存在のない子供たち


 名前が高専に着いた時、空には綺麗な弧を描く三日月がかかっていた。雲は疎らで、つまるところ至極平凡な夜だった。
 名前は静寂に包まれた校内を歩いた。殆どの照明は切られていたが、医務室の周りだけは煌々とした光が照っていた。それは不吉に瞬いて、名前には自分の心臓の音がとても近くで聞くことができた。それはとても厭な感覚だった。
 医務室の前には一人分の人影が佇んでいた。それは窓の向こうに目をやって、何事か思案に耽っているようだった。
 明滅する光と影の中に浮かぶ、硬質な横顔。名前は一瞬躊躇った後、小さく名前を呼んだ。──おかえりなさい、七海くん。

「あぁ、」

 呼びかけに、彼はゆっくりと振り返る。「おつかれさまです」そう答える声は相変わらず淡々としたものであったけれど、微笑は力ないものだった。

「虎杖くんは、」

「治療中です。……先ほど意識を取り戻しました」

「そう、……よかった」

 よかった、──本当に。安堵の息が宙に溶ける。
 けれど張りつめた空気は変わらない。名前は七海の隣に立った。並んで、すぐ側に広がる闇夜へと目を馳せた。
 名前が感じたのはどこか物悲しい風の音だった。それは啜り泣く梢の声だった。陽気なばかりの春は終わりを告げようとしていた。

 ──七海くんはこんな夜に何を思うのだろう。

 彼は静かに口を開く。

「呪霊を取り逃がしました」

 それはひどく事務的な物言いだった。報告であり、連絡であり、それ以外の価値を持たぬものだった。
 名前は「知ってるよ」と答えた。「伊地知くんに聞いたから」他になんと言えばよかったのだろう。視線は交わらない。目の前には深い深い夜の闇が横たわっている。そして視界の隅ではだらりと下ろされた彼の手が、

「……よかった、七海くんが無事で」

 名前はそっと囁いて、その手に触れた。握ることはしない。握り返されることもない。ただその存在を確かめたかった。だからそれで十分だった。
 彼は微かに息を揺らした。仰ぎ見ると、乱れた前髪の下で眉が下がっているのがわかった。

「……虎杖くんに守られてしまいました。子どもの、彼に」

 それは苦悩の色だった。彼はどこまでも大人で、過ぎるほど真面目だった。……そんな彼のことを、名前は誇りに思う。

「虎杖くんは、強いよ」

「そのようですね。彼はもう立派な呪術師です」

「……七海くんも、」

 名前は少し迷った末に、指先だけ握った。柔く絡め、言葉と同じだけの力を籠めた。

「虎杖くんを守ってくれた。呪霊を追うよりも、虎杖くんの治療を選んでくれた。だから、ありがとう」

 見つめると、乾いた瞳が見開かれる。
 明滅する光と影。その中で、彼の顔が歪む。

「……それがよかったのかはわかりませんが」

「うん、……でも、私はそれでよかったと思うよ。七海くんが虎杖くんの安全を優先してくれて。七海くんがそういう人で、よかったと思う」

 ありがとう、ともう一度繰り返して、名前は彼の背を抱いた。
 撫でると肩の強ばりがほどけていくのがわかった。彼は何事か言おうとして、しかしそれは吐息となって名前の耳を擽った。
 二人を取り巻くのは沈黙。七海がどんな表情をしているのか名前にはわからない。けれど知りたいとは思わなかった。必要なのは温もりであり、その他のものは既に名前の手の中にあった。





 『虎杖くんを出迎えてあげてください』と七海に促され、名前は地下へと戻った。じきに虎杖もこの部屋へ帰ってくる。食事の準備は必要だ。──例え、初めて人を殺した日であっても。

「おかえりなさい、虎杖くん」

 木戸の軋む音に振り返る。静かな夜だった。だから「ただいま」と応じる少年の声に一瞬の躊躇いがあったことにも気づいてしまった。

「おっ、今夜はもやし鍋か」

「はい、今日は少し冷えましたからね。もうじき出来ますよ」

「じゃあ俺、ご飯よそうね」

 彼は変わらない。いつもと同じ、気持ちのいい笑顔で応えてくれる。そんな少年の横顔を名前は複雑な気持ちで盗み見る。
 どうしてこんなことになってしまったのだろう。名前は思う。彼は普通の高校生だった。──灰原くんとは違う。呪術なんてものとは縁のない世界で生きていた。──私たちとは、違う。
 なのに結局、私たちは同じところに立っている。それが一番悲しいことだった。

「名前さんも伏黒と任務に出てたんだよね?どうだった?伏黒は元気そう?」

「ええ、とても。仏頂面は相変わらずですけど」

「まぁでも、ニコニコしてる伏黒なんて想像できないよなぁ」

「それもそうですね。昔から恵くんは恵くんでした」

「うわー、スッゲー想像できる!」

 彼は饒舌だった。元より口数の多い方ではあったけれど、今夜は特にその傾向が強かった。
 しかし彼が自分の任務について触れることはなかった。どんな任務をして、どんな呪いと出会って、──どうやって祓ったのか。始まりから終わりに至るまで、口に出すことをしなかった。
 それは名前も同じだった。おおよそのことは伊地知から聞いている。だからどうすべきか決めかねていた。あえて訊ねるべきか、……それとも。触れないでいてやることも優しさのひとつだと今の名前は知っている。
 間に鍋を挟んで、二人は多くの言葉を交わした。共通する知人のこと、かつての思い出話、或いは映画や音楽、芸能人のこと。話題はいくらでもあった。
 テレビはつけなかった。地下には風の音さえ届かない。多くの事柄が認識の外側にあった。そしてそこには自分たちとはまったく縁遠い多くの人々が存在していた。
 彼らもまた同じような会話をしているのだろう。名前は頭の片隅で想像した。共通する知人のこと、かつての思い出話、或いは映画や音楽、芸能人のこと。そういったものの話をしながら夕食を囲んでいるのだろう。
 私たちはその真似事をしているに過ぎないのだ、と名前は内心で自嘲した。そういう普通の人であってほしかった。せめて、目の前の少年だけは。

「はー、ごちそうさま」

「お粗末様でした。虎杖くんはお風呂に入ってきてください。疲れたでしょう?」

「や、大丈夫。片付け手伝うよ」

「そんな、気を遣わずに」

 立ち上がると僅かに見上げる格好になる。少年の、まだ幼さの残る顔立ち。頬に残る傷跡が痛々しい。掠めた指先の冷たさが、胸に凍みた。

「……虎杖くん、」

 抱き締めると、彼の驚きが伝わってくる。身動ぎ、しかし彼はすぐに「どうしたの?」と気遣わしげな声を降らす。
 どうしたの、名前さん。──こんな時でも彼は他人を一番に気にかけるのだ。それが少しだけ、憎らしい。

「……私はキミが生きていてくれてよかったと思います。キミや七海くんが、私にとって大切な人が無事で……、七海くんを守ってくれたキミに、感謝しています」

「……うん、」

 彼は「ありがとう」と囁いて、名前の背中を撫でた。まるで子どもを宥めるみたいに。子どもでいられなかった少年はひどく大人びた声で「でもそれだけじゃ嫌なんだ」と続ける。

「俺は呪術師で、そうであることを自分の意思で決めた。だから誰にも負けられないし、負けたくないって思う。……だから大丈夫だよ」

「……虎杖くんは強いですね」

「まだまだだよ、俺なんて」

「いいえ、……キミは、強い」

 噛み締め、名前は手を離した。
 『ありがとう』と虎杖は言ってくれたけれど、本当のところ救われていたのは名前の方だった。彼の強さに、言葉に、どうしようもなく救われてしまった。

 ──そんな彼のために自分ができることはなんだろう?

 答えはまだ見つかりそうになかった。