目覚めT


 目を覚ますと頭上には見知らぬ天井が広がっていて、隣には見慣れない顔の男が寝そべっていた。

「おはよう、名前♡」

「……おはよう、ございます」

 どれほどの時間眠っていたのだろうか。眩しい笑顔の向こう、カーテンの隙間から覗く空は薄暗い。朝か夜かも判断つきかねる、色。名前はぼんやりとした視線を投げる。

「メモとペンをお借りできるでしょうか」

「は?なんで?」

「夢を……、夢を見たので」

 見た夢を記録に残すのは名前の習慣のひとつだった。それは吉凶を占うためであったし、それ以外の理由もあった。けれど確かなことはわからない。失われた記憶の中にはあったのかもしれないが、今の名前には知る由もないことだった。

 ──この人なら、わかるのだろうか?名前の過去を知るという、目の前のこの男なら。

 五条悟と名乗った彼は、名前の答えに深い驚きを見せなかった。むしろ「なるほど」と納得した様子で頷いて、「そういえば名前は昔っからクソ真面目だったね」と笑った。名前を見つめるその目は、懐かしいものを見るように細められていた。

「律儀だねぇ、ガキの頃に言いつけられた命令を未だに守ってるなんて」

「体に染み付いた習慣なんでしょう」

「俺のことは忘れたのに?」

 彼は責めるように言う。言いながらも、微笑みは絶やさない。けれど持ち前の色もあって、冷ややかさは隠しきれていなかった。
 この人は怒っている。至近距離から冷気を浴びて、名前は実感する。すべてを忘れてしまった私を責めているんだ。でもそれも仕方のないことだろう。彼は名前のことを《恋人》だと表現した。
 そんな人に、自分のことを忘れられてしまったら?──それはきっととても悲しいことなのだろう、と名前は思う。思ったから、「ごめんなさい」と素直に謝った。過去のことは少しも思い出せないけれど、だからこそ彼のことを哀れに思う。
 するとどうしてか彼は目を丸くした。驚いた。そう表情で表してから、くしゃりと笑う。まるで、子どもみたいに。

「いいよ、許してあげる。ちゃんと俺のところに帰ってきてくれたんだから、……許すよ」

 彼の手が名前の腰に回る。
 抱き寄せられる体。頬に触れる唇。初めての感覚のはずなのに、嫌な感じはしない。それを不思議にも思わないのだから、彼の言葉は正しかったのだろう。……《恋人》という単語の響きには、まだ慣れないけれど。
 「その代わり、もう二度と逃がしてやらないから」耳許で囁かれた言葉に、名前は「はい」と応じる。

「わかっています。私ではあなたに敵わないようですから」

 『呪術師に近づいてはならない』と、刺された釘は未だ胸の中。じくじくと痛みを齎すけれど、我慢するしかない。名前は負けたのだ。敗者は勝者に従わなければ。

 ……そういえば、その釘を刺したのは誰だったろう?

 ともかく名前の答えは五条のお気に召すものだったらしい。「いいこ」と褒められ、頭を撫でられる。
 甘ったるい手つき、声。少し前にはその手で殺し合いを演じていたとはとても思えないくらいに彼は優しい。なんだか据わりの悪ささえ感じてしまって、名前は視線をさ迷わす。

 ──こんな風に笑う人だったのか。

 新鮮な驚きが名前を襲う。

「ところで、……ね?さっさとはっきりさせときたいんだけど、オマエに余計なことを吹き込んだのはどこのどいつ?」

 けれど次の瞬間。酷薄とした微笑を刷く彼は、情け容赦なしに名前の骨を折った男と同一人物に他ならなかった。

「それ、は」

「あれ?言えないの?かわいそうな恋人の頼みなのに?どこの馬の骨とも知れないやつと恋人の俺と、名前はどっちをとるの?」

「……えっと、」

 名前は言葉につまった。
 確かに敗北は認めた。名前を知っているという彼の言葉も信用している。できる限り要望には答えたいとも思う。
 けれどだからといってこの二年余り自分を庇護してくれた呪霊を簡単に売り払うこともまた、名前にはできないことだった。人間ならば誰しも持ち合わせている良心の呵責というものである。

「──名前?」

 しかし五条悟にはそんなもの関係ない。まったく理解できないといった顔で、名前に詰め寄る。絶やされない微笑みが、逆に恐ろしい。呪いと呼ばれるものたちよりも、よほど。寒気が背中を走り抜けて、名前は顔を引き攣らせる。
 脳裏に浮かぶ懐かしい面々。漏瑚、花御、真人……彼らの顔から、目を逸らす。
 ──ごめんなさい。どうしてか、この人にだけは逆らえそうもない。

「……正確なことは私にも思い出せません。恐らくは、呪霊の誰かだったとは思うのですが」

 重苦しく口を開いた名前に、五条は眉を寄せる。

「呪霊?」

「はい。その、私が気づいた時には周りに彼らがいたので──」

 名前が自身を認識したのはほんの二年ばかし前のこと。どこかの森の奥深くで名前は目覚めた。目覚めた時には既に、彼らが傍らにいた。漏瑚、花御……そのうちに真人も加わって、やがて名前は女学校に編入することになった。
 けれど、──あぁ、『多くの人をその力で導いてあげなさい』……そう教え諭した人の顔が、どうしても思い出せない。『呪術師に近づいてはいけないよ』『彼らは私たちの敵なのだから』『だからすべて忘れるんだよ』『愚かでいとしい、私の傀儡名前』──そう言ったのは、だれ?

「……っ、」

 思い出そうとすると、頭が締めつけられた。ガンガンと、割れるように痛い。首から上だけ取り外してしまいたい。そう、彼のように──

 ……彼って誰のこと?そんなひと、わたしはしらない。

「……いいよ、無理に思い出さなくていい」

 苦悶の顔で頭を抱える名前を、温かな腕が包み込む。
 忘れてしまったはずの体温、覚えのない感触。それに変わりはないけれど、その力強さに名前は縋った。彼は今の名前が縋れる唯一のひとであり、唯一の救いだった。散々自分をいたぶったはずのそのひとが、今は名前に深い安堵を齎してくれた。

「……優しいんですね。私はあなたの知る《私》ではないのに。……あなたの、敵かもしれないのに」

「名前は名前だよ。何も変わらない。俺がずっと待ってた、名前のままだ」

「そう、ですか。それなら、よかった……」

 彼に肯定されると安心できる。少しも思い出せない、過去の《名前》。それでもこの人が望んでくれるなら、望まれる《私》でありたい。少しでも、《私》に近づきたい。忘れてしまった過去を思い出したいと、初めて強く願った。

「それで?名前はどんな夢を見たの?」

 腕の中で顔を上げると、那由他の空に見下ろされる。美しい、澄み渡る空のいろ。或いは広大な宇宙を閉じ込めた万華鏡。
 ずっと見つめていたくて、でも見つめられているのは落ち着かなくて、名前は彼の胸に顔を埋めた。優しくされるのは──そしてそれを素直に受け入れるのは──得意じゃない。昔から、きっと。

「あれは……あれはどこかの病院でした。どこかの病院にある、私の病室。私の体からは幾つかの管が伸びていて、周りには何かのモニターとか、つまりは私を生かすための機械が動いていました」

「それで?」

「……私は動けなくて、でも人の話し声は聞こえてきました。『もう誰のこともわからない、植物状態なんだ』って、そう言ったのはたぶん医師だったと思います」

「……うん、」

「病室にはもう一人誰かがいました。でも私にはそれが誰かわからなくて……。医師が続けて言うんです。『これはもう今までの名前じゃない。それでも生命維持装置を繋いでおくか?』と。私を生かすか殺すかを、その誰かの手に委ねたんです」

「……それから、どうなったの?」

 彼はとても静かに話を聞いてくれた。纏まりのない、名前の話を。夢の記憶などという現実にはなんの意味も持たない話を。宥めるように名前の背を擦りながら、静かに耳を傾けてくれた。
 名前は小さく息を吸った。

「私は、そのプラグを抜いてほしいと思いました。私が私であるうちに。それが、その人のためだろうとも思いました。……それで、おしまい。続きはわかりません、目が覚めてしまったので」

「そっか。……よかった」

 彼は溜め息をつくように言って、抱き締める手を強めた。
 押し当てられた胸から、心臓の音がする。とくとく、とくとく、規則正しい生命の動き。この人は生きているんだ、と名前は思った。同時に、私はどうなんだろうとも思う。私はちゃんと、生きているんだろうか?それをこの人に確かめてほしい気もするし、それは少し怖いことのようにも思えた。

「俺は……俺はプラグを抜かなくてよかったと思うよ」

 彼の掠れた声が耳に落ちる。落ち着いた、けれどどことなく寂しげな声が。この声すらも私は忘れてしまったのだろうか。名前は思う。こんな悲しい音は、もう二度と忘れたくない。

「……もう助かる見込みはないのに?」

「そんなのわかんないじゃん。そのうち治す手立てが見つかるかもしれないし、何かの拍子に元気になるかもしれない。ううん、例え思い出せなくてもいい。生きていて、くれれば」

 「それだけでいい」と呟く声は痛々しいほどで、名前は返す言葉に困った。困ってしまったから、彼の背中に手を回した。それくらいしかその想いに報いる術を持たなかった。それくらいしかできないのが、ひどく悲しかった。