グロリアT


 高専の敷地内に入り、己に張り巡らしていた《反射》の術式を解く。学生時代は手に余る代物だったそれも、今では自由にコントロールが効くようになっていた。昔のようにハイタッチしたからといって相手を吹き飛ばすこともない。
 しかしそれを生家の者たちには知らせていなかった。その方が動きやすかろうという五条悟の案だ。お陰で舞い込んでくる縁談も術式を理由に断ることができている。相手を害しかねない術式の持ち主など、呪術師を産む《はら》としても不適格。そう言って騙すことに罪悪感を覚えていたのも昔の話である。今は自分が子を産むより、目をかけている子どもたちの成長の方が名前にとっては大事なことだった。

「あっ!名前さんだ!」

 そのうちのひとり、釘崎野薔薇が偶然にも通りがかる。同級生の伏黒恵も一緒だ。ジャージ姿ということは交流会に備えた特訓中だったのだろう。二人して両手にペットボトルを携えている。

「お疲れさまです。どうですか、2年生との特訓は?」

「も〜めちゃめちゃしんどいですよ!マジあのパンダなにっ!?って感じで」

「確かにパンダくんは近接戦闘に特化してますからね。でもそれに着いていけている野薔薇さんは十分すごいですよ」

「名前さん〜〜っ!」

 疲れた、としなだれかかる野薔薇が可愛らしくて、名前はその頭を撫でた。こうして素肌で触れ合える今が嬉しい。
 そんなことを思いながら笑みかけると、野薔薇は感極まった声を上げて、名前に抱き着いた。

 ……少し、大袈裟すぎやしないか。別に大したことは言っていないのに。

 でもこのくらいの年頃なら普通なのかもしれない、と名前は思い直す。それに野薔薇の郷里は随分と距離がある。家族と離れて暮らす少女なのだ、そう考えれば甘えた仕草にも納得がいく。
 愛おしさが溢れ、名前もまた彼女を抱き返した。彼女とは高専に入る前からの関係な上、家族との折り合いが悪いという共通点もあるため、どうしても彼女の望みは叶えてあげたいという気になってしまう。
 だから「次の休みには絶対、ぜーったい私とショッピングに行きましょうね!」と誘われては頷くより他になかった。

「おい釘崎、早く戻るぞ。先輩たちが待ってる」

 二人の世界を引き裂いたのは、伏黒の呆れ混じりの声だった。向けられるのは冷めた眼差し。それは出会った頃から変わらない。子どもの時から伏黒恵という少年は完成されていた。
 「ごめんなさい。引き留めてしまいましたね」……そう謝る名前の隣で、野薔薇は「何よ、伏黒」と眦をつり上げる。

「……はっは〜ん、さてはアンタ、羨ましいんでしょ」

「はぁ?」

「やーね、思春期男子はこれだから」

 やれやれ、と大人ぶって肩を竦めてみせる。そんな野薔薇の中では伏黒が『羨ましがっている』ことはとうに決定事項となっていた。いくら「おい勝手に決めつけるな納得するな」と抗議を受けようと揺るがない。どころか、ますます確信を強め、彼女はにやにやと笑う。
 伏黒は深い深い溜め息をついた。義姉が相手の時もそうだったが、彼は女性に逆らえない星の元に生まれたのかもしれない。……かわいそうに。

「……大丈夫ですよ、恵くん」

 名前は少年の肩に手をやる。「わかっていますから、大丈夫です」そう言うと、わかりやすくホッとしてみせる彼。
 だから少し寂しいだなんて言ってはいけない。それは望むべくもないことだ。昔みたいに抱き締めたいなどと──名前は彼の本当の家族ではないのだから。

「そういえば伏黒と名前さんっていつからの知り合い?名前で呼んでるんだし結構長いってことでしょ?」

 2年生の待つというグラウンドに向かいながら、野薔薇がふと問いを投げ掛ける。
 ちなみに名前が高専に来たのは後輩たちにお土産を届けるという目的があったためで、実のところもう用件は済んでしまっていた。が、『せっかくだし』と野薔薇に手を引かれて、今に至る。可愛い後輩にそう言われて断れるはずもない。

「そうですね。ええっと、あれは恵くんが小学生の時でしたから……」

「10年近く前からだな」

「えっ、そんな昔から!?」

 伏黒の答えは野薔薇を驚かせた。名前自身、『そんなになるのか』と何だか感慨深い気持ちになる。
 あの小さな子どもがずいぶん立派になって──そんなことを思う名前は、実年齢より些か年寄りじみている。気分は近所に住むおばさんだ。せめて親戚のお姉さんくらいの認識であってほしい、とは思っているが。

「ってことは〜、伏黒の恥ずかしい過去も知ってるってこと?」

「おい待てやめろバカ」

「あぁん?バカとは何よ、伏黒ムッツリ恵くんが偉そうな口叩くんじゃないわよ」

「あの、二人とも落ち着いて……」

「「だってこいつが……っ!」」

 きれいにハモる声。互いを差す人差し指。場を収めようとしていたはずなのに、名前はついうっかり『微笑ましいなぁ』としみじみ思ってしまう。喧嘩するほど仲が良いとはこのことだ。
 自分の学生時代を思い返し、胸中に込み上げるのは懐かしさ。悲しいことも逃げ出したくなることもあった。けれどあの3年間は間違いなく、鮮やかに青い春だった。

「残念ですが恥ずかしい過去なんてありませんよ。昔から恵くんは優秀で、私に教えられることなどすぐに覚えてしまいましたから」

 実際その通りだった。呪術師に生まれた子どもが物心つく前から習っていたようなことなど、伏黒はほんの一年足らずで吸収してしまった。それは禪院の血のなせる業か、或いは──答えなどわかるはずもないが、名前は彼が努力家であることを知っていた。
 天賦の才と、飽くなき向上心。それは五条悟との数少ない共通点でもあった。
 伏黒を褒めそやす名前に、しかし野薔薇は「ふぅん……」と不満足げ。その様子を一瞥し、伏黒は僅かに眉を寄せた。

「なんだその『つまらない』って顔は」

「べつに?ただほんっと面白みのない男ね、って思っただけ」

「お前を楽しませる必要は俺にはないからな」

「でも名前さんを『母さん』って呼び間違えたことは絶対あるでしょ。ねぇ、名前さん?」

「あぁ、それは──」

「名前、言わなくていいからな」

 返事は、伏黒の声によって制される。強く、言い含める声。その硬質さに、名前は慌てて口を塞ぐ。
 ──だが、すべてはあとの祭り。
 二人の反応を見、野薔薇はにんまりと口角を上げる。彼女にはすべてお見通しだった。

「お母さん、って呼んであげたら?名前さんも喜ぶでしょ、ね?」

「そう、ですね……ええ、まぁ……」

「……言わないからな。俺は、絶対」

 引き結んだ唇は固く、語気も強い。けれどその頬には仄かな赤みが差していた。それは隠しきれない羞恥と温かな思い出の色だった。
 結局野薔薇には笑われ、後日話を聞いた五条には揶揄われ──散々な思いをした伏黒に文句を言われることになるのだが、それすらも名前を喜ばせる結果となった。
 何せ10年の付き合いだ。彼が本当に怒っているわけではないことなど名前には察しがついていたから──可愛らしい反応を示す少年に、笑み溢さずにはいられなかった。