虎杖悠仁は素晴らしく出来のいい生徒だった。真面目で素直、その上呑み込みも早い。教師としてこれ程教えがいのある生徒はいないだろう。
──もちろん、恵くんや野薔薇さんにもそれぞれ可愛らしいところはあったけれど。
そんなことを思いながら、名前は朝食の後片付けを行う。
高専の地下、五条悟の秘密の部屋。この
成り行きから始まった共同生活だが、虎杖は生徒としても同居人としても特別優秀だった。期限つきの日々だというのが、惜しくなるほどに。この生活の中で唯一の不満といえば日の光が差し込まないという点だけだった。
「おお〜……」
ソファの上から、思わずといった声が洩れる。洗い物をしつつテレビを見やれば、ショットガンを盛大にぶっぱなしているところだった。物語は佳境といったところだ。この後の展開を名前はよく知っている。
「楽しめているようで何よりです」
修行とはいえ、せっかく映画を観るのだ。初めての視聴、二度と味わうことのできないこの時を、どうせなら良い思い出として記憶してほしい。そう思っていた名前にとって、虎杖の成長の速さは幸いという他ない。今この時も、呪骸は虎杖の腕に大人しく抱かれていた。
蛇口を捻り、タオルで水気を切る。ソファに戻ると、隣からは向けられるのは虎杖の無邪気な笑顔。
「名前さんが勧めてくれたお陰だよ」
……何を食べたらこんないい子に育つんだろうか?
この一ヶ月、虎杖の食事を管理していたはずの名前だがしみじみと思う。養子、というのを真剣に考えてみてもいいかもしれない。
「俺ひとりだったら観ようと思わなかったもんなぁ。タイトルに引っ掛かりがないっていうか……、いっそ『ジーさんズVSゾンビ野郎』とかだったら『めっちゃ面白そう!』ってなったかもしんねーけど……あの、名前さん?」
「いえ、なんでも。虎杖くんと趣味が合って良かったなと感慨に耽っていただけです」
「そっか。ははっ、なんか照れるな」
照れ臭そうに笑い、頭を掻く少年。それを横目に『危ないところだった』と名前は胸を撫で下ろす。
さすがにこの考えを打ち明けるには時期尚早というもの。距離感を測るのが苦手とはいえ、そのくらいの察しはつく。冗談にしても引かれてお仕舞いだろう。それは困る。
名前は食後のコーヒーを飲みながら時計を一瞥した。エンドロールまでの余裕はありそうだ。結末を知っているとはいえ、いいところで打ち止めにするのは収まりが悪い。
「これっていつ公開のやつ?結構前なのかな……、なんで今までノーチェックだったんだろ」
派手なドンパチを繰り広げ、主人公たちが老人ホームを脱出する。圧倒的な強さだ。こうなってくるともうゾンビへの脅威は感じられない。車椅子に乗った老人すら拳銃を使ってゾンビを殺していく。
虎杖からは「スゲー」と感嘆の声。アクションものが好きだという彼にとってはこの上ない爽快感だろう。
名前は記憶を辿り、「確か……5年ほど前だったかと」と質問に答える。5年か、6年か。それより前ではなかったと思う。少なくとも高専を卒業した後のことだった。
「映画館まで観に行った覚えがあります。B級映画とはいえ銃撃戦は結構な迫力がありましたよ」
「へー……、それってさ、もしかして五条先生と?」
窺い見る目に、「ええ」と応じる。と、虎杖は笑った。何の悪意もなく、朗らかに。
「本当に仲が良いんだね」
「……まぁ、悪くはないと思いますよ」
というか、単純に交遊関係が狭いのだ。天才である五条はともかくとして、名前自身も。関わり合いになる人間は、基本的に高専関係者の中で完結してしまっていた。
だから、五条の積極性が結構ありがたかったりもする。……口には出さないけれど。
そんな内心を隠して、名前は言葉を濁す。何もかもを曖昧に。深く考えないようにするのが名前の常だった。
けれど虎杖悠仁という少年は持ち前の鈍感さをこんなところで発揮する。
「俺さ、ちょっと安心したんだ。名前さんといる時の五条先生が、すっげー楽しそうで」
「……五条先生はだいたい楽しそうですよ、それこそひとりでも」
「そうかもだけど、そうじゃなくて……なんつーか、フツーって感じなんだよ。上手く言えないけど……そうだな、自然体って言うのかな、こういうのって」
名前は視線を落とす。
明確な理由はない。ただ何となく、直視するのは耐えられなかった。真正面から受け止めてしまったら何かとんでもないものが溢れてしまいそうだった。そうでなくても、口許が緩んでしまいそうなのに。
だから名前は無心で飲みかけのコーヒーを眺めた。さざ波立つ水面を。計り知れない深淵を。渦を巻く感情を。心臓の高なりを抑え、少年の無邪気な声が止むのをひたすらに待った。テレビの中の銃声はずっと向こうに遠ざかっていた。
「五条先生はスゲー術師で、でもそれだけじゃないんだって、ホッとしたんだよ」
「……虎杖くんにはそう見えたんですね」
やっとのことでそれだけを紡ぐ。
平静を装えているだろうか?そうであってほしいと願うしか名前にはできない。多くのことが、名前にとっては手に余るものだった。……自分のことも、彼のことも。
でもここに彼はいない。自分と、心優しい少年だけ。今だけは誰にも何にも憚る必要はない。ここでなら何を言っても許される。
だから名前はちいさくはにかんだ。
「私も、そうであったらいいと思います。……内緒ですよ?」
「もちろん!」
人差し指を立てると、虎杖は大きく頷いた。
彼が嘘をつく人間じゃないのはよくわかっている。その彼が『もちろん』と言うのだ。約束通り、誰にも言わずにいてくれるだろう。
名前は笑みを深めた。それは初めて他人に心の内を吐露することができた喜びのためでもあった。
これまで他の誰にも打ち明けられなかった感情。彼へ──五条悟へ抱く、自分自身でも掴み所のない想い。
虎杖でなければダメだった。名前が無意識の内に望んでいた言葉を見事言い当てた彼でなければ打ち明けられなかった。彼ならば否定も揶揄いもないと確信が持てたから、名前も言葉にすることができた。──彼が相手じゃなきゃ、素直になれなかった。
──喜びのままに、名前は虎杖の手を両手で握る。
「虎杖くん、このまま私とこの部屋で生活しましょう。大丈夫、安心して。キミのことは私が責任を持って育て上げますから」
「ちょっ、えっ!?名前さん!?何がどうしてそーなった!?」
「名前さんなんて……いえ、その響きもよいのですが、個人的には『お母さん』と呼んでいただきたく」
ああでも、それはご母堂に対して失礼だろうか。
悩む名前に、「そういう問題じゃねぇから!」と虎杖は突っ込む。だがそれなら何が問題だと言うのだろう?名前には思い浮かばなかった。
「いや、問題大有りでしょ」
名前のでも虎杖のでもない、第三者の声。
突如として降ってきたそれに、しかし名前としてはさしたる驚きはない。聞き飽きたその声が五条悟のものだったからだ。
背後に立つ彼を振り仰ぎ、名前は口を尖らせた。
「横やりを入れる気ですか、五条先生」
「入れるよ、そりゃあ。可愛い生徒がショタコンに襲われてるっていうんだからね」
「そのような低俗な感情と一緒にしないでいただきたい。私は別に無理強いするつもりはありませんから」
「ホントかなぁ〜?」
疑わしい、と五条は語尾を上げる。揶揄いに満ちた声はひどく楽しげだ。
その様子に、ふと、虎杖の言った言葉が名前の耳許によみがえる。今のこのやり取りも、彼は心から楽しめているのだろうか。──少しは、喪ったものの代わりができているだろうか。
いつの間にか銃声は止み、映画はハッピーエンドを迎えていた。
「……名前?」
「……いえ、なんでも」
「じゃあなんで目を合わせてくれないわけ?」
「五条先生がマスクしてるから合わないだけじゃないですか?」
「なに、そんなに俺の素顔が見たいの?名前のえっち」
「えっ……、……そういう発言をする五条先生の方がどうかと思いますよ」
──なんだか、調子がくるう。
覗き込まれ、距離を詰められ。鼻先が触れるほどに迫ってくる五条を、名前は顰めっ面で押し留める。その向こうには微笑ましげにしている虎杖がいたから、なおのこと。
遥かに年下の少年からそんな目を向けられて、平気でいられるなんて。信じられない、と名前は五条の鼻をつまんだ。
「何するんだよ」というくぐもった抗議の声には聞こえないふりをした。