銃の悪魔編IFアキ√Z


最終回までのネタバレを含みます。





 身を切るような寒さだった。世界のあらゆるものが色褪せ、灰色がかっているように思えた。私が吸って、吐き出した白い息も、すぐに溶けて消えてしまった。

 ──もうすぐ、雪が降りそう。

 その予感はずっと私の中にあった。秋の終わり、この日本に帰ってきてから、ずっと。
 でも予感は予感でしかなく、今日もまた初雪は観測されていなかった。こんなにも寒くて、足許が覚束ないのに。なのに不安だけが募って、予感が確信に変わることはなかった。

「さみぃいい〜」

 隣に座ったデンジくんは掌を擦り合わす。朝靄の煙る中、勝手気ままに過ごす犬たちをベンチから眺めやる。
 かつてはマキマさんの所有物だった犬たち。彼らは自分たちの主がすげ変わったことに気づいているのだろうか?リードを握るのはデンジくんの役目だった。どちらにせよ犬たちは──そして私たちも──支配という鎖からは逃れられないのだ。
 「もうすっかり冬だねぇ」そう応じながら、私はデンジくんの乾いた瞳について考える。それは嵐の過ぎ去ったあとの街であり、夢を失った砂漠であり、語ることをやめた物語だった。
 そうしたものに、私は悲しみと痛みと、何より強い悔恨を覚える。──罪悪感は、いつだって私の隣人であった。

「ごめんね、デンジくん」

 息を吸って、吐く。白い靄が溶けて、消える。
 早朝の公園を支配するのは静寂だ。人影は殆どない。遠くにジョギングをする人、私たちと同じく飼い犬の散歩をする人が見えるくらい。そのいずれもが他人だった。大きな隔たりの向こう側にいる人たちだった。
 私はもう一度、「ごめんね」と囁いた。欲しかったのは赦しだろうか。それとも懺悔する機会だろうか。灰色の空は重く垂れ込め、世界を押し潰そうとしている。それは悪魔によるものか、……或いは、神の手によるものか。
 デンジくんは少し困った様子だった。「俺ぁ、別に……」口ごもり、視線をさ迷わす。

「別に、誰のことも恨んじゃいない。……名前さんのことも」

 ──マキマさんのことも。

 彼が口にしなかったその名前を心の中で呟いて、私は「……そう」と小さく顎を引いた。
 これは救いなのだろうか。──だとしたら、誰にとっての?少なくとも、私にとっては安堵を齎してくれるものだった。安堵と、それから限りのない罪悪感を。
 私は大きな罪を犯した。己の勝手な願いをアキくんに押しつけ、デンジくんに深い傷を与えた。デンジくんは自分が殺した銃の魔人をずっとアキくんじゃないかと思っていた。マキマさんがそう言ったから、疑いながらもそれを信じるしかなかった。
 デンジくんが傷ついたのも、パワーちゃんが己を犠牲にしたのも、ぜんぶぜんぶ、私の罪の証だ。
 けれどそんな私を、マキマさんを、デンジくんは赦すと言う。──そんなデンジくんのために、私にできることは何だろう?
 私は重く垂れ込める灰色の空を見上げた。風はない。ただ息苦しさだけがそこにある。これが罰なのだろうか、と私は思う。ゆっくりと命をすり減らすこの感覚は、罰と呼ぶに相応しい。
 私はきっと、永遠に、この罪悪感に苛まれ続けるのだろう。その予感だけは確信となって私の胸に横たわっていた。





 家に帰るとアキくんが出迎えてくれた。
 とはいってもかつてのマンションではない。あの頃と似ているようで、少しずつずれている生活。デンジくんは朝食にソーセージを焼き、アキくんはトーストを焼いた。やがて昼が来て、夜が来て、デンジくんはハンバーグを焼いた。アキくんと私はおでんにした。
 再会して以来、デンジくんは一度もアキくんの料理を食べていない。デンジくんは今日も真っ赤なジュースを飲み干す。私とアキくんはその様子を見守った。毎日、毎日。
 冷蔵庫には無数のタッパーが仕舞ってあった。食後、私は時々その中のひとつに話しかけていた。答えは当然ない。でも彼女はまだ生きていた。私の愛したひと、──今でも変わらず愛している女性は、長く厳しい冬の中に閉じ込められていた。

「何かあったのか」

 ベッドに横たわっていると、お風呂から上がったアキくんに声をかけられた。早川アキ──悪魔に弄ばれた人間。最初は銃の悪魔に、そして支配の悪魔に、……今では信仰の悪魔に。
 人としてまっとうな人生を奪われた青年は、それでもなお私のことを気遣ってくれた。
 私は苦笑した。「ううん、なんでも」なんでもないよ、本当に。だってアキくんに言ってどうなるの?私は想像する。
 アキくんは優しいから、きっと私を慰めてくれる。大丈夫、気にすることはない。そう言って、私の罪悪感を和らげようとする。そして私は──、私だけが、救われてしまう。
 私はマキマさんのことを想った。マキマさんを、パワーちゃんを、デンジくんを。喪われた多くのものについて考えた。

「……アキくんは、きっといつか後悔するよ」

 ベッドが軋みを上げて、アキくんを受け止めた。
 私は横たわったままアキくんを見上げた。清らかなるもの、聖なるもの。そして何より、愛おしきもの。けれど今は逆光になっていて、その顔がよく見えなかった。
 アキくんは言う。「まだわからないだろ」そう言いながら、私の目許に落ちた髪を払う。その手つきの優しさに、私はまた泣きたくなる。

「後悔するほどの時間は経ってない。そんな先の話、必要か?」

「必要だよ。心構えは、しておかないと」

「心構え?」

「うん。アキくんに捨てられる、心構え」

 私は目を閉じた。目を閉じ、これから先の、ずっと先の未来のことに思いを巡らした。
 私の血を吸ったアキくんは、人でも悪魔でもない曖昧な存在に成り果てた。信仰の悪魔の血にはそれだけの効力があった。アキくんは人間らしい生活と引き換えに、不老の体を手にしてしまった。……私なんかを、必要としたせいで。
 だからどれだけ先の未来を想像しても、今より成長したアキくんの姿は思い描けなかった。アキくんはもう何にもなれないし、どこにもいけない。
 それは絶望的な永遠だった。

「……人聞きの悪いことを言うな」

 アキくんは溜め息をついた、らしい。呆れた様子で、でも立ち去ることはしない。それは優しさであり、とても残酷なことでもあった。アキくんは決して私を罰してはくれない。

 ──でも、長い時が過ぎ去れば?

 人の想いは風化していくものだ。あんなに輝いていた日々もいつか色褪せ、やがて灰色の季節がやって来る。アキくんが私を望んでくれた気持ちも、その想いの瑞々しさも、時と共に磨り減り、忘却の中に消えていくのだろう。体は永遠であっても、心までは縛れない。今の私にとっては、それが何より恐ろしかった。

 ──あぁ、でも。それでも私は、

「ならお前は後悔してるのか?名前は俺に手を差し出さなければよかったと、そう思ってるのか?」

「──ううん」

 私は目を開けた。眩さが目の前に広がって、その中で私は手を伸ばした。アキくんの頬、その肌に指を滑らせ、諦めに笑った。──この温もりは、どうしたって手放せそうにない。

「ごめんね、アキくん。でもやっぱり私、何度やり直せたってきっとキミを拐ってた。他の誰を傷つけたとしても、キミの命を望んでしまうんだと思う」

 ごめんね、と繰り返すと、アキくんは「気にしてない」と首を振った。

「だからお前も、気にするな」

 ……それは、ずいぶんと難しい要求だ。アキくんの頼みならなんだって叶えてあげたいけど、さすがにこればっかりは私にもどうこうできるものじゃない。
 だから私は「努力する」とだけ答えた。それが今の精一杯だった。
 もしかするとそんな日など一生来ないのかもしれない。私はこれから先もずっと、罪悪感を抱えて生きていくのかもしれない。

「いいさ、どれだけかかっても。幸い時間だけはあるからな」

 けれどアキくんは「待ってる」と言ってくれた。
 自分の寿命なんかどれだけ縮んだって構わない。そんな顔をしていた彼が、長い時間を私のために使ってくれるのだと言う。それはとても嬉しいことのようで、けれどとても悲しいことでもあった。
 私は堪らず、アキくんを抱き締めた。起き上がり、首に手を回し、その胸に顔を埋めた。

「ごめんね、……ありがとう」

 アキくんは答えなかった。黙って、私の頭を撫でた。父のように、兄のように。
 その指先からは愛情が伝わってきて、私は一筋だけ涙を流した。喜びと悲しみを凌駕する、途方もない愛おしさがそこにはあった。