灰原七海とゲーセンに行くU


 だいたいのことにおいてそうだが、『プリクラを撮ろう』と言い出したのも灰原だった。
 聞いた瞬間に七海は顔を顰めたし、名前なんて実物を見るのも初めてらしかった。やたらと種類があるわりにはその違いなどさっぱりわからない、と小首を傾げてプリクラ機を眺めている。
 しかし灰原に誘われては断れないのだ。名前も、七海も。……彼の笑顔には殊更弱かった。

「ほら、名前はもっとこっちに寄って!七海!逃げちゃダメだよ!!」

 小さな箱の中、機械の音声に従ってポーズを変えさせられる。それは忙しないほどの速さで、息つく暇もない。こんなものを世間一般の学生は楽しんでいるのか。
 機械は様々な指示を与えてくるが、『どれも似たような顔になっているに違いない』と七海は内心思う。喜怒哀楽を表立って表現するのは得意じゃない。
 それはたぶん名前も同じで、表情こそ見えないが、動きのぎこちなさからわかった。普段通りなのは3人のうち、灰原ひとりだけだ。

「次はふたりでだって!ほらっ、名前も七海ももっとくっついて!」

 なのにその灰原が抜けてしまう。機械の指示にそこまで真面目に応じずともいいだろうに。
 そう言いたかったのに、言えなかった。灰原によって縮められた距離。様々な理由から躊躇っていたものが、無に帰す。体の左側だけに全神経が集中しているような錯覚すら覚える。名前と触れ合っている部分だけが、あつい。

『今日一番嬉しかったことを思い浮かべてね!』

 機械が喋る。甲高い声で、バカみたいに呑気に。こっちの気持ちなどお構いなしだ。
 嬉しかったこと、そんなの思い出せない。思い出す余裕すらないのに、勝手なことを。いっそ苛立ちすら込み上げるけれど、相手は機械。無情にもカウントダウンが始まる。

『さん、にぃ、いち、』

 その時、名前が僅かに身動いだ。この瞬間も彼女の手に抱えられていたぬいぐるみ。それを強く抱き締めたのだ、と七海は視界の端で理解する。
 理解した、そう思った時、シャッターは切られた。

「七海は顔が固いなぁ〜!全部仏頂面だよ、ほら!」

 予想通り、プリントアウトされた写真の中の中身はどれもこれも同じ表情を浮かべていた。プリクラというか、これでは証明写真だ。灰原によって追加された落書きが逆に浮いてしまっている。
 それがツボに入ったらしく、先ほどから灰原はずっと笑っている。七海はもう諦めの境地だ。彼が写真の中の七海に動物の耳を生やしたり髭を書き加えたりなどしても、もう抵抗しなかった。
 撮影で生気を吸い取られたのだろう。どっと疲れが出て、備えつけの椅子に座ったまま、二人を眺めた。灰原を、名前を。楽しそうな少年と、控えめに笑み交わす少女を、遠いところから眺めた。
 さっきは吐息すら感じられるほどの距離だったのに、今は触れることすら叶わない。でもこのくらいの距離感がちょうどいいのだ、とも七海は思う。遠くから幸せそうな彼女を見つめる。それが、今の自分には相応しい距離だ。

「七海も一緒に見ようよ!」

「いえ、私は疲れたので休ませていただきます」

「あはは!その発言、おじさんくさいよ!」

 なのに灰原は容易に踏み越えてくる。放っておいてくれればいいものを、名前の手を引いて、七海の元にやって来る。

「ね、見てよ。名前も緊張してるせいか最初の方は笑顔が少ないんだけど……ほらこれ、七海とのやつはなかなかいい感じじゃない?」

「…………」

 灰原が指し示したのは七海と名前、二人だけが映った写真だった。
 ぬいぐるみを抱き抱えた彼女と、その右隣に立つ険しい顔の男。しかし名前の方はといえば、──とても自然な顔で微笑んでいた。

「これは指示がよかったから。今日一番に嬉しかったこと、そう言ってくれたから難しくなかったよ」

 名前が灰原に言う。柔らかな顔で、胸には相変わらずぬいぐるみを抱き締めて。普段はどこか冷たげにさえ見える彼女が、今は春の陽気に包まれている。その無邪気さは初咲きのバラに等しい。
 七海は灰原に押しつけられた写真を見下ろした。件の写真は小さく、指の腹で押し潰せてしまいそうなほどだ。儚い幻想、都合のいい解釈。名前の言葉と、ぬいぐるみを抱き締めたその動作から導き出してしまった勝手な妄想。

 ──自分にも彼女を幸せにできるんじゃないか、なんて。

「バカげてる……」

 人知れず呟いたけれど、写真を捨てることはどうしたってできなかった。





「あれ?ナナミンなんか落としたよ」

 高専、応接間。予定を確認すべく手帳を広げたところで、何かが床に落ちる。
 拾ったのは虎杖悠仁だった。彼はそれを七海に返そうとして──「えっ!これナナミン!?」思わず視界に入ってしまったらしい。驚愕の声を上げ、手の中の写真と実物の七海を見比べた。

「うっそ!わかっ!あっでも変わんね〜!雰囲気はそのまんまだ」

「なになに?面白そーなの持ってるじゃない」

 ……問題は、その場に五条悟がいたことだ。
 面倒なことになった。この後の展開を想像して、七海は溜め息をつく。どんな反応を示すにせよ、それが自分にとって不利益であろうことは容易に察しがついた。

「これ高専時代だよね?へー……、ナナミンもプリクラなんて撮るんだ。……あれ?これってもしかして名前さん?」

「そーだよ。今とほとんど変わんないでしょ。変わってるの、身長と髪型くらいじゃない?」

「確かに……」

 しかし五条は機嫌を損ねることも、七海を揶揄うこともしなかった。
 意外だ。そんな思いで見やると、「だって見たことあるもん」などと言って、口端を持ち上げる。どこか得意気な表情、笑い方。七海が自分から見せることなどないから、相手は名前で間違いない。
 その予想通り、五条は「名前も手帳に挟んでるよ。流行ってんの?」と言う。
 彼の言葉が指し示すのは現在進行形ということ。名前もまた、あの思い出を大事にしてくれているのだ。
 そう実感した七海の胸中には、温かなものが溢れていた。

「それにしてもいい表情してるね、特に名前さん!これなんかさ、すっごく自然体って感じで……」

「ああ、七海がぬいぐるみ取ってくれたんだってね。そーいや今でも飾ってるよ」

「え!ナナミンそんなカッコいいことしたの!?それは惚れるよ、男の俺でも『かっけー!』ってなるもん。名前さんも嬉しかったろうなぁ」

「……そんなカッコいいもん?」

「だってベタベタの定番じゃない?彼女の代わりにUFOキャッチャーやってあげるなんてさ」

「へー……そうなんだ……」

 好き勝手に会話を繰り広げていた五条が七海を見る。マスクをしているからその表情までは見えないが、笑っていないことだけは確かだった。
 ……彼女のこととなるといつもこうだ。やたらとマウントを取りたがるし、自分が一番であることを周囲にも認めさせようとしてくる。これで無自覚だというのだから、最悪だ。子どもみたいな大人に執着されるなんて、彼女も可哀想に。

「何か仰りたいことが?」

「べつにぃ?ただ七海も隅に置けないなぁって思っただけだけど?」

「……そうですか」

 虎杖から返却された写真を、再び手帳にしまう。
 今でも彼女の幸福を祈っている。でもかつて抱いた幻想はとうの昔に眠りについた。一度彼女と、呪術界と袂を分かつと決めた日に、この結末は確定してしまった。
 違う未来を選んでいたら、と思わないこともない。あの日抱いた幻想が現実になることだってあったろう。
 でも今の距離感だって決して悪いものではない、と七海は思う。──見守ることも、ひとつの愛だ。

「ご不満ならあなたもやって差し上げたらどうです?喜んでいただけますよ、間違いなく」

「はぁ〜!?不満なんかないですけど?んなことしなくたって名前を喜ばせられるし?僕ならなんでも余裕でできるしね?」

「はいはい、そうですか」

 七海は立ち上がり、部屋を出る。「逃げんな!」と五条は喚くが、図体がでかいだけの子どもに構っている暇はない。
 七海は無視して、廊下を歩く。前を進むことに後悔はなかった。