それからの話T


第一部から第二部の間の話。





 意識の外側で鳥の鳴き声がする。それは覚醒の合図だ。一拍か二拍かの後で、鳴り出す時計のベル。時刻は朝の六時。目を開けると、カーテンの隙間から白白とした日差しが射し込んでいるのが見えた。
 まだ少し肌寒い、春の日の朝。夜の間に冷えてしまった空気が、部屋の中に沈殿している。素足で歩くと、フローリングの床はペタペタと音がした。

「おはよう、アキくん」

 コーヒーできてるよ、と言ったのは、キッチンに立つ名前だった。お下がりの部屋着を着て、お揃いのマグカップを傾けて、彼女は笑う。「今日は私の勝ちだね」
 平日の朝は二人ともこの時間に起き出す。早く起きた方がお湯を沸かすようになったのは、暗黙のうちによるところ。でも今のところその回数は俺の方が多かった。公安所属のデビルハンターとして未だ前線で活動している名前には、夜勤の日もあったから。だからか、先に起きられた日の彼女は少し機嫌がいい。いや、彼女はだいたいいつも、同じような笑みを浮かべているのだけど。
 おはようと答えてから、洗面所に向かう。朝食の前に一度歯を磨くのは、何となくの習慣だ。眠っている間に泥濘んだ口内に耐えられないのだと言ったら、姫野先輩には「潔癖症」と笑われた。でも同じことを名前がしていても彼女は笑わなかったから、納得がいかなかったのを覚えている。
 毛がボサボサになった歯ブラシを眺めながら、今日の買い物リストを更新する。なんだってこうも痛むのが早いのか。硬めの歯ブラシにしてるはずなのに、ともう一人の同居人のことを考える。デンジのやつ、いつになったら歯磨きのひとつもまともにできるようになるんだろうな。
 洗面所を出ると、名前はもう朝食の席に着いていた。シリアルとコーヒー、それだけが並んだテーブル。向かい側には俺の分のトーストとサラダとコーヒーと、今朝の朝刊が置かれている。

「それだけで足りるのか」

 シリアルの皿がいつもより小さいのを認めて、俺は言う。
 人には栄養バランスがどうとか煩く言うくせに。なのに自分のこととなると途端に頓着がない。そう言うと、『お互い様だ』と返されるのがわかっているから、口にはしないけど。
 名前は「これが最後だったんだよ」と言う。続けて、「まぁ大丈夫だよ。私は人間じゃないんだし」とも。
 なんてことないって顔で、以前なら決して言わなかったことを彼女は口にする。一緒に住むようになってから、ことあるごとに。まるで自分が悪魔であるということを忘れさせないとばかりに、彼女は言う。
 俺はそれには答えない。代わりに、小皿を食器棚から出して、名前の前に置いた。それから、小皿にサラダを取り分ける。
 「野菜も食べろ」デンジにも言ってるだろ、と言えば、名前が反論できないことはわかっていた。

「アキくんには敵わないなぁ」

 降参の意を視界に収めてから、朝刊を開く。
 昔はここで煙草を吸っていたが、今はその習慣もなくなった。でもとりたてて不便はない。癖で懐を探ることもなくなった。人間、何事も慣れるものだ。煙草のない生活にも、デビルハンターでなくなった毎日にも。

「デンジくん、おはよう」

「はよーございます」

 二人が朝食を食べ終わる頃、デンジが起き出す。白いシャツは見慣れたものだが、その上に羽織った黒の学ランは制服を仕立てに行った日以来に見る。

「初日くらいまともに着られないのか」

「だってこれ、息が詰まるんだよ」

「だからって着崩しすぎだ。だいたい、お前が高校に通いたいって言い出したんだろ」

 俺は眉根を寄せる。だがデンジは気にしない。「へいへい」と適当な返事をして、椅子を引く。その前に名前が彼の分のトーストとサラダを置いた。

「デンジくん、制服、似合ってるね」

「そうっすか?」

「うん、カッコいいよ」

「おい、あんまこいつを調子に乗らせるな」

 そもそも学ランもスーツもそんな変わりないだろ、と俺は思う。でもデンジにとっては違うらしい。「モテちゃうかなぁ」なんて下らないことを呟きながら、間抜けな顔でトーストを齧る。
 ……こいつ、そんなことしか頭にないのか。

「まさかそんな理由で高校に通うのか」

「そんな理由ってなんだよ、立派な理由だろーが」

「学校は勉強するところだぞ」

 親みたいなことを言ってる自覚はある。自分が彼くらいの歳のときにはもう両親はいなかったし、そもそも親代わりになったつもりもないが、デンジを見ていると言わずにはいられない。こんな調子で普通の学生生活を送れるのかと思ってしまう。
 不安と憂慮。それは彼自身に向けられたものでも、彼以外の周囲に向けられたものでもある。なんのトラブルもなく平穏無事に、卒業式を迎えられるのだろうか。
 しかし「うるせー」と顔を顰めるデンジに、俺の思いは伝わらない。

「そりゃあアキはいいよなァ、名前さんがいるもん。オレだって彼女ほしいよ、十人くらい」

 バカげた夢想は聞き流すに限る。俺は黙ってマグカップを傾けた。
 そうすれば自分の表情は見られないし、名前がどんな顔をしているかもわからない。それにコーヒーを飲んでいるなら返事をしなくても済む。
 おかしな行動じゃないはずだと考えてる横で、名前が「十人は多すぎだよ」と言う声が聞こえた。その声には些かの動揺も見られなかった。そしてそれ以上のことを言うこともなかった。

「早く食え。遅刻するぞ」

 物思いに沈む前に席を立つ。朝刊を畳んで、空っぽの皿をシンクに運ぶ。流水に指先を浸して暫く、ようよう呼吸の仕方を思い出した。
 顔を上げると名前の背中が目に入った。ピンと伸びた、それでも小さな背中。デンジの髪を梳かしてやっている彼女を、見るともなしに眺めた。
 初めて会ったのは十代の頃。引き合わせたのは師匠にあたる岸辺で、その時はまだ彼女が悪魔であることも知らなかった。
 確信を持ったのはいつだったか。確か未来の悪魔と契約をした後だった気がする。それまでも何となく『そうじゃないか』とは思っていたけれど、本当のことなんてどうでも良かった。どうでもいいと思えるようになっていた。そう思っている自分に気づかされた。
 でもだからって何かが変わったわけじゃない。名前との距離感は変わらず、同僚で、友だちでも家族でもない曖昧な関係のままだった。
 曖昧であることに少しの焦燥を感じたのは、名前に自分の知らない友人がいるのだと知った時。ひどく親しげに振る舞う男を見て、据わりの悪い思いをした記憶がある。
 それから色々なことがあった。一度は片腕を失い、名前には偽物の記憶を植えつけられ、彼女と二人この国を飛び出して、そして────なのに今もまだ、名もない関係を続けている。

「デンジくん、忘れ物はない?」

 洗い物を終え、着替えを済ませて廊下に出ると、デンジが靴を履いているところだった。その前に立った名前が心配性の母親の顔であれこれと懸念事項を並べ立てる。持ち物から学校までの道順、集団行動について……。その一つ一つに対し、デンジは律儀に答える。鬱陶しいと感じている様子はない。それはたぶん相手が名前だからだ。
 『俺が同じことを言っても反抗されるだけだろうな』と思いながら、「それくらいにしとけ」と口を挟む。

「もうガキじゃないんだから」

「そうだけど……」

 名前はまだ何か言いたげだったが、「そうだよね」と頷く。

「アキくんが言うんだもん、正しいに決まってるよね」

 ……それは少し、荷が重くないか?
 『神様じゃあるまいし』とは思ったが、否定する前に名前はデンジに向き直る。

「それじゃあいってらっしゃい。気をつけてね、何かあったらいつでも連絡してね」

 たかが一日別々の生活をするだけなのに、えらく大げさだ。これから戦場にでも出るのかって調子で、名前はデンジの背中を見送る。
 放っておくと見えなくなるまで手を振っていそうだったから、「俺たちもそろそろ出ないと」と腕を引いた。でも本当のところ、まだ家を出るには早かった。
 デンジがいなくなると途端に押し寄せる静寂。こういう時、昔はどうしていたんだったか。どうすべきなのか分からず、意味もなく手の中でキーケースを弄んだ。
 何か、言わなくてはならないことがあった気がする。気がするだけで、言葉の一語でさえ出てきやしないのだが。だからこういう時は決まっていつも名前の反応を待つ。彼女が何らかの合図を出してくれるのを、いつだって。

「そうだね、少し早いけど」

 名前は頷く。「でもやることはいくらでもあるし」
 公安はいつだって人手不足。その上、冬にあった事件のせいで多くのデビルハンターが亡くなったり職場を去ったりした。世は一足早く世紀末を迎えようとしている。……いや、悪魔の出現以来人類に平和なひと時など一度もなかったのかもしれないが。

「それなら俺も、」

「だめだよ、アキくんは」

「……まだ何も言ってないだろ」

「言わなくったってわかるよ。デビルハンターに復帰するって言いたいんでしょ。他のことなら聞いてあげるけど、それだけはダメ。絶対ゆるさないから」

 断固とした口調で言われてしまうと、二の句が継げない。仕方なしに、「わかった」と応じる。
 わかったよ、デビルハンターにはならない。悪魔と契約もしない。もう二度と、自分の命を売り渡さない。それが今の生活に戻る際、名前と約束したことだった。
 だから公安がどれほど人材不足に悩んでいても手出しはできない。事務方として公安で働く、それが名前にとって最大の譲歩だった。『本当は悪魔と無関係の仕事をしてほしいんだけど』というのが彼女の弁だ。でも俺だってそれ以上引き下がることはできなかった。

「私は、……私たちは、キミが生きていてくれれば、それだけでいいのに」

 ──それなら俺の気持ちはどうなる?

 そう言いたかったけど、言えなかった。だって自分自身が一番、自分の気持ちなんてものをわかっちゃいなかった。それが言語化できたら苦労しない。形にならない靄のような澱のような、淀んだ何かが喉の奥、腹の底で時折首を擡げるくらいで、つまるところどうしようもないのだ。何に支配されているわけでもないのに、俺は馬鹿みたいに突っ立って、ただ名前が何らかの合図を出してくれるのを待っている。

「……行こっか、」

 『あの日』と同じように彼女に手を引かれて家を出る。けれど『あの日』とは違い、その手には殆ど力が込められていなかった。
 いっそのこと引っ張ってほしいと思った。白い手、夜明けよりも青ざめた肌。そうしたものを見下ろして、俺は思う。
 逆らえないくらいの強い力で引っ張ってくれたら。何を考える時間も余裕もないくらいに好きにしてくれたら……そうされたって、少しも嫌じゃないのに。
 『そんな日は来ないんだろうな』と思えば、過ぎ去った偽りの日々に胸が痛んだ。