまで聴いていてくれたんだな。それでこそ我が同志とも、……ところで新曲についてだが」

「ええ、通勤のお供としてヘビロテ確定です。ぜひ東堂くんと語りたいと思っていたところで……個人的には限定版Bのカップリング曲が高田さんの小悪魔感にマッチしすぎてて完璧としか言えません」

「ふっ……やはりミス名字は《オタクこちら側の人間》だな。ところで限定版の特典MVは観たか?セーラー服の高田ちゃんは神がかっていた……」

「ええ、あれは《わかっている》人間が撮っていますね。長身の高田さんにあえて上目遣いをさせる……、芸術品のひとつとして鑑賞させていただきました」

 オタク特有の長文による語り合い。その果てに、名前と東堂は固い握手を結ぶ。同志、それ故の結束。熱い友情がそこにはあった。
 「なに喋ってんのか全っ然わかんないんだけど」「聞き流しとけ」と耳打ちし合う野薔薇と真希の声は届かない。遠い目をする真依のことも。オタクという生き物は群れると周囲が見えなくなるものなのだ。

「これから会場に?車を回しましょうか?」

 名前は腕時計に目をやる。
 開場まではまだまだ時間がある。とはいえ東堂にとっては慣れない土地。余裕などどれほどあっても足りないだろう。
 そう思って提案したが、東堂は首を振る。

「いや、そこまでしてもらうわけにはいかない。今回の応募券だって譲ってもらった身だからな」

「その点についてはお気になさらず。私に高田さんとお会いする勇気がないというだけの話ですから」

「そうか……」

 応募券はシングルCDについてくる特典だ。名前ももちろん購入し、それなりの数を積んだ。
 が、握手会に参加する気は毛頭ない。……何を話せばいいかわからないからである。悲しいかな、人付き合いが不得手な自覚があるために、アイドルとファンの関係すら築けない。
 しかし東堂は残念そうな顔をしながらも、『わからなくもない』と理解を示してくれた。「高田ちゃんは魅力的すぎるからな」そう納得し、「ではお願いする」と真面目な顔で名前を見つめる。

「代わりと言ってはなんだが、プレゼントがあるようなら持っていこう」

「でしたらお手紙を持っていっていただけますか?ちょうど昨晩ラジオを聴きながら書いたものが……、後ほど投函しようと思っていたので代行していただけるとありがたいです」

「了解した。高田ちゃんも喜ぶだろう。女性のファンは希少だと言っていたからな」

「そうだとよいのですが……」

 話に区切りがついたところで、「あの、」と真依がそろりと手を挙げる。

「車で行くんなら私まで着いて行かなくてもいいんじゃないかしら」

 なるほど、真依の用件とは東堂の付き添いだったのか。それならば先程の微妙な表情も得心がいく。興味のないことに時間を割かれるのは面倒この上ない。
 けれどそんな彼女のことなど、東堂は意に介さない。むしろ不思議そうに、「何を言ってる」と首を傾げる。

「帰るまでが握手会だぞ。帰り道で迷いでもしたら高田ちゃんに申し訳がたたないだろう?握手会は素晴らしい思い出として記憶しなければ」

「同意を求められても困るんだけど」

 真依はげんなりとした顔で額を押さえる。でも抵抗はしない。したところで無駄だと、嫌というほど思い知らされている。そう言いたげな顔だった。
 そんな彼女を見て、名前は『おや?』と目を瞬かせる。

「真依さん、」

「なに、よ……」

 「ちょっと失礼」声をかけてから、距離を詰める。だがその分だけ後退りする真依。──どうしたのだろう?なんだか狼狽えているみたいだ。
 肩がコンクリートの壁にぶつかって、ようやく彼女は動きを止める。さ迷う視線、赤みを帯びた目許、戦慄く唇。
 その縁に、名前はハンカチで触れた。

「ごめんなさい、土ぼこりがついてしまっていたから気になって」

 真依は身嗜みに人一倍気を遣っている。それが侮られないための鎧であるというのも名前は察している。それに元より整った顔をしている彼女だ。きれいなものにはきれいなままでいてもらいたい、というのは人間として当たり前の感情だろう。

 そんな思いから手を出してしまったのだけれど。

「……っ!余計なお世話よっ!」

 鼻息荒く、真依には立ち去られてしまう。もう少し、親交を深めたかったのだけれど。やはり京都と東京では壁があるのか、なかなか上手くいかない。せめて次世代の彼らには今よりも仲良くなってほしいが──。

「仕方のないやつだな」

 東堂は大人びた顔で言って、「気を落とすな、我が友よ」と名前の肩を叩いた。
 ……いい人だ。さすがは数少ない友人。そんな彼に、名前は「ありがとうございます」と眉を下げる。

「……あーいうのがツンデレっていうわけね」

「我が妹ながらめんどくさい性格してると思うよ」

 そんな野薔薇と真希の台詞もまた、名前の耳に届くことはなかった。