2006.03


 七海が高専の男子寮に越してきたのは授業の始まる二週間前のことだった。きっかり二週間、それが生真面目な七海にとって最低限必要な日数であった。
 寮内は閑散としていた。元より住人の数は少ないのだ。その上もう一人の同級生がやって来るのはちょうど一週間後だという。残念だったな、とは寮を案内してくれた先輩の言葉である。
 まぁしかし、ゆっくりできるのに越したことはない。七海は段ボールの山の中で静かに息をつく。それだけ時間があればこの荷物も片付けられるだろう。段ボールの中身は、備え付けの書棚だけでは到底収まりきらない量の本だった。
 七海は窓辺に立った。東京郊外、山の一部を切り開いて作られた土地。三階の窓からは先日見頃を迎えたばかりの桜並木を臨むことができた。それは穏やかな──美しい、一枚の絵画だった。

「…………」

 その絵を構成するもののひとつとして、一人の少女がいた。年の頃は七海と同じか、それより少し幼いかもしれない。ちいさな体だった。
 中庭のベンチに座る少女は本を読んでいるらしかった。肩口で切り揃えられた黒髪が艶やかに光っている。けれどそれくらいだ。それくらいしか、七海からは見えない。面立ちも、表情も。何一つとして、わからない。

 なのに、目が離せなかった。

 ──どうしてだろう?
 それは花の盛りであるが故かもしれない。桜があんまりにもきれいだったから──だから、その空気に呑まれてしまったのかもしれない。
 一瞬、一秒、一分、……或いは、それ以上。永遠にも等しい時間が溶けたのは、少女の頭が小さく揺れた時だった。視線を感じたのか、彼女は顔を上げた。ゆっくりと、けれど確かに。顔を上げ、背後を振り仰いだ。

 ──つまりは、七海へと。

 遠目でのことだった。なのにあらゆることが刹那の内に理解できた。
 彼女の透き通った目が細められるのも、仄かな微笑が唇に浮かぶのも、なよやかな手が遠慮がちに振られるのも。そのすべてが、ひとつの結果へと収束していった。

 その瞬間、七海建人はどうしようもない恋に落ちていた。





 少女は七海と同じ新入生だった。たった三人しかいない一年生のうちの、その一人。名字名前、というのが彼女の名前だった。

「よろしくね、七海くん」

 彼女はすぐに七海の部屋を訪ねてきた。
 近づきがたい雰囲気、というのはどうやら一見しただけのもののようで、口を開けば気安さの感じられる柔らかな声をしている。おとなしやかで、誠実そうな、女の子。それが相対した上で七海が抱いた感想だった。
 しかし差し出された彼女の手は黒い革で被われていた。
 制服姿であれば違和感はさほどない、それ。とはいえ変わった格好には違いない。……無論、人の好みにケチをつけるつもりもないが。
 そんなことを考えている内に、名前は微笑を少し困った風に作り替えた。七海が応えるより先に、下ろされる手。しまった、と思った時には既に遅い。

「……あんまり、肌を出したくないの」

 術式の影響で、と言い添えた彼女の頬は微かに赤い。それは恥じらいのせいだ、と七海にも察しがつく。自分の力がコントロールできないというのは呪術師としては致命的だ。羞恥を抱くのは当然といえよう。 
 ……しかし、だからといって上手い言葉をかけられるわけもなく。

「そうなんですね」

 と答えるしかない自分が、内心腹立たしかった。

「アナタは随分早くに越してきたんですね」

 ぎこちない空気を破ろうと、七海は話題を変える。幸いだったのは、名前も乗ってきてくれたことだ。
 「実家にいるより落ち着くから」そう言った彼女は七海とは違い、呪術師の家系の人間らしい。昏い目をしているのが気にかかった。
 けれど名前はすぐに穏やかな笑みを取り戻し、「よかったら案内するよ」と胸に手をやった。
 なよやかだ、と思った手は布地に阻まれて元の姿を見ることは叶わない。だからなおのこと、先刻見かけた光景が頭から離れなかった。指先の、輝くばかりの白さまで。

「それか引っ越しの手伝いでもしようか?まだ荷ほどきも終わってないんでしょう?」

「ええ、まあ……」

「ああでも、今日会ったばかりの人間に言われても困るよね」

 卑屈なのか気を遣いすぎる質なのか。判断のつかない、真面目くさった顔で名前はひとり納得する。その間、七海は否定も肯定もしていない。七海の感情を置き去りにして、名前は勝手に結論づける。

「ごめんなさい、すこし、浮かれているみたい。こういうの、憧れてたから」

「それは……」

 どういう意味、だろうか。
 思わず浮き足立ってしまったのは仕方のないこと。この瞬間の七海は健全な青少年のひとりに過ぎなかった。要するに、期待していた。目の前で自省する少女が、自分と同じ気持ちを抱いているのではないか、と。

「私、こんなだから同年代の友達なんかいなくて。……だからその、仲良くしてくれたら、うれしい」

 ……都合のいい夢を見ていた。

「……こちらこそ、よろしくお願いします」

 だがしかし、はにかみ笑う彼女を前にして、否やと言える人間がいるだろうか?それはよほどの冷血漢か、人でなしに違いない。七海は己に言い聞かせる。

 ──これは、ごく、当たり前の、感情だ。

 けれどそんなことをしたところで、なんの救いにもなりやしない。
 目的は果たしたとばかりに、名前は足取り軽く七海の元を去っていく。
 その華奢な背中を見えなくなるまで見送って、七海は壁にもたれ掛かった。溜め息が、知らず口をついて出る。

「どうしてこんなことに……」

 浮わついた考えで呪術師の世界に入ったわけじゃない。青臭い信念や子供じみた正義感、そんな理由からだったとしても、こんなことで頭を悩ませる羽目になるとは想像だにしていなかった。

 ──しかし人生とはままならぬもので。
 桜が散る頃になると、名前の目はただひとりの少年を追いかけるようになっていた。
 灰原雄──自分とは全く正反対の明るさを持つ同級生。名前が彼に惹かれていっていることを、七海は誰よりも早く察していた。もしかしたら、名前自身よりも先に。
 気づいてしまったのは、七海もまた名前のことばかりを気にかけていたからだ。……まったく、不毛なことに。