グロリアU


 車に乗り込みながら、伏黒恵は「どうしてアンタと」と呟いた。その顔はいつもの仏頂面。でもいつもより憂鬱そうだ、と助手席の名前は鏡越しに思う。

「私と一緒では不満ですか?」

 これにはさしもの名前も傷ついた。ガンッ、と後頭部を殴りつけられた気分。それは五条悟に古武術を習っていた時に感じた痛みに近い。……つまるところ、名前は相当な衝撃を受けていた。
 よほど頼りないと思われているのか、それとも?嫌われるようなことはしていないはず、とここ最近の記憶を浚う。だが心当たりなどあろうはずもない。あったとしたらその時点で対処している。
 ショックを受ける名前の隣。エンジンをかけながら、補助監督の新田明は「反抗期っスか?」と笑った。

「遅れてくるやつは結構キツいって聞いたことあるっス」

「そうなの!?」

「……ちがう」

 慌てて振り返ると、「んなワケないだろ」と溜め息をつかれる。……なんだ、違ったのか。それはそれでホッとしたような、少し残念なような。
 「ならどうして?」恐る恐る訊ねると、わかりやすく目を逸らされる。

「……別に、アンタひとりでも十分だろ。この程度の任務なら」

「そうでしょうか?予め割り振られる等級など当てにならないこともままありますし」

「だとしても。……いや、だとしたら尚更、俺がいたって意味がない。俺がいない方が名前は自由に動ける」

 平然と言い放つ伏黒が、名前には信じられない。
 彼は間違いなく一級術師に──もしくはそれ以上に──なれる器だ。今はまだ未完成とはいえ、それはそう遠くない未来の話だと思っていたから、なおのこと。卑屈になってるわけでもなく、ごく当たり前といった顔で言う彼に驚かされた。

「……買ってくれるのは嬉しいですが、キミはキミでもう少し自分の力を信じてあげてもいいと私は思いますよ」

「…………」

 返事はない。
 でもまったくの無視というのでもなく、微かに身動いだことから話を聞いてくれているのはわかった。ただ、言葉にしないだけ。返す言葉に躊躇ってしまっているだけだと察しがついたから、名前は微笑んだ。大人びていると思っていた彼の、少年らしい一面が素直に嬉しかった。

「あー、わかったっス。あれっスね、母親が授業参観に来た時のあの微妙な気まずさ、わかるっスよ」

 そんなほのぼのとした空気を打ち破ったのは、新田の揶揄いを帯びた声だった。彼女は「確かに居心地悪いっスよね」とひとり頷く。
 ──その横で。

「……そうなの!?」

「ちがっ……!てか何でそんな嬉しそうなんだ!?」

「そりゃあだって、嬉しいから……」

 むしろその問いこそが愚問である。
 つい最近も虎杖を養子にと考えたところだが、そもそもそういった考えに至るようになったきっかけが伏黒姉弟なのだ。彼らとの関わりの中で家族というものの温かさを学び、焦がれるようになった。だからそんな彼に『母親のよう』に思われているなら、名前としては大歓迎。喜んで当然だろう、と名前は緩む頬を押さえた。
 しかしそんな名前とは対照的に、伏黒は渋面を作る。

「俺は……」

「はい?」

「……いや。ただ父親が五条先生ってのだけは御免だからな」

「それは……そうでしょうね」

 どうやら彼も幼少期に行われていたままごと遊びを覚えているらしい。ひいては、彼の勝手気ままな所業も。日頃の行いを思い出して、名前は曖昧に笑った。
 五条悟が父親を自称し、名前が母親の役を任ぜられたその遊び。それ自体はいつもの冗談の延長であったけれど、実際五条は事あるごとに伏黒を構いたがったし、名前も保護者が必要とされる場面ではその役割を担った。
 だから新田の言葉は的外れでもないのだ。授業参観にも行ったし、三者面談にも参加した。自分が子どもの立場であった時には何の感慨もなかったものだが、不思議とその《ごっこ遊び》は楽しかった。
 ──たぶん、救われていたのだと思う。名前は、──或いは五条も、また。

「でも可哀想なのでせめて親戚のおじさんくらいの役は任せてあげましょう。ね?」

「……まぁ、そのくらいなら」

 不承不承の体で頷いた伏黒は、窓の向こうを眺めながら呟く。

「でも絶対、あの人は納得しないだろうけどな」

 そう言った彼がどんな表情をしていたのか。助手席に座る名前には確かめることができなかった。




 とある地方都市の病院で、亡くなったはずの人間が息を吹き返すという《奇跡》が起こった。
 それは単なる噂話の域を出なかったが、《窓》によると残穢が確認できたという。《奇跡》が実際に起きたかは別として、その病院で呪術が用いられたのは間違いない。

「……医者の中に術師が?」

「いえ、それなら亡くなる前に治癒を行ったでしょう。よみがえったという人は、入院していた患者のようですから。その方が不審がられることもなかったでしょう」

「俺たちみたいなのに、か」

 件の病院、その廊下を歩きながら、名前は「相手は私たちだけじゃないでしょうけど」と先刻漏れ聞いた話を振り返る。
 医者と呼ばれる人々はその多くが誇りを持って仕事をしている。積み重ねた学び、経験、それらによって今回の医師も死亡診断を下したはずだ。
 なのに患者は息を吹き返した。奇跡だと周りの者は喜んだが、医者や看護師などは素直に受け止められただろうか?……そうではないことは、ナースステーションから聞こえてきた話から察せられた。担当した医師は自信をなくし、近頃は人が変わったように卑屈になってしまったらしい。
 《奇跡》の裏でだって、誰かが不幸になっている。もしもそれが呪詛師の仕業であるなら──許されるものではない、と名前は思う。

「死ぬはずだった人間が生き返る……、それなりの力を持った術師が関わっていると見て間違いありません。ただやり方が稚拙なのが気になります。自分の存在を隠したいのか、それともその能力をひけらかしたいのか、どっちつかずですし」

「まだ自分の術式もよくわかっていないのかもな。一般家庭に生まれたやつなら不思議じゃない。呪術師の家系以外からも強いやつが生まれるのはあり得ない話じゃないだろ?」

「そうですね。東堂くんなどはその最たる例です」

「……アイツか」

 名前が年下の友人の名前を出すと、伏黒はあからさまに嫌そうな顔をした。先月起こった京都校とのいさかいがよほど印象深いのだろう。
 まぁそれも致し方ないことだ、と残念に思いながらも同時に名前は納得する。初対面でいきなり襲いかかられた挙げ句、実力差を見せつけられた。苦手意識を持つなという方が酷である。
 ……名前としては、友人であり一級術師である彼と仲良くなってくれたら嬉しかったのだけれど。

「けどこの様子なら俺の予想通り大した手間にはならなそうだな。術師のせいだとしても害はなさそうだし」

「……そうですね」

 自動ドアを抜け、青空の中足を踏み出す。しかし名前の顔は晴れない。
 嫌な予感がした。具体的な理由は明らかではなかったが、その感覚は恐らく経験によるものだった。未成熟な術師を探し出す、ただそれだけでは終わらないだろうと直感が言っていた。
 名前は隣を歩く少年を見た。彼の成長に繋がればと思い、任務に同行させたが、果たしてそれは正しいことだろうか?後味の悪い結末にならなければよいのだが、と憂う名前は杞憂であることを願わずにはいられなかった。