2009.09


 窓からは秋の爽やかな風が吹き込んでくる。黄昏時。夕日の中に沈む町並み。時期を逃した風鈴が、ちりんと一つ、静寂しじまを打つ。
 最初は警戒心を露にしていた伏黒少年も、景色を眺めやるばかりの名前からは危険性を感じなかったらしい。床に広げたランドセルからノートと筆記用具を持ち出し、宿題に取りかかり始めてしまう。ここまでくるともはや空気にでもなったかのようだ。

 ──それはいい。いいけど、一層手持ちぶさたになってしまった。

 下町の風景に物珍しい変化は見られない。名前は雲が流れていく様子やどこかの家から匂ってくる夕飯の気配、遠く聞こえる子どもの声に意識を傾けるのを止め、息をつく。
 ──早く、帰ってきてはくれないだろうか。名前をこの家に連れてきた張本人の先輩は夕飯を作りにいくと言ったきり戻らない。あの人はいったい何を考えているのだろう。『新手のいじめだろうか』とまで考え、名前はふと己の向かいに目を移す。
 相変わらず、伏黒少年は沈黙を保ったまま。机に向かい、ノートに鉛筆を走らせている。一日一ページの書き取り。それは小学生としてはごく平凡な宿題であったが、綴られる文字はその歳に見合わない複雑なもの。故に名前は首を傾げ、思わず口を開いてしまう。

「……ずいぶん難しい漢字を習っているのですね」

 言ってから、『しまった』と思う。
 しまった、質問なんてしては彼の邪魔になってしまう。少年の勤勉さは名前の目に好ましく映った。だからこそ、口をついて出た問いに後悔が生まれる。
 けれど少年はちらりと目を上げただけで、すぐにノートへと向き直った。ただし、彼が選択したのは沈黙ではない。淡々とした声音ではあったが、「習ってない漢字も勉強しておくと、先生からの評価が上がるから」と答えてくれた。……なるほど、教師は生徒の積極性も見ているのか。
 名前は目の前の少年を眺めた。小さな手や、それが綴る文字、そして芯の通った声のことを考えた。それから彼を取り巻く環境や、呪術師の家特有のもの──澱んだ空気や冷えきった人間関係のことを思い出していた。
 いずれも名前がよく知るものだ。才ある者だけが尊ばれ、それ以外は冷遇される世界。しかし前者であれ、まったくの自由が得られるわけではない。術式を持って生まれたが故に、次代へ繋ぐ《はら》として見なされる。そこに個としての意思はない。──厭な世界だ、と外の世界を知った今の名前は思う。
 叶うなら、この少年には知らずにいてほしい。

「……恵くんはおいくつになったんですか?」

「次の12月で7歳になる」

「では恵くんの守り本尊は普賢菩薩ですね。慈悲深く理知的なお方です、きっとキミを守ってくださるでしょう。『オン・サンマヤ・サトバン』と唱えることで──」

 言いかけて、少年の目が名前を凝視していることに気づく。
 ごく自然に彼を同じ呪術師として扱っていたが、五条と知り合うまで呪術界を知らずに生きてきたという話だ。そんな彼にしてみれば、名前の話など退屈きわまりない、下手したら胡散臭いと思われる代物だろう。
 思い至り、名前は冷や汗をかく。──いつもこうだ。上手い会話が生み出せない。どこかで躓いてしまう。人との距離感が測れない。
 五条のように次から次へと言葉が紡げればよかった。或いは七海のように賢かったら、──灰原のように、天真爛漫であったなら。
 しかしいずれも名前の持ち合わさぬ才である。であるから、「すみません」と謝る他ない。ああ、なんと不甲斐ないことか。

「どうして謝るんだ?」

「……だって、つまらない話でしょう?」

「それを決めるのは俺だし、俺はそうは思わない」

 けれど少年は名前の悔恨を否定する。断固とした声で言い切り、その上「他には何かないのか?」と続きを促す。
 その真っ直ぐな眼差しに打たれ、名前は慌てて思考を巡らした。せっかく興味を持ってもらえたのだ。他に何か──、都合のいいものはないだろうか?少年の好奇心をそそるような、何かは。

「ええっと、では家内安全の秘咒について紹介させていただきますね」

 禪院の術式を受け継ぐ子どもに下手なことは教えられない。悩んだ末、名前は基礎的な護符についての話題を選んだ。
 禪院の術式は陰陽道の呪術に起源を持つ。……のだと思う、たぶん。詳しいことは知らないが、術式を見るにそう間違ってはいないはずだ。だから名前もそれに倣い、陰陽道系のまじないを教えることにした。

「護符といっても、この場合は音により効果を発揮します。呪言に近いかもしれません。言葉は『元柱固真、八隅八気、五陽五神、陽道二衝厳神、害気を攘払し、』──」

「……待ってくれ、メモが追いつかない」

「あ、すみません」

 伏黒少年はとても真面目な子どもだった。名前が手慰みに教えようとした秘咒を、ノートに書きつけようとする。真剣に呪術について学ぶ意思があるのだろう。己の身を守るため、禪院の呪いから逃れるため。──理由としては不本意極まりないものであろうに、少年はその小さな体で受け入れようとしていた。
 名前は少年の隣に移った。子どもには難しい言葉が秘咒には頻出する。隣り合って教えた方がやりやすい。そう考えてのことだったが、少年は拒絶しなかった。それが、少しだけうれしい。

「……では始めから。『元柱固真、八隅八気、五陽五神』……五神とは青龍、朱雀、白虎、玄武に麒麟を加えたものです。……五神については?」

「何となくわかる」

「では詳細はまたにしましょう。……続けますね。『陽道二衝厳神、害気を攘払し、四柱神を鎮護し、』──四柱神とは、天之御中主神あめのみなかぬしのかみ高皇産霊神たかみむすびのかみ神皇産霊神かみむすびのかみ天照大御神あまてらすおおみかみのことです」

「天照なら聞いたことあるけど他は知らないな……」

「今はそれで十分ですよ、これから覚えていけばいいのですから」

 眉を寄せる少年の頭を撫でる。
 感情を表に出さない子だと思っていたが、こうしてよくよく見てみると存外わかりやすい部分もある。……名前が知ろうとしていなかっただけで。幾ら大人びて見えようと、彼はまだ子どもなのだ。それを痛感した。

「『四柱神を鎮護し、五神開衢、悪気を逐い、奇動霊光四隅に衝徹し、元柱固真、安鎮を得んことを、謹みて五陽霊神に願い奉る』──要するに、『身心共に神に捧げますのでお守りください』という言葉です」

「そのわりに長くて仰々しい」

「ふふっ、そうですね……でも呪言とは基本的にそういうものですから。これを毎朝朝日に向かって唱えると守護が受けられるんですよ」

「……津美紀も?津美紀のことも守られる?」

「……ええ、キミが願いさえすれば」

 是と微笑むと、少年は書き起こしたばかりのノートに向き直った。
 訥々と、呟かれるのは習いたての秘咒。彼は姉を守るために呪術を学ぼうとしている。──その純粋さが、名前の胸を熱くさせた。

「あれ?ちょっと目を離した隙に随分仲良くなってんじゃん」

 「意外」と言いながら、五条が客間に戻ってくる。そう言うということは、この男、名前が伏黒少年との間に沈黙が生まれるのだとわかっていたのだろう。にも関わらず、二人を客間に放置した。
 ……なんて人だろう。名前は五条を睨めつける。だがそんなもの彼にとってはそよ風に過ぎない。あっさりと無視し、彼は名前の向かいに座った。

「さてさて、どうやって恵をたぶらかしたんだか」

 その口許に浮かぶのは悪どい笑み。揶揄ってやろうという顔だ。
 「たぶらかすなんて……」酷い言いぐさだ。抗議しようとした名前の言葉を遮って、伏黒少年は顔を上げる。

「呪術師なんて胡散臭いやつらばかりかと思ったけど、この人は真面目だ、アンタと違って。……だから教わるならこの人がいい」

「へえぇ〜〜?」

 五条の頬がぴくりと引き攣る。「僕のどこが胡散臭いって?」どうしてやろうか、と手をわきわきさせる男から守ろうと、名前は少年を抱き締めた。

「恵くんは私が育てます。五条先輩は大人しく身を引いてください」

「はぁあ?僕が先に見つけたんだから養育権は僕にあるでしょ」

「それは暴論です。ここは恵くんの意思を尊重しましょう」

「恵だって僕がいいって言うよ。絶対、将来的に。なんてったって僕は最強だからね」

「ではそれまでは私が預かるということで……」

 名前と五条の言い争いは津美紀の「ご飯できましたよ〜」というのんびりした声がかかるまで続いた。
 議論についてはその晩、『それなら二人で面倒見ればいいじゃん』という結論に至った。どの道、父親の席も母親の席も空いている。ならば一人が二人に増えたところで問題はなかろうというのが五条の主張だった。
 名前としてもやはり最強の術師の指導は恵にとっても大きな意味を持つと思ってはいたから、彼の提案に頷いた。──尤も彼と夫婦役など、喩え話にしても荷が重すぎるが、仕方ない。子どもの健全な成育のため、名前は受け入れることにした。