夏油先輩と心地のいい眠り


 指の間から何かが滑り落ちる感覚があって、名前は目を開ける。
 ──ここはどこだろう。心地の良い揺れに身を委ねながら、ぼんやりと顔を上げる。甘美な微睡みに後ろ髪を引かれる思考。霞がかった瞳が最初に認識したのは、長閑な景色だった。
 緩やかな稜線を描く山々。秋の色に色づく木々。そして、穏やかな日の光。そうしたものを眺める名前に、声がかけられる。

「もう少し寝ていてもよかったのに」

「夏油先輩、」

 視線を前方にやると、その人は優しげに微笑む。
 空席の目立つ車内、ボックス席に向かい合う形で座る青年。特級呪術師の彼はそんなことおくびにも出さないで、「はい」と名前に書類の束を渡す。少し形の崩れたそれは、うたた寝をしていた名前が先刻落としてしまったものだ。
 ……まったく、情けない。尊敬する先輩の前でこんな弛んだところを披露してしまうとは。名前は身を縮め、「すみません」と書類を受け取った。胸中は慚愧の念でいっぱいだった。
 けれど彼は「何が?」と僅かに首を傾ける。「謝ることはないよ」そう続けながら、口許に浮かぶのは相変わらずの微笑。

「むしろ役得さ。可愛い後輩の寝顔が見れるなんて」

 これは冗談なのだろうか。それとも彼なりの慰め、励ましか?受け止めかね、名前は「ありがとうございます……?」と無難な答えを選んだ。
 どちらにせよ嫌なことを言われたわけではないのだから、礼を言っても間違いではないだろう。そう己を納得させ、名前は表情を改めた。

「ですが気が緩んでいる証拠です。以後気をつけますが、もしも今度また見かけることがあったら叩き起こしていただけるとありがたいです。寝顔などという間抜けな顔も、あまり見られたいものではありませんし」

「いいじゃないか。気の緩み、大歓迎だよ。私が信頼されているということだろう?」

「もちろん先輩のことは信頼しておりますが……」

「それに寝顔を見るなというのも今さらだろう?昨晩はたっぷり見せてもらったし」

「……見て、いらっしゃったのですか」

 ぐぐぐ、と名前の眉間に皺が寄る。彼が言っているのは昨日の事故のことだ。
 五条悟との修行で何度目かの敗北を喫した時、偶然彼が通りかかった。なんでも、今回の任務に名前を同行させたいとのこと。『後輩に経験を積ませるため』と言った彼にいたく感動したのは記憶に新しい。よき先輩に恵まれたものだと痛感した。
 その上彼は名前に対し手当てまでしてくれたのだ。自身の寝床の半分を名前に貸し出して、体力の回復に努めさせた。家入からは『夏油も五条もクズ』と散々聞かされてきたが、恐らく彼女は理想が高いのだろう。優しいひとだなぁと思いながら眠りに就いたのが昨晩のことである。
 しかし今朝、名前が目を覚ました時には彼はもうベッドにいなかったし、眠るのだって名前より遅かった。名前は彼が眠っているところなど見たことがない。だから同じ部屋で一晩共に過ごしたという意識は薄かったのだけれど、彼の方は違ったらしい。既に名前の間抜け面は彼の網膜に刻まれてしまったのだ。
 それを理解し、名前は渋面を作った。けれど夏油はくつくつと肩を揺らす。「そんな顔もできたのか」そう言った彼は、どこか楽しげでさえあった。

「人の顔を見て笑うなんて酷くないですか」

「いや、なに。物珍しくてね、つい」

 「悟といる時は表情豊かだろう?」だからね、と彼は言うが、何が『だから』なのか名前には皆目見当がつかない。頭のいい人の思考回路は複雑怪奇な代物である。名前は「はあ、」と曖昧に頷くにとどめておくことにした。不完全な決着。すっきりしない沈黙が、名前の前には横たわっていた。
 やがて列車は徐々に速度を落とし、きいっと耳障りな音を立てて止まった。無機質なアナウンスの声が響くのと同時に、新鮮な空気が吹き込んでくる。初秋の風はまだ生ぬるい。黄色い日射しを遮って、新たな乗客が幾人か名前の脇を通り過ぎた。
 そのうちの一人が名前の座席を蹴った。名前は目を上げることもしなかった。反対に、夏油はちらりと目を走らせた。遠ざかっていく男の背を、目で追いかけた。
 晴れた日だった。けれど完全な晴れ間というのでもない。疎らに雲はあり、そうしたものたちが名前の頭上から影を落とした。
 それは全くの異世界であった。影が落ちた、それだけなのに、世界は一変して見えた。長閑な景色には不穏な気配が重なり、優しい先輩の顔には窺い知ることのできない翳りが見え隠れした。
 ……もちろん、そんなものは想像にすぎない。数秒後には雲も流れ、温かな光が車内を満たす。
 そして名前はゆっくりと口を開いた。

「夏油先輩も、」

「ん?」

「五条先輩といる時は、私の知るあなたとは少し、違うように思います」

「まぁ、気兼ねしない相手だからね」

「なるほど。胸襟を開いた仲というわけですね」

「……そう、だったらいいのだけど」

 何故だか彼は歯切れの悪い物言いをした。いま現在、太陽にかかる雲はない。澄んだ青色は変わらず天にかかっている。
 なのに、──どうしてだろう?幻となって消えたはずの翳りが、僅かに滲み出ている。そんな気がしてならなかった。
 名前は少し考えてから、「お疲れですか」と問いかけた。

「顔色が悪いような気がします。貧血でしょうか?」

 案じたのは、名前としては当然のこと。顔色の悪さは即ち不健康の証である。そして相手が多忙な身である特級呪術師とくれば、原因は疲労以外に考えられなかった。
 しかし夏油は目を見張った。虚を衝かれた、そんな表情で名前をまじまじと見た。
 これではまるでおかしなことを言ってしまったみたいではないか。思わぬ反応を返され、名前も小首を傾げる。

「すみません、違いましたか」

「いや……」

 彼は小さく首を振る。「確かに。少し、疲れているのかもしれない」笑った顔が、なんとなく頼りなげに映って、名前は返す言葉を見失う。なんと言ったらいいのだろう。なんと答えれば、この人の痛みを和らげることができるのだろう。
 ぐるぐる悩んだ末に名前が口にしたのは、「では眠った方がよいのでは」という至極ありきたりな提案だった。

「まだ到着まで時間があります。精々仮眠にしかならないでしょうが、目を閉じるだけでも体力の回復には繋がるでしょう?着いたら起こしますから、それまではどうかおやすみください」

「……君が起こしてくれるのかい」

「私以外にどなたかいらっしゃいますか?」

 不思議なことを言う人だ。
 問い返すと、「……そうだな。おかしなことを聞いた」と言って、彼は額に手をやった。
 よほど疲れているのだろう。名前の中には気がつかなかったことへの申し訳なさだけでなく、呪術師として酷使される彼への同情心が溢れた。
 彼は少し考え込んだらしかった。幾らかの沈黙があって、その後で彼はいつも通りに微笑んだ。

「名前、お願いがあるんだけど」

「はい」

「私の隣に座ってくれないか」

「……?はい」

 望まれるまま、名前は席を移動する。立ち上がり、彼の隣へと腰を下ろす。ただそれだけ。

 ──それだけのことを、なぜ彼は?

 そんな疑問は、すぐに氷解した。

「あの、」

「すまないね。こうしないと上手く眠れそうにないものだから」

 名前は「そうですか」と答えながらも、意識は肩にかかる重みに集中していた。
 今の名前は尊敬する先輩に肩を貸している格好である。彼のさらさらとした髪が首筋を撫でるのが、すこし、擽ったい。『指通りもいいんだろうな』などというどうでもいい感想が頭に浮かんだ。
 そんな名前の肩に頭を預け、夏油は「助かるよ」と笑った。

「ほら、今年の夏はひどく暑かったろう?残暑も厳しくて……お陰でよく眠れなかったんだ」

「……お役に立てたならよかったです」

「うん、……ありがとう」

 名前は車窓を眺めた。自分の肩に寄りかかる先輩の顔は見ないようにした。そこに明確な理由があったわけではない。ただなんとなく、彼は見られたくないだろうなと思った。だから名前は黙ったまま、流れていく景色を見送った。
 やがて日差しが力を増し、眩しいほどの光線が降り注いだ。名前は手を伸ばし、ブラインドを下ろした。きらびやかな光も、鬱蒼とした翳りも、どちらも今の名前には不要なものだった。ただ、静けさだけがあればよかった。それ以外のものは満ち足りていた。肩にかかる重さや、触れた肌から伝わる体温、『ありがとう』の言葉だけで名前の心は満たされた。
 静けさの中で、名前は『夏油先輩にとってもそうであったらいいのに』と思った。ひとときでも構わない。慰めとなればいい、と。
 それこそおかしな考えだという自覚はあった。彼は自分より歳上で、とても賢くて、ずっと強いはずなのに。なのにどうしてか、名前には守るべきもののように思えてならなかった。