201X.12


 草木も眠る丑三つ時というと世間一般では不吉なイメージで捉えられているが、実際のところ護符を書くのに最適な時間でもある。閨事を避け、心身を清め、吉日のこの時間に書くと、効果的な護符を作れるのだ。
 そんなわけでこの晩も名前は広げた和紙の前に座していた。瞑目し、神からの《合図》が与えられるのを静かに待っていた。室内には白檀の香りと静謐なる気配が満ちていた。
 その時はもう間もなく──稲妻の如き輝きが天から降りてくる。慣れ親しんだその感覚に身を任せようとした瞬間、予期していなかった物音が響き、名前は思わず目を開けてしまった。
 音の発生源は窓ガラスらしい。ガンガンと揺れるそれは怪しいことこの上ない。特に女性という立場であれば110番を思い浮かべる場面であろう。鳥だとかそういうものの類いではない、物音。明らかに人為的な──というか、人が拳で窓ガラスを叩いている音に違いなかった。
 しかし名前が怯えることはなかった。霊符を書くのよりもずっと慣れた顔で溜め息をつき、中和室を出た。そしてバルコニーに続く窓に手をかける。……後で文句を言われるのはごめんだ。

「──おそい」

 なのに結局この始末。バルコニーとはいえ不法侵入者であることに変わりはないのに、五条悟はまったく悪びれない。どころか、名前の頬を挨拶がわりにつねってくる。冷えた指先に、名前の肩は揺れた。
 ……自業自得だろう。そう思っているのもまた事実。なのに赤くなった鼻先だとか雪のように白い肌だとか、そういうものに名前は罪悪感を覚えてしまう。

「すみません……、こんな夜更けに来客があるとは思わず」

「いやそこは察しろよ、この五条悟さまが直々に来てやってんだぞ」

「ありがとうございます……?」

 鼻を鳴らしてふんぞり返っているが、名前に彼と約束した覚えはない。ついでに言えば、バルコニーからの訪問を許した覚えも。なのに彼は高専から名前の住むマンションまでのルートに勝手に道を作ってしまった。
 当時『これでいつでも会えるね♡』と彼が言うのを、名前は『また何か冗談を言っているな』と聞き流したものだが、今ではもう冗談でもなんでもなくなってしまった。五条悟はこの部屋を別荘か何かだと思っているのではなかろうか。そう名前が真剣に考えるほど、用もないのに彼はやって来る。

 ──たぶん、今夜も同じだろう。

 ずかずかとリビングに上がり込む男の背中を、名前は諦めのこもった目で眺めた。……靴を脱いでくれただけ良しとしよう。彼には多くを望まない方が身のためだ。
 「さむいさむい」と身を縮める真似をする彼に熱いお茶を出し、名前もまたソファに座った。

「こんな時間に珍しいですね」

「あー……、実家に呼ばれてたからね」

 湯気の向こうで、彼の眉間に皺が寄せられる。彼にしては珍しい表情だ。嫌悪のようで、限界までは振りきれない、それ。
 名前は『自分も同じような顔をしているのだろうか』とぼんやりと思った。自分が家族のことを語る時も、きっと。生涯、嫌いになりきることはできないのだろう。
 名前は「お疲れさまです」と慰めに声をかけた。そうすると彼は物言いたげな目で少し屈んでみせる。……撫でろ、と言いたいらしい。
 子供じみた、いっそ小動物にでもなったみたいだ。いつもこうだったらいいのに、と思いながら、名前は命じられるがままに手を伸ばした。素直な彼は可愛らしい、と思う。

「嫌なことを言われたんですか?」

「んー……、まぁ、そんなとこ」

「悟さんが我慢するなんて偉いですね」

「でしょー……」

 肩口に顔を埋め、なおもすり寄る彼。……少し、首筋が擽ったい。でもそれを指摘することも、笑うことも名前はしなかった。雪原さながらの髪を梳り、静かに彼を抱き締めた。心なしか、見事なはずの白銀も少し煤けて見える。

 ──どうやら、今晩はいつもとは違うらしい。

 認識を改め、名前はそっと口を開く。

「愚痴くらいならいくらでも聞きますよ。それともあなたのご実家に悟さん直伝のマジビンタでもかましにいきましょうか?」

「……んなことしたら呪術界にいられなくなるよ」

 冗談めかして言うと、五条は顔を上げた。少し、口許が緩んでいる。……ようやくだ。ようやく、彼の笑顔を見ることができた。
 それこそが名前の望みだったから、「構いませんよ」と口角を上げてみせた。

「その時はあなたが守ってくださるのでしょう?何せ現代最強の呪術師なんですから」

 その時名前は幾通りかの想像をしていた。この読めない男、五条悟がどのような反応を返すかについて。『自分で何とかしろよ』と笑われるだろうか。それとも、『自信過剰』だと言われるだろうか。『バカじゃないの』と返されるかもしれない。そんな想像をしていた。
 しかし実際のところはまったく違っていた。名前の発想など貧相なもので、そのどれもが外れだった。五条悟は想像の上をいく男だということを忘れていた。
 それを、今さらになって思い出した。

「──当然でしょ」

 そう言って微笑んだ彼が、泣きそうに見えた時に。彼の手が名前の背を強く抱き締めた時に。その時になって、本当のところは彼のことを全然知らないのだということを痛感した。

「えっ、と……」

 考えが、まとまらない。これは衝撃のせいだ。だってそんな、まさか彼が。あの五条悟が、《そんな顔》をするなんて。
 名前は口ごもり、彼の肩越しに視線をさ迷わせた。こんな時、壁紙を貼っていなかったのを後悔する。どこもかしこも真っ白なせいで、目の置き場がない。どうせなら派手な柄物にでもしておけばよかった。
 そんなどうでもいいことを意識の片隅で考えていると、「名前はさ、」と彼が呟くのがいやに明瞭に響いた。

「名前はまだ、断れてる?結婚とか、子どもとか、そういうの」

「え、ええ……。以前悟さんが提案してくれた通り、昔も今も私は《使えない胎》だと思われているはずですよ」

 それは思いもがけない問いだった。まったく予期していない、話題。けれど悩むまでもない質問であったから、名前はホッとした。先程味わった未知の感覚よりはずっといい。知らないものは、こわいから。

「時折思い出したように話を振られることはありますが、……ふふっ、さすがに閨事の間に食い殺しかねない女なんて、向こうから願い下げでしょう」

 名前は《反射》の術式を持って生まれた。呪詛返しを生業としてきた家だからこその術式だろう。しかし問題となったのは、名前がそれを使いこなせていなかったことだ。高専で五条を師と仰ぐまで、ほぼオートで発動していたそれは、名前の意図しない時にも攻撃となって表れた。
 今はコントロールできるようになったが、それを知った親族が手のひらを返すのは必至。だから、と彼に勧められるがまま、名前は今でも《不出来な娘》だと親族に対して偽っている。呪術師の家系に生まれた女として必然的にやってくる縁談を面倒に思うより早く、彼が先手を打ってくれたのだ。お陰でこうして笑い話にできる。

「──でも、そろそろ怪しまれてもおかしくない」

 なのに彼は笑わない。下世話な冗談にさえ反応を示さず、名前を見つめる。あまりに彼らしくない──静かすぎる目で。透き通る水晶の瞳が、いっそ怖いくらいだった。
 「だとしても、」名前は無意識のうちに唾を飲み込んだ。「だとしても誰にも真実はわからないままです」
 私は、何を言っているのだろう?名前には唇を動かす今の自分がどこか遠く感じられた。ひとりでに言葉を紡ぐ、そんな感覚さえあった。

「わからなければ、嘘は真実のまま。それに私も自信があるわけではありませんから。お相手の方を《害あるもの》と認識しない保証はないですし」

「……相手が、俺でも?」

「悟さん、は……」

 掠れた彼の声につられ、唐突に渇きを覚えた。喉の奥がひりついて、うまく声が出せなかった。

 ……いや、違う。

 ひりついてるのは頭の方だ。切羽詰まったような目に射竦められた名前の脳は、熱せられたみたいに目眩を起こしていた。焦げて、焦げついて、機能が麻痺してる。脳は危険信号を発している。異常事態だと叫んでいる。
 なのに、体は動かない。ままならない。彼に求められるがまま、返事を紡ぐためだけに唇が動かされる。

「どう、でしょう……?私ではあなたに敵うイメージが、どうしても……」

「……それならさ、試してみない?」

「試す……?」

「そう。俺が名前にとって《害あるもの》か。名前が本当に術式を制御できているのか。……試してみようよ」

 それは提案ではなかった。彼の中では決定事項だった。身勝手な、あまりにも身勝手すぎる──いつもの彼らしい台詞だった。
 けれどそれ以外のあらゆるものがいつもとは異なっていた。囁きは頼りなく震え、眼差しは名前の答えを恐れるように揺れていた。
 名前は己の肩にかかる彼の手に触れた。お茶ではひとときの慰めにしかならなかったらしい。指先には冷たさが戻っていた。そしてそれを名前は悲しいことだと思った。叶うなら、自身の熱を分け与えてやりたいとも。

「……本当に、あなたに痛みが返ってくるかもしれませんよ」

「へーきへーき。だって俺、最強だもん」

 笑った顔が、どこかぎこちなく映る。指先の強ばりも未だ解けていない。初めて触れた唇も、冷たさの方が印象に残った。
 でも名前は頬を緩めた。

「そうですね、……そうでした」

 護符を作るのはもう完全に失敗だ。視界の隅で天之御中主神あめのみなかぬしのかみの像が責めるように見つめてきたから、名前は目を閉じた。
 彼の息遣いを感じながら、『そういえばもうすぐ彼の誕生日だったな』と思った。
 目が覚めたら一番に訊ねよう。今ほしいものはなんですか、と。どんな我が儘を言われるだろうか。それすらも楽しみで、名前は自分から彼に口づけた。彼が望むすべてのことを叶えてやりたい気分だった。

「……なに笑ってんの」

「いえ、……あなたなら安心だな、と思って」

 声につられて目を開けると、虚をつかれた表情の彼がいるものだから、名前は一層相好を崩す。
 今は、彼のすべてがいとおしく感じられた。