翼のない天使U


 いつもの胡散臭い笑みを浮かべながらではあったが、今朝の五条は虎杖にひとつの任務を持ってきた。
 『修行も次の段階ってわけだね』そう言う彼は生徒思いの教師の顔をしている。ちゃんと虎杖のことを考えているらしい。その証拠に、彼が引率役として連れてきた呪術師は七海建人だった。これ以上ないほどの適任である。
 てっきり遊びに来ただけかと思った。そんな正直な感想を呑み込んで、名前は「よかったですね」と虎杖に声をかける。

「映画鑑賞もマンネリ化してきたところですし、相棒が七海くんなら安心です」

「あれ?もしかして名前さんの友だち?」

「ええ、高専時代の同級生です」

「どうきゅうせい……」

 虎杖はそっくりそのまま繰り返し、『信じられない』といった顔で七海と名前を見比べる。
 なぜだ。何が可笑しいというのだろう?首を傾げる名前の横で、五条は笑う。

「まぁ確かに同い年には見えないよね。七海は草臥れてるし、名前は世間知らずだし」

 ──そういうことか。

「私が子どもっぽいと。他でもない五条先生がそうおっしゃるわけですね」

「私も彼女も五条さんにだけは言われたくないですね。アナタこそそろそろ年相応の落ち着きを身につけるべきでは?」

 名前は顰めっ面で腕を組み、七海は冷静に反論する。さすがに到底受け入れられない。虎杖にそう思われるならともかく、この人にだけは。
 二人からの抗議に、五条は「こわ〜い」と体を抱く真似をする。もちろん冗談だ。最強の呪術師と評されるこの男に、怖いものなどあるはずもない。
 名前は「ともかく」と虎杖に向き直る。

「七海くんは至極まっとうな大人です。学ぶことも多いでしょう。この一月ひとつきの修行の成果を存分に発揮してきてください」

「はいっ!」

 ああ、この癒やしとも暫くの間はお別れか。
 彼と過ごした時間が胸に込み上げ、名前は少年を抱き締める。
 思いもがけず満ち足りた日々だった。彼を呪術師としての仕事に向かわせなければならないというのはとても胸が痛む。本音を言えば呪術界などとは無関係の世界で平和に生きていてほしい。……でも、それが叶わない夢なのは名前にもわかっていた。
 名前は最後に「気をつけて」と虎杖の頬を撫でた。どうか無茶だけはしないで、無事に帰ってきてくれればそれでいい。この温もりさえ、喪わずに済むなら。それ以上のことなど望んでやしなかった。

「ああっ!バシッと決めて、俺が使える人間だって見せつけてやるよ」

 でも虎杖悠仁が望むのはそんなささやかなものではない。彼は自立した人間で、呪術界という理不尽な世界にも屈しはしなかった。誰を恨むことも憎むこともせず、明るく笑って、戦いへと向かっていった。

「──寂しい?」

 七海と虎杖の去った部屋は、しんと静まり返っている。名前の隣に立つのは五条悟だけ。彼は静かな声で名前の顔を覗き込む。

「……まぁ、存外には」

 他には誰もいない。五条悟、名前の多くを知る彼以外には、誰も。だから当人には言えないことも言葉にできる。虎杖に対して五条への思いを打ち明けたのと同じように。
 囁きが部屋に落ちる。波紋すら残さず消えていく、それ。電源の切られたテレビは真っ暗闇。そこに映る自分を眺め、名前は己の感情と向き合う。寂寞たる部屋のなか、──そう感じてしまうことが何よりの答えだった。
 「素直じゃないねぇ」五条は肩を竦めて、ソファに座る。その後を追って、名前は「虎杖くんの足を引っ張りたくはありませんから」と答えた。
 軋むソファが立てるのは二人分の音。それは彼の代わりになるものではないけれど、慰めにはなる。

 ……そうか、これが寂しいという感情か。

 長いこと忘れていた。この10年余り、隣には喧騒があったから思い出すこともなかった。今よりずっと昔、幼かった頃には当然のように抱えていた空虚。それを名前は忘れてしまっていた。

 ──思い出さずにいられたのは、この人のお陰だ。

「ふぅん?なんか俺が想像してた以上の入れ込み具合じゃん」

 なのに当の本人ときたらまったく気づきやしない。気づかず、口を尖らせ拗ねてみせる。その唇の温かさも、肌の感触も、心音の齎す安寧も、名前は知っているというのに。
 普段は聡すぎるほどだというのに、変なところで鈍い人だ。生徒との数少ない共通点を見つけて、名前はちいさく笑う。

「虎杖くんがあまりに明るくて良い子なので、つい」

「それはわかる。……そういうとこ、灰原に似てるよね」

「別に、重ねてるから入れ込んでるわけじゃないですよ。一応言っておきますけど」

 五条は「どうだかね」と鼻を鳴らす。
 いやに突っかかるな、というのが名前の素直な感想だ。でも悪い気はしない。面倒だなと思うことだって、ない。
 むしろ何故だか無性に可愛らしく思えるくらいだった。自分より歳上の、自分よりずっと強いこの男を。愛おしいと思うなんて、それこそ想像以上の入れ込み具合だ。最初はそんなつもりなかったのに、想定外も甚だしい。

「それよりコーヒー、飲んでいきませんか?まだお時間があるなら、ですけど」

 窺い見る。と、五条は小さく「飲む」とだけ答える。
 断られるかと思って、少しドキドキした。こういうのはあまりないことだから、心臓に悪い。
 でも時には刺激も必要だ、と己に言い聞かせる。いつもいつも、求めてばかりではいられない。口を開けていれば餌を貰える小鳥じゃないのだ。大人なんだから、自分から行動しなくては。

「あれ、『ロンドンゾンビ紀行』じゃん、なつかしー……。これ悠仁と観てたの?」

 コーヒーを淹れて戻ると、五条はテーブルに放置されていたケースを手にしていた。つい先刻までテレビで上映中だった映画だ。そして五条と一緒に映画館まで観に行った映画でもある。
 「覚えててくれたんですね」嬉しくなって、声が弾む。でも五条は「当たり前でしょ」とむしろ不満げ。「僕の記憶力のよさ、甘く見てんじゃない?」そんなつもりはなかったのだけれど、一応謝っておくことにした。

「私、今月末に観たい映画が始まるんですよね。『クワイエット・プレイス』っていう……、音を立てたら即死って話なんですけど……面白そうじゃないですか?」

「ええ〜!またホラー?そこは普通『キミスイ』じゃない?名前って全然情緒ってもんがわかってないよなぁ〜!」

「悟さんって案外俗っぽいところありますよね。いえ、『キミスイ』も悪くないと思いますが」

「じゃあ『キミスイ』で決定ね」

「いえ、ここは間をとって『死霊館のシスター』にしましょう」

「どこがだよ、どこが間をとってるんだよ。バリバリ自分の趣味じゃねーか」

 出来立てのコーヒーを飲む。名前はブラックを、五条は砂糖たっぷりのものを。正反対のものを飲みながら、賑やかに言葉を交わした。
 テレビはつけなかった。地下室には相変わらずの静けさが立ち込めていた。でも寂しさは感じなかった。左肩に重なる温もりだけで十分だった。それがとても尊いものだというのを、名前は久方ぶりに思い出していた。
 昔は手袋越しにしか触れ合えなかったのに、今は違う。変わったのは、変わることができたのは、この人がいたからだ。彼との特訓があったから、名前はこの温もりを《当たり前》にすることができた。
 改めて、名前はその奇跡を噛み締める。口にしたコーヒーは砂糖抜きでも甘く感じられるほどだった。