夏油先輩のこれから
──呪霊を取り込んだ直後はいつも体が重い。肉体的にも、精神的にも。
『そりゃあそうだろう』と同級生の家入硝子はかつて言っていた。『異物を体の中に入れてるんだからさ』難儀な術式だね、と煙草をふかす彼女の目に同情の色はない。五条悟に至っては『ゲテモノ喰いは大変だなぁ』と笑っていた。およそ一年ほど前のことである。
夏油は彼らのことを好ましく思っていたし、実際良好な関係を築けていた。それでも三人はどこまでもひとりで、別々のものを見ていた。友人であっても、見ている景色は違う。深い深い隔たりが、そこには存在していた。それを痛感したのは今年の夏のことだった。
「……本当に、難儀なものだな」
胃のムカつきを感じながら、夏油は宵に沈む高専に帰る。去年の夏も、今年の夏も、秋の日の今日も。
違うことといったら、その足が向かう先。今まではずっと自室に帰っていた。少し休めば体は自然と回復する。馴染む、といった方が正確かもしれない。ともかく今の自分に必要なのは休息であると、夏油自身が何より理解していた。
けれど夏油が向かったのは高専女子寮。そのうちの一室をノックすると、心地のいい声が返ってくる。
「おかえりなさい、夏油先輩」
「あぁ、ただいま」
出迎えてくれた名前に、制服のジャケットを脱いで渡す。どうやら名前の家ではこれが当たり前のことらしい。古風な、と驚いたのは昔の話。最近はすっかり慣れてしまっていた。
甲斐甲斐しい名前の後ろ、「なんだ、硝子もいたのか」後輩の部屋で寛ぐ同級生の姿を認めて、ついそんな言葉が滑り落ちた。……もちろん、他意はない。
けれど硝子に「いて悪かったね」と肩を竦められ、「そんなつもりじゃないよ」と笑いながら否定する。その裏で、『どうだろうな』とも思う。自分自身、本当のところはわからない。
──私は、何を望んでいるのだろうか。
「パパが帰ってきたんなら私は帰るよ」
硝子はそう言って、飲みかけのグラスを呷った。中身は恐らく酒だろう。彼女は酒と煙草をこよなく愛している。
それに対して特別何かを思うことはなかったが、今は少しだけ気にかかった。たぶん名前が隣にいるからだ。彼女にはそのどちらも似合わないと思う。
……そういえば、硝子は今なんと言ったろう。
「パパって、」聞き流しかけた言葉を拾って、夏油は苦笑する。「子を持つには早すぎるだろう」そう言いながら、テーブルの前に座った。
その向かい、硝子の前には一人分のグラスとつまみ。名前が座っていたであろう場所には丁寧な字で綴られたノートが広げてある。どうやら勉強をしていたらしい。時刻は午後の九時。勤勉なことだ、と嬉しくなる。
とはいえ夏油は感情を面に出すことをしない。素知らぬ顔で、帰り支度を始める硝子を見やる。けれど彼女は「よく言うよ」と薄い笑みを刷いた。
「いつの間にか子ども二人もこさえてるくせに」
黒目がちな彼女の目が映し出すのは夏油だけじゃない。彼女はお茶を淹れる名前を見て、それからベッドで眠る双子の少女を見た。二人が任務先の村から連れ帰ってきた少女たちを。
「……揶揄うもんじゃないよ」
正直、ぎくりとした。硝子の目は一見すると何を考えているのかわからない。わからないから、すべてを見透かされているような気持ちにさせられる。
実際、夏油には思い当たる節があった。これまでのこととこれからのこと。まだ誰にも打ち明けていない内心を、硝子は見抜いているのかもしれない。
しかし硝子に追及の意思はないらしい。彼女は「はいはい」と受け流し、立ち上がる。宣言通り自室に引き揚げるようだ。
湯呑みを置いてから、名前は「本当に帰られるんですか」と硝子の背を追う。その声は少し残念そうだ。尊敬する人を聞かれて、《あの》五条悟の名前を挙げる名前は当然のことながら硝子のことも慕っている。
「もっとゆっくりしていってくださっても構いませんのに」
「ありがと。でもそれはまた今度にしておくよ。夏油に貸しを作っとくのも悪くない」
硝子はひらりと手を振って、部屋を出ていった。
後に残されたのは静寂。健やかな寝息の聞こえる中、夏油は名前の様子を窺う。彼女は硝子の冗談をどう受け止めているのだろうか。夏油にとってそれは重要な問題だった。
「貸しって何の話でしょう」
名前は言って、夏油の隣に腰を下ろした。「先輩方は本当に仲が良いのですね」しみじみとした調子で、しかしそれ以上を訊ねてくることはない。
気を遣っているのか、それとも単に興味がないのか。聞かれて困るのは自分なのに、後者でなければいいとも夏油は思う。
……面倒な男だ。「そうだね」と応じながら、しかしその内心は簡潔とはほど遠い。複雑に絡み合って、自分自身でもよくわからないところまで来てしまっていた。
「何かお食べになりますか?」
「いや、いいよ。ちょうど呪霊を取り込んだばかりで、今何か食べたら戻してしまいそうだからね」
「そんなに……。では早くお休みになった方が、」
「ああ、大丈夫。そこまでじゃないから、心配しないで」
「ですが……」
気をひきたくて冗談を言ってみた。が、しかし、慣れないことはするものじゃないとすぐに痛感させられる。真面目な名前は真剣に捉えて、すっかり顔を曇らせていた。
それはそれで悪い気はしないのだけれど、度が過ぎて嫌われてしまったらと思うと加減が難しい。難儀なものだ、とまた思う。心も体も、儘ならないことばかりだ。
「私の言葉が信じられないの?」顔を覗き込むと、名前は慌てて首を振る。
「いいえ、まさか」
──愚かで可愛い私の後輩は、私を喜ばせる言葉を口ずさむ。
この澄んだ瞳を抉り出したらどんなだろうか。夏油はぼんやりと夢想する。同じ黒色なのに、どうしてか他とは全然違う。他の誰とも、──呪霊の塊とも。濁りを知らない黒色を尊ぶのと同時に、自分と同じところまで落としてやりたくもなった。
これを舐めて、食んで、飲み干したら──腹のムカつきさえ治まるんじゃなかろうか。呪霊のように、取り込んでしまえたなら。
「それでも心配してしまうものです。夏油先輩ひとりの体ではないのですから。菜々子さんも美々子さんも、……私たちにはあなたが必要です」
「……それは責任重大だな」
けれど抉り取ってしまったらその輝きも失われてしまうのだろう。理解していたから、夢想は夢想の中で眠る。夏油は年長者らしく笑い、名前の頭を撫でた。
「菜々子も美々子も変わりない?」
「はい、まだ二人だけで眠るのは怖いと……。ですが硝子先輩とも話せるようになりましたし、二人ともよく頑張っていますよ」
「そうか」
無理からぬことだ、と夏油は頷く。けれどその心中には非術師への憎悪が渦巻いていた。
無知で愚かな猿ども──殺してやりたいと思ったのは嘘じゃない。任務を終えた今でも、殺してやった方が後の世のためだったのではないかとさえ思う。天秤はとっくに傾いていた。
けれど実際のところ《彼ら》はまだ生きているし、夏油もまた呪術師のまま。いつか訪れるかもしれない破滅の日を時おり夢に見る。……名前は何も知らない。無知で愚かな名前は嬉しそうに双子の様子を語る。
「今日は『大きなかぶ』を読んだんですよ。二人には物語のその後を考えてもらったんですけど、美々子さんったらすごい大作を書いてくれて。菜々子さんの方は独創性があって、双子でも全然違うんだなと痛感させられました」
そう言って、眠る少女たちを慈愛に満ちた目で見つめる。
愚かなほどに優しい名前、──だからこそこんなにも愛おしい。
「……あの村はじきに廃村になるだろうね」
「……何かあったのですか」
「何もないよ。……今はまだ、ね」
不安げに瞳を揺らす名前に柔らかく笑みかける。
猿は嫌いだ。非術師など死んでしまえばいいと思う。あの村を滅ぼさなかったのだって、慈悲を与えた訳じゃない。夏油が彼らを殺すより早く、名前の方が動いたからだ。彼女は双子を捕らえていた檻を壊して、可哀想な少女たちを抱き締めた。
彼女が望んだのは復讐ではなかった。少女たちの庇護を優先したから、夏油もそれに従った。村人たちは喧しく何かを言っていたようだが夏油の耳には入らなかった。愚かな猿どもが何を言おうとどうだってよかった。
気にかかったのは名前のことだ。心ない言葉に傷ついているんじゃないか。そう思ったのだけれど、名前は悲しげに眉を下げるだけだった。
『呪いは廻るものです。人を呪った彼らもまた、誰かに呪われるのでしょう』
山間部に位置する小さな村。術師という異端者を虐げることで結束を高めていた彼らは、双子を失ったことですぐに瓦解していった。今日小耳に挟んだところによると、今は余所者の排除に躍起になっているらしい。派遣された医師を追い出したお陰で村内唯一の病院も潰れてしまった。高齢者の多い村にとっては大きな痛手だろう。……名前の言葉は近い将来ほぼ確実に現実のものとなるのだ。
「以前君が言った通りになりそうだよ」
近況を教えてやると、名前はやっぱり悲しそうに目を伏せた。いっそ滅んでしまったなら悲しむこともなくなるだろうか。後世に残るべきは猿ではない、我々呪術師だ。
「名前が気に病むことじゃない」そう言い聞かせながら、早く忘れてしまえと念じる。──そうだ。私たち以外のことなど、忘れてしまえばいい。
そう念じながら、名前の頬に手を這わす。目を合わせ、距離をつめる。名前は何も言わない。抵抗もしない。ただ黙って、夏油を見上げる。
それは青みがかった黒色だった。ただの黒一色ではないことを今更ながらに知った。きっとまだ多くのことを知らないままでいるのだろう。それを喜ばしくも思うし、もどかしくも思う。すべてを知る日は来るのだろうか。そしてその時、自分は何を思うのだろう。
交じる吐息の向こうで、名前の瞳が瞬く。
「……やはりお疲れのようですね。隈ができていますよ」
つ、と指先がなぞるのは目許。夏油のそれに触れ、名前は微笑んだ。幼い少女たちを見つめるのと同じ温度で、空気で、装いで。慈しむように微笑まれ、思わず面食らった。
愚かなまでに優しい名前、──その優しさが私だけのものになったらいいのに。
「……それじゃあ少し休ませてもらおうかな」
嘯いて、名前の膝に頭を横たえる。見上げれば星の瞬きがひとつ、ふたつ。静かな驚きを凪いだ瞳で表し、名前は小首を傾げる。
「ここで、ですか?」
「嫌?」
「いえ、ですがこんなところでは休めるものも休めないのではと……」
「そんなことないよ。すごく快適だ」
「……物好きですね」
名前は少し困った様子で笑う。そうしながらも指先は夏油の黒髪を梳る。彼女の瞳はたったひとりを映し、慈しむ。──今、この瞬間だけは。
指先が形作る揺りかごに身を任せ、夏油は目を閉じた。見ている景色の違いも横たわる深い隔たりもどうだってよかった。ひとりであっても孤独ではなかった。名前はいつだって隣にいてくれた。望めば、いつだって。
「ねぇ、名前」
「はい、夏油先輩」
「……卒業したら、四人で暮らそうか」
私と名前、それから菜々子と美々子の四人で。どこかに部屋を借りて、四人で家族になろう。
囁きに、揺りかごは止む。夏油は目を開ける。降り注ぐ星の瞬きを見つめる。名前の痛々しいほどに白い肌が色づくのを、小さな唇が震えるのを、細やかな変化のそのすべてを見つめ、目に焼きつけた。
「……はい。あなた方がそれを望んでくださるなら」
そう言った声に滲む、隠しきれない喜びの色を。そのすべてを知るのは私だけ。──私だけなのだ。
噛み締め、夏油は笑みを深める。二人がひとりになることはないけれど、今はそれで充分だった。