一目見た瞬間、名前だとわかった。だからその外見が十年前とそっくりそのままだからといって、五条悟は気にしない。それよりも重要なのは、彼女が自分のことをすっかり忘れていることだった。
彼女の大きく丸い瞳が無邪気にも「あなたは《私》の何だったのですか?」と問うものだからあまりに憎らしくなって、つい「恋人だよ」と嘘を教えてしまったけれど、まぁ問題はないだろう。今さら手放すつもりはないし、それなら恋人に、ゆくゆくは夫婦になってしまえばいいだけの話だ、と五条は思う。
……それにしても、生徒たちの喧騒が煩わしい。
「……ちょっと付き合ってもらうよ」
「え?」
不思議そうに目を瞬かせる彼女の腰を抱き寄せて、軽く空を駆ける。
あの学園では近頃話題になっているという《
「……この辺でいっか」
人気のない森に辿り着き、地に足をつける。木々の微かな囀ずりと、落ち葉の乾いた音。それ以外はまったくの静寂。ここで何が起こったとしても、早々一般市民の目には止まらないだろう。
試しに拘束を解いてみると、彼女は足をふらつかせつつも座り込むことはなかった。それに怯えて逃げるそぶりも見せない。
ただ少し驚いてはいるようで、「あなたはいったい、」と五条をまじまじと見上げた。なんだか懐かしい反応である。出会ったばかりの頃もよく彼女を驚かせていたな、と五条は過ぎ去った青い春を想った。
「俺?俺は五条悟。さっきも言ったけど、オマエの恋人で、最強の呪術師。二度と忘れさせねーからな」
「呪術師……」
その単語の何が引っ掛かったのか。
何もかもを忘れたはずの彼女が、眉を寄せる。快、不快でいうなら後者の様子。足が、半歩下がる。
「なに?どうしたの?」
「……呪術師には、近づいてはいけないと言われています」
「は?誰が?誰に?」
「で、ですから、近づかないでください……っ!」
これまで平然としていた彼女の顔が、《呪術師》と聞いた途端に青ざめる。何事かに怯える目、おののく唇。距離を取ろうと、遠退いていく体。落ち葉がかさかさと耳障りな音を立てる。
いったいこれはどういうことか。彼女はすべてを忘れてしまったのではないのか。
──まさか、彼女を操る者が他にいるとでも?
「……確かに、おかしな話だよね。オマエほどの呪術師がやられるなんて、低級呪霊相手じゃあり得ない。ってことは未確認の特級かな?記憶を消した上に都合よく書き換えたってところか」
「あ、あのっ、」
「でもそれだけじゃないよね、体の成長まで止まってるなんて一体なんの呪霊なんだか。傑以上の呪詛師っていうのも考えにくいしなぁ。うーん、このところ立て続けに色々あって正直僕もうクタクタなんだよね。あんまごちゃごちゃ考えんのダルいっていうか」
「えーっと、」
「……要するに、ムダな抵抗はやめておいた方がいいよ?僕、最強だし」
優しく笑いかけてあげる。と、どうしてか名前は顔を引き攣らせた。
……なんだ、失敗か。思うように事が運ばなくて、五条の中で苛立ちが募る。元より気の長い方ではない。十年、……我ながら、じゅうぶん待った方ではないだろうか。そう自画自賛しながら、逃げられた分の距離を詰める。
すると、名前は身を翻して駆け出した。
「へえ?鬼ごっこ?なら負ける気しないけど!」
笑み溢して、小さな背中を追う。頬をなぶるのは冷たい冬の風。それは十年前を想起させる感覚だった。
そういえばあの頃もよくこうして名前に修行をつけていたっけ。そんなことを思い出しながら、地を蹴る。いつの間にか五条は学生時代に戻ったかのような錯覚に陥っていた。
……ここは、高専の裏手にある山によく似ている。名前と修行に励んでいた、あの頃の高専に。
当時の名前は優秀な生徒だった。けれど彼女は『先輩の教え方がいいんじゃないですか』と謙遜するから、五条も『そうかもしれないね』とその気になった。周りからは『教師など向いてない』と止められたが、名前のその言葉が決め手のひとつだった。……彼女との思い出が、今へと繋がっているのだ。
考えてみれば、当時は随分と彼女に救われていたように思う。強くなりたいと言う名前と、強い仲間がほしかった五条。始まりはただの協力関係だった。五条にとっては気紛れで、気晴らしのひとつ。それだけだったはずなのに──失いかけて、気づいた。
「……絶対、逃がしてやんねーから」
そう呟いた声は逃げる彼女まで届かない。届かないけれど、感じ取るものはあったらしい。ちらりと振り返ったその顔は青色を通り越して殆ど白色。いっそ哀れを誘うほどである。……もちろん、だからといって彼女の望みを叶えてやる気はないが。
「ねぇ!そろそろ追いかけっこにも飽きてきちゃったしさぁ!本気出していいかなぁ!?」
笑いながら叫ぶ。と、前方で名前がふうっと小さな息を吐いた。
その薄靄が溶けるか溶けないかのうちに、五条へ向かって宙を駆け抜ける影がふたつ。白い毛並みが特徴的な狐は、当然ただの獣ではない。呪力がなければ捉えることのできない霊的存在──護法童子。学生時代から名前が好んで操っていた妖狐である。
けれどだからこそ、風よりも速いその攻撃が、五条には見切ることができる。
「懐かしいね、でもそんな小手先だけの術じゃ俺には勝てないよ?」
二匹の猛追を躱し、五条は一気に距離を縮める。速く速く速く──木々の合間を駆け抜け、名前の懐へ。飛び込み、防御の姿勢を取った彼女に構わず、呪力を帯びた拳を叩き込む。
「くっ、う……」
「……さすがだね。肋骨を何本か折ってやったのに、まだ立ってられるんだ」
よくもまぁ今まで普通の女子高生をやってられたものだ、と感心する。やっぱり名前にそんなのは似合わない。名前がいるべきは俺の隣だ。つくづくそう思ったから、五条は相好を崩した。名前が変わってなくて何よりだ。……まぁ変わっていたとしてもまた最初から教え込めばいいだけの話だから、それはそれで楽しめただろうけど。
ともかく五条としては褒めたつもりなのに、飛び退いた名前は腹を抱えたまま睨みつけてきた。戦意に衰えはない。むしろ眼差しは一層鋭さを増して、五条の背中をゾクゾクとしたものが駆け上がっていった。
やっぱり、名前とやり合うのは楽しい。その喜びのまま、攻撃を再開する。カマキリに似た手形で目を狙い、その隙に蹴り技で名前の足を刈る。
軸のぶれた体。五条はすかさず拳を連打するが、二発目からは防がれてしまった。しかも同じ蟷螂拳の動きで関節を絡め取られる始末。記憶はなくしていても、教えた技術は名前の中に息づいているらしい。素早い蹴りを手で受けながら、なおも五条の胸は弾む。
「これさ、蟷螂拳って言うんだよ。ねぇ、知ってた?」
「いえ……っ、」
「不思議だと思わない?どうしてこんな動きができるのか。……名前にこれを教えたのも俺なんだよ」
蹴りつけてくる足を受け止め、五条は体を捻る。狙うは名前の軸足。足払いをかけ、よろめく体を組伏せようとする。
──が、
「……まったく、水を差すなっての」
突風が吹き荒れたかと思うと、名前の姿は消えていた。隠れていた護法童子の仕業である。顔を上げれば、狐に跨がり宙に浮かぶ名前が目に入る。
空中戦を挑もうというのだろうか。それもまぁ、悪くはない。どちらにせよ勝つのは自分だ。笑う五条を見下ろして、蒼白な名前の唇が動く。
「──十羅刹女」
彼女が呼び出したのは、唐風の装いをした十人の女鬼神だった。術者に仇なす者の精気を食らうという鬼神たち。それぞれが異なる武具、能力を持っている。それが一度に十人放たれたとあっては、並みの呪術師では耐え凌ぐのも難しいだろう。
──そう、並みの呪術師であったなら。
「……でも残念、」
襲い来る鬼神たちを前に、五条は右手を差し向ける。
目標は十羅刹女と妖狐。名前以外のすべてを、ここで片づける。
「──術式反転、《赫》」
それは簡単に言うなら弾く力だった。向かい来る鬼神も、邪魔な狐も、不幸だったのは直線上に位置していたことである。ただの一度、その一度の攻撃で、名前を守護するものたちは呆気なく消え去った。
支えを失った名前はただ落ちるのみ。墜落する彼女を受け止めようと、五条は手を広げる。──その視界の隅で、何かが煌めいた。
刹那、五条の中にはふたつの選択肢が存在していた。このまま受け止めるか、──それとも。その一瞬の間に五条の中を駆け巡ったのは、十年前の青臭い思い出だった。
「……どうして、避けなかったんですか」
気づけば五条の体は一本の剣に貫かれていた。先刻吹き飛ばしたはずの十羅刹女のうちの一体、人の縁を切るという毘藍婆の剣。呪力の塊であるそれが今、五条の腹部には突き刺さっている。
「どうしてって、」どうやら名前は墜落しながらも躊躇なく剣で貫いてくれたらしい。「そんなの決まってる」笑う五条の口端からは真新しい血が流れ落ちる。
まったく、少しくらい躊躇えば可愛いものを。そう文句を言ってやりたかったけれど、やめておいた。……楽しかったのは、事実だから。
「こうでもしないと抱き締めさせてくれないでしょ?」
剣を刺すためとはいえ、懐に飛び込んできた名前。そんな彼女の頬を撫でると、見開かれた目が揺れた。そこにはもう怯えの色はない。あるのは純粋な驚き、動揺。研ぎ澄まされた感覚はすっかり霧散し、無防備なだけの少女がそこには立っていた。
「ごめんね」……そんな彼女から意識を奪うのは容易いことだった。「でももう二度と、手放してなんてやらないから」
手刀を入れると、簡単に手中に収まる小さな体。少女を抱き止め、その後でようやく剣を引き抜いた。
……ずいぶん久しぶりに血を吐いた気がする。しかしその傷も反転術式を回したことですぐに治ってしまう。跡形もなく、最初から傷なんてなかったみたいに。消えてしまった痕跡を、五条は少し残念に思う。……永遠に残る傷跡が、目に見えたらよかった。
「まずは硝子に診てもらって〜……そしたらメシ食わせないとなぁ」
抱き上げた体の軽さに驚かされながら、高専へ向かう。その足取りは軽く、澄み渡る空は新たな門出を祝福しているかのようだった。