七海くんと冬休みの予定
はぁ、と吐く息が白い。十二月。校舎を出ると空っ風が吹きつけてくる。その勢い、冷たさは痛みにすら変換させられるほど。
首を縮めると、巻いていたマフラーを丁寧に整えられた。
「これじゃ防寒の役割を果たしていませんよ」呆れた風に言って世話を焼いてくれるのは、名前の母親じゃない。唯一となってしまった同級生、七海建人はいつだって親切な友人だった。
「寮までだから大丈夫だと思ったの」
「油断しないでください、今日は特に冷えますから」
「うん、ありがとう」
小言を言われることすら嬉しくて、名前はマフラーの下で相好を崩す。──だって家では誰もこんなこと言ってくれなかった。
名字家において名前は期待外れの長子で、跡取りにはなれないだろうと捨て置かれていた。使用人たちが養育を引き受けてくれてはいたが、それはあくまで仕事の上。心から気にかけてくれる人がいるなんて、高専に来るまで知らなかった。
灰色の空は重く垂れ込め、天気が崩れるのは時間の問題に見えた。雨が降るか、或いは雪に変わるか。緊急の任務が入らなければいいのだけれど、と名前は思う。呪術師に完全な休暇は存在しない。それは当たり前のことだけど、少し悲しいと思うようになった。高専に入ってから──そして近頃は、特に。
「憂鬱になる天気だね。いっそ降り出しちゃえばいいのに」
「まぁ、確かに。ですが任務先で降られるのは困ります。それなら曇りの方がマシだ」
七海は肩を竦める。その抜けるように白い膚は痛々しいほどに張りつめて見えて、名前は「そうだね」と頷いた。
想像したのは突然の雨や雪に襲われる彼の姿。それは嫌だな、と名前は思う。彼が風邪を引いてしまったら、もしもそれが重いものだったら──その時自分には何ができるだろう?思い当たらないのが情けなくて、不甲斐なくて、悲しかった。
「あれ、七海くん、手袋は?」
ふと。視界の隅に肌色を捉えて、名前は七海を見上げる。柔らかさのない、大人びた輪郭。薄い唇が「ああ、」とどうでもよさそうに呟く。
「この距離なので、いらないかと」
……まるで、他人事みたいに。名前の世話は焼くくせに、どうして自分のこととなると頓着なくなるのだろう。
名前は眉を顰める。
「油断しちゃダメだよ。七海くんに風邪引かれちゃったら、私が困るんだから」
「困るんですか」
「うん、すっごく。だって七海くんがいなきゃ朝ちゃんと起きられるかわからないし、宿題を教えてもらえなくなるし、夜『おやすみ』を言える人がいなくなっちゃうんだよ。それってすっごく困るでしょう?」
指折り数えながら答えると、彼はちいさく笑った。口許から立ち上るのは薄靄。名前と同じ、揃いの白。そうしたものに名前は深い安堵と幸福を覚える。私たちは今、同じ世界で息をしている。
「……それは困りますね」
「困るなんてものじゃない。死活問題だよ、これは」
懇々と訴えかければ思いは通じる。最初は関心の薄かった七海も、「以後気をつけます」と名前に約束してくれた。
……これで安心だ。彼は、約束を破るようなひとではないから。
「そうだ。七海くん、左手貸してくれる?」
ふと思いついて、名前は右手を差し出す。すると七海は不思議そうな顔をしながらも、「はい、」と応じてくれた。あんまりにも素直だから、名前としては少し心配になるくらいだ。
こんなに優しくて大丈夫なんだろうか。呪術師としても、一般人としても。……彼の優しさに救われている名前には、言えた義理ではないのだけれど。
悶々としながらもそれを押し隠して、名前は七海の手を握った。
「これなら少しはあったまるかなと思って。本当は私の手袋を譲ってあげたいところなんだけど、七海くんにはサイズも合わないだろうし」
「…………」
「でもやっぱり左手だけじゃ意味ないよね」
「……いえ、十分温かいですよ」
『迷惑だっただろうか』と不安になりかけたところで、握り返された手のひら。剥き出しの肌と、対照的に毎日グローブに守られている自分の手。白と黒のコントラストが眩しいようなもどかしいような、……奇妙な感覚を齎してくれる。布一枚の隔たりが、なんだか無性に悔しかった。
でも七海が微笑んで、「ありがとうございます」と言ってくれたから、雑然とした感情は吹き飛んでしまった。名前ははにかんで、マフラーの中に顔を埋めた。ただ手を繋いでいるだけなのに、なんだかすごく温かい。
……七海くんもそうだったらいいのに。そう思い、盗み見た彼の横顔。寒々しい蒼白の膚に、しかしほんの僅かに血の気が戻っている。微かに差した赤みを認めて、名前は緩みそうになる頬を抑えた。
「……冬休み、」
「え?」
「今年の冬休みはどうする予定ですか?」
何を思ったか。唐突に話を振られ、しかしそれは決まりきった質問であったから名前に迷う余地はない。鈍色の空を眺め、「今年もここで過ごすつもりだよ」と答える。
去年だってそうだった。実家に帰ったところで居場所などないから、それなら高専に残って少しでも勉強しようと思った。……結局、寮に残っていた唯一の先輩に付き合わされ、自習はまったく捗らなかったが。
「五条先輩も残るって言ってたし、たぶん同じような冬休みになるんじゃないかな」
「……そうですか」
「七海くんは実家に帰るんでしょう?ゆっくり休んできてね」
「…………」
「七海くん?」
仰ぎ見る。視線は交わらない。彼の目はどこか遠くを映していて、しかし繋がれた手にぎゅっと力が籠められたのだけはわかった。
……どうしたというのだろう。戸惑う名前に、七海はゆっくりと口を開く。
「私も……私もこちらに残ります」
「え?」
「五条先輩と二人きりなんて心配ですから」
しかしその理由に名前は思わず笑ってしまった。
「心配って」なるほど、確かに。優しい彼らしい気遣いではある。しかしそれにしても──
「五条先輩だってそこまで酷いことはしないよ」
件の先輩については信用がなさすぎて少し可哀想になってくる。傍若無人を絵に描いたような人だけど、決して悪人ではない。
だから名前は彼の名誉のために『大丈夫だ』と首を振ったのだけど──、七海は真剣な表情を崩さない。
「……やはりこちらに残ります」
「私のことは気にしなくていいのに」
「いえ、私がそうしたいと思っただけなので」
「そう……?」
いまいち納得がいかないけれど、七海は口を真一文字に結んでしまっている。確固たる意思。そうしたものが窺えたから、名前にそれ以上のことは言えない。……彼の申し出が嫌なわけでも、なかったし。
けれど曖昧な名前の返事に、七海は眉を下げる。
「……迷惑でしたか?」
「?ううん、まさか。むしろ私の方こそ頼りなくてごめんね。七海くんだってせっかくご家族と過ごしたかっただろうに」
「それは別に……」
口数少なく答えて、七海は息をつく。
天気のせいもあって、その様子はどこか重たげに映る。そんな、灰色がかった吐息。
……何か、気がかりでもあるのだろうか。気にかかったけれど、迷った末名前は口にするのをやめた。訊ねるのが果たしていいことなのか、それとも悪いことなのか。判断つきかねた。
──だから、その代わりに。
「でも……そっか、今年は七海くんも一緒なんだ。……楽しみだね」
そう言って笑みかけると、彼も眦を下げて「そうですね」と答えてくれた。
それで十分。それだけわかればいいのだ、と名前は思う。
彼が自分から望んでくれている。私と過ごす時間を楽しみだと言ってくれる。──それだけわかればいいし、その言葉だけを信じたいと、そう思った。