唇は語らずとも


アニメ9話じゅじゅさんぽネタです。





 カサリ、と身動いだ拍子にポケットが鳴り、名前は「そういえば」と思い出す。そういえば、去り際七海からこっそり渡されたメモがあった。だが折り畳まれていたから中身はわからない。……『絶対に開けないでください』とも言われていたし。

「これ、七海くんから。悟さんに返しておいてくれって」

「七海が?」

「ええ」

 隣に座っていた五条は興味なさそうな顔。「別にいらねーけど」と言いながらも大人しく受け取った彼に、名前は言葉を続ける。七海から託された伝言を伝えるために。

「『ずいぶん可愛らしいものをお持ちなんですね』」

「……は?」

「って、七海くんが。……いったいなんのことでしょう?言えばわかると七海くんは言っていましたが、」

「──はぁぁあああ!?」

 名前の言葉を遮り、室内に反響する五条の大声。あまりの煩さ、距離の近さに、名前は思わず耳を塞ぐ。
 とはいってもすべては過ぎたこと。今さら防御の姿勢を取ったところで遅く、現代最強の男の声は名前の脳をも揺さぶった。

「ちょっと悟さん、煩いです」

「だってだってだってさぁ!いくら七海とはいえこれは許せねぇよ!そんでもってそれをクソ真面目に伝えるオマエにもムカつく!」

「えええ……」

 とばっちりじゃないか。これはあんまりにも理不尽だ。そう思ったけれど、名前は反論しなかった。言ったところでムダだと理解したのはかなり昔の話だ。
 だから五条に頬をつねられるのも甘んじて受け入れることにする。──彼は私のことを玩具か何かだと思ってるんじゃなかろうか。そんなことを思いながら。
 そして名前の頬を弄くり倒すこと一頻り。満足したのか飽きたのか、ようよう彼は手を離す。ただし「俺は悲しいよ」と憂いたっぷりに言うことは忘れない。名前のせいだ、と彼は言外に言っていた。

「……すみません」

 だから慰めろとばかりに擦り寄せてくる頭を名前は撫でてやった。何に怒って何に悲しんでいるのかさっぱりだが、特に害があるわけでもないので好きにさせておくことにした。……それが間違いだったのだ。

「悪いと思ってるならさぁ、ちょっと確かめてよ。俺のがそんな可愛らしいモンかどうかをさ」

「何をですか、というかそもそも何の話なんですか。ぜんぜん話が見えないのですが」

「これだよ、これ!」

「これ、って……」

 眼前に広げられた小さな紙片。そこに書かれた絵と三文字の単語に、名前は言葉をなくす。その内容の卑猥さ、幼稚さに。そんなものがまさか28歳の男の手から披露されるとは思わず、名前は呆気にとられた。
 そんな名前の両肩を掴み、五条は「どう思う!?」と迫る。

「俺のがこんな可愛い形なわけないでしょ!?性格以外は完璧なんだからね!そりゃちんこだって完璧に決まってるじゃんっ」

「おっ、大声でその名を口にしないでください!」

「何が?ちんこのこと?」

「……そうです」

「じゃー何て呼んだら満足?陰茎?魔羅?」

「口にしなきゃいい話でしょう……」

 名前は嫌悪感も露に思いっきり顔を顰める。
 単に体の一部分を示す言葉であるとはいえ、《それ》はデリケートな部位だ。拒否反応は自然と発生するもので、まさかそんなものの話を大の大人から振られるとは思ってもみなかった。
 というか、こんな下らないメモを現代最強の呪術師が書いたとは思いたくもない。けれど筆跡といい、普段の彼の言動といい、納得できる材料しか目の前にはなくて──名前は天を仰いだ。こんな下世話な会話を続けるくらいなら天井の木目でも眺めていた方がずっとマシな気分だった。

「何してるんですか、いい大人が……。これ書いたの悟さんでしょう?まったく……、七海くんを揶揄うのもほどほどにしてあげてください。かわいそうでしょう?」

「俺のを『可愛い』呼ばわりした七海なんかかわいそくないもん」

 『もん』ってなんだ、『もん』って。女児みたいな言い方をしても内容があまりに酷すぎる。こんな話なら聞かなきゃよかった。
 既に後悔している名前は何とか逃げられないかと背後に視線を走らせた。
 高専、地下室。近くにある出入り口はひとつ。そして相手は五条悟──どう計算してもムリだ。逃げられない。

「そうだよ!だからさぁ、名前が確かめてって言ってんの。俺のがどんだけ完璧か、七海にわからせてやって」

「いやいやいや何を言ってるんですか、なに脱ごうとしてるんですか、今すぐ履き直してください」

「えー……、脱がなきゃ確かめようがなくない?」

「確かめる必要性が感じられません……」

 制服に手を突っ込んで、今にも下腹部を晒さんとしている彼の手を慌てて押し止める。
 五条に対しては尊敬も憧憬の念もあるのだ。名前としては大切なそれを失いたくないからそれはもう必死だった。
 なのに彼は心底不思議そうに首を傾げるものだから、脱力する。
 ……せめて巻き込まないでほしかった。第一、そんなに否定したいなら七海くんと二人で仲良く見せ合いっこでも何でもしたらいいのに。
 現実逃避にそんなことを考える名前だが、その絵面は想像だけでもじゅうぶん悲惨極まりなかった。

「ヤだ。七海を見返さなきゃこのムカつきは収まらないね」

 そんな名前の心中など露知らず。五条は頬を膨らませ、口を尖らせる。……その仕草だけ見ればたいへん可愛らしい。整った顔立ちも相まって、不自然さは見受けられない。
 が、内容は最低だし、彼の手は未だに自身の下半身を露出させんとパンツに掛かっている。……悪夢だ。

「待って、よく考えてください。こんな真っ昼間から成人男性が下半身だけ露になっているところ、客観的に見てどうですか?おかしいと思いませんか?」

 今度は名前が彼の両肩に手をやり、懇々と説得にあたった。
 《五条悟》の看板に傷をつけるのだけは避けたい。ここにいるのは彼と自分だけとはいえ、見る目が変わらないでいられる自信はなかった。
 ──なのに彼ときたら、

「じゃあ上も脱ぐ。脱げばいいんでしょ、名前のえっち!精々完璧な俺の完璧な肉体美をしっかり目に焼きつけときな!」

 ……なんだろう。言葉は通じているのに、会話が成立しない。目眩に襲われ、名前は額を押さえた。

「いえ、全裸になればいいという話ではなく……、というか端から見たら不審者ですよ、一人で全裸になってる成人男性なんて」

「なら名前も脱げばいいじゃん!そしたら一人じゃないし寂しくない!ほら解決!」

「どういう理屈ですか……。って、こらっ、服を引っ張らない!スーツが皺になるじゃないですか!」

「いいじゃんいいじゃん今さら恥ずかしがるような仲でもないでしょ」

「少なくとも今は同意していないので羞恥心以前の問題ですね」

 ソファに押し倒され、シャツに手をかけられる。……これは、さすがに不味い。
 名前は青ざめた。公然猥褻の罪に問われる五条悟も嫌だが、強制猥褻罪を背負った五条悟はもっと見たくない。ついでに言えば、かつての学舎で全裸になる趣味も度胸も名前にはなかった。
 名前はごくりと唾を飲み込む。……イチかバチかだ。

「──では、こうしましょう」

 結局、名前が七海に《ある証言》を行うということで一応の決着はついた。五条は『しょうがないなぁ』と妥協してやったと言わんばかりであったが、恩着せがましいと抗議するのも諦めた。
 後日、高専では羞恥で顔を赤くした名前と、すべてを察した上で彼女を慰め、謝罪する七海の姿が見られた。
 そんな二人を陰から見守り、一人満足げな五条もいたのだが──すべては彼の手のひらの上であったなど、名前には知らなくていいことであったし、知らせる気もなかった。……その満足感が、『名前が七海を優先した』という事実に対する苛立ちに起因しているということも。

「……七海ばっか贔屓するからだよ」

 その呟きを知るものも、五条本人以外には存在しなかった。