昨日の抵抗が嘘のように名前は大人しかった。逃げも隠れもしないし、五条を恐れることも怯える様子も見せない。昔と同じ、淡々とした目で見上げてくる。
「あなたは料理もできるのですね」
朝食を並べてやると、意外といった様子で呟かれる。
たかがフレンチトーストくらいで何を言ってるんだか。そう思ったけれど、褒められて悪い気はしない。「当然」と笑って五条悟はソファに座る。
「性格以外は完璧なのが公式設定の僕だからね」
「なるほど……?」
わかったようなわからないような。そんな顔の名前を抱き上げ、膝の上に座らせる。
感じるのは相変わらずの軽さ。これではちゃんと中身が詰まっているんだか心配になってくる。内臓が欠けてたりしやしないか……、硝子に診て貰った後なんだからあり得ない話ではあるけど、少し不安になった。
美味しいものを沢山食べさせてあげなくちゃ。張り切る五条の内心を名前は知らない。その温もりに、彼が安堵を覚えていることだって。
知らないからこそ戸惑う名前に、五条は口角を持ち上げた。──僕の前で隙を見せる方が悪いよ。
「これでは食べられません」
「いいよ、僕が食べさせてあげるから」
「いえ、そんな、病人でもないですし」
「病人でしょ。記憶喪失なんだから」
「それは病気というか……」
「……可愛い恋人のお願いも聞いてくれないの?」
それは魔法の言葉だった。優しい名前は哀れさを前面に出されると途端に怯む。愚かなまでに優しい名前、──そんなんじゃ呪術師なんてやっていけないよ。
でもそれでよかったのかもしれない。五条は笑顔の裏で思う。このままあの世界から完全に切り離してしまえば──、この箱庭でこそ、名前は幸せになれるんじゃないだろうか。それは甘美な幻想で、五条は少女を抱く手に力を籠めた。もしも、もしも名前が拒絶した時は──その時自分はどうするだろう?
「……わかりました。あなたがそれでいいのでしたら」
長い熟考の末。結局折れるのはいつも名前の方だった。昔も、今も。頼めばなんだって受け入れてくれる、そんな名前を腹立たしくも思う。
「五条さん?」どうしましたか、と問う無邪気な唇。薄紅の色、穢れなき色。それはいっそ憎らしいほどで。
「……もうちょっと警戒心持った方がいいよ」
相手が僕でよかったね。大人の僕じゃなかったらどうなってたかわからないよ。そう言っても、名前には通じない。
「子どもの頃のあなたも見てみたくありますね」そんな呑気なことを言って、名前は笑う。……いや、そういう話じゃないんだけど。
噛みついて塞いでしまおうかとまで考えていたが、あまりの屈託のなさに毒気も抜かれてしまった。急ぐこともないか、と五条は肩の力を抜く。
名前は逃げないし、もう二度と逃がさない。だから焦る必要もない。その唇に触れるのだって今はまだその時じゃない。時間はたっぷりある。己に言い聞かせて、後ろから名前の頭に口づけを落とした。
──早く、この頭が俺のことでいっぱいになればいいのに。
「?いま何かしましたか?」
「ううん、なんにも。それよりほら、あーん。口開けてよ」
「は、はい……」
一口大に切って、口許まで運んで食べさせる。名前はそれを咀嚼し、飲み下す。そしてまた切って、運んで、食べさせる。その繰り返し。
ただそれだけなのに、心は満たされる。ほの暗い充足感。小さな口が開くたびに、無理やり押し入る想像をする。……想像するだけなら、自由だ。
「もう食べられません……」
「相変わらず小食だなぁ」
ギブアップだと名前はお腹を擦る。
まっ平らの腹部。五条も掌で触れてみるが、膨らんだ様子は感じられない。でも確かに名前は咀嚼して飲み込んだ。この腹の中に。やがては血となり肉となるのだ。その想像は悪くはないものだった。
「でも美味しかったです」振り仰ぐ名前に「いつでも作ってあげるよ」と返す。でも『だからどこにも行かないで』とは言えなかった。どこにも行かないで、俺以外のことなんか忘れて──ずっとこの腕の中にいて。
希う代わりに、五条悟は笑った。「そろそろ聞きたいことあるんじゃない?」言いながら、心は軋んだ音を立てる。でも聞こえなかったふりをした。
「……私はこれからどうなるのでしょうか?」
──そう問われるのは時間の問題だとわかっていたから。
「……名前はどうしたい?」
彼女は逃げないし、逃がすつもりもない。とはいえ確証はなかった。例え体だけは許されたとしても、心までは縛れない。優しい笑みを心がけながらも、五条の胸には深い翳りが落ちていた。
『逃げない』と約束してはくれたけど、本当のところはどうだろう?女学校で見た、名前の姿を思い出す。認めたくはないが、あの世界に名前は馴染んでいた。一瞬、ほんの一瞬だが、五条ですら本当に名前なのかと疑うほど。普通の少女としての幸福が、そこにはあった。
「私は……」
言葉を探す名前の顔を見下ろす。照明が遮られて彼女の目許にも影が落ちる。透き通った双眸が宵に蝕まれていく。蝕まれ、侵されていく。
けれど幻想は瞬きのうちに掻き消された。五条を見上げる名前の目は、美しいほどに凪いでいた。
「私は、知りたいと思います。忘れてしまった過去を、その理由を。そして叶うならそれをあなたに教えてほしいと、そう思っています」
「……僕でいいの?」
後悔しない?続けて問えば、名前は微笑む。
「しませんよ、私は私の直感を信じていますから」
……その直感はたぶん間違いだよ。だって僕はいい人なんかじゃない。そう思ったけれど、口にはしなかった。
無知で愚かな名前──可哀想だけど、もう絶対に離してなんかやれない。
「……ありがと」
深く強く抱き締めて、その首筋に顔を埋める。瑞々しい肌の感触、息づく体温、柔らかな匂い。名前は「大袈裟ですね」と笑って、五条の頭を撫でた。
「でも学校には少し未練が残ります。どうせなら卒業したかったな、と」
「それなら
「はい、そんなものもあるんですね……。ですがいきなり転入などできるのでしょうか」
「その辺は気にしないで。僕そこの先生やってるから」
撫でる手の心地よさに身を委ねていると、その動きがぴくりと止んだ。
いったいどうしたことか。顔を上げれば、見開かれた目から驚きが伝わってくる。
「なに?そんな驚くこと?」
「いえ、あの、……そうですね、意外でした」
バカ正直に頷いて、それから名前は「では『五条先生』とお呼びしなくては」などと宣う。
「……なにそれ」……いやまぁ、確かに?プレイとしては悪くないけどね。五条の胸中は複雑だった。年甲斐もなく頬を膨らませ、口を尖らせる。
「言ってなかったけど僕ね、あんまり名字で呼ばれるの好きじゃないんだ」
「そう、なんですか?」
「うん、呪術師の家に生まれたやつは大体そう。色々しがらみとかあって嫌な思い出が多いからね。僕も小さい頃は苦労したなぁ〜」
まぁ、嘘なんだけどね。
幼少期から《最強》の名を欲しいままにしてきた五条悟に虐げられた思い出などあるはずもない。しがらみを感じることはあったが、気に入らない掟や決まりなどは全部無視して生きてきた。思うようにならないことなど数えるほどしかない。
そのひとつである名前は「そんな……」と声を震わせる。曇る表情、同情に潤む眼。無知ゆえに彼女はあっさり信じてくれた。
「知らなかったとはいえ申し訳ないです。そんなおつらかったとは思いもせず私ったら……」
「僕もごめんね。名前は全部忘れちゃったんだもん、仕方ないよね」
「いえ、あの……」
にっこり。笑顔で圧をかけると、名前は視線をさ迷わす。言いたいことはわかっているらしい。
手応えはある。だから五条は黙って名前を見つめ続けた。昔から名前はこの目に弱い。どうしてかは知らないが、使えるものは自分の体だって使うつもりだ。
静寂、沈黙。その中で、名前の喉が動く。
「……では《悟さん》とお呼びしても?」
「……恋人同士ってさ、普通なんて呼ぶものなのかな。ねぇ、名前?」
もう一押し。わざとらしく名前を呼んでやると、腕の中で小さく体が跳ねた。
狼狽えていた目が持ち上がり、六眼を見返す。そのせいかいつもより名前の目が蒼ざめて見えた。
名前の双眸に映る六眼の蒼。掠める吐息と同じようにふたつがひとつに溶けてしまえたなら──、そしたらどんなによかったろう。喪失感に怯えることもなかったのだろうか。
名前の小さな唇が、ゆっくりと開かれる。
「……さ、さとる…………くん」
ともすれば吹き消されてしまいそうなほど頼りない声。吐息混じりに囁いて、名前は両の手で顔を覆った。──その指の間から覗く膚の色は、朱。
「ごめんなさい、この辺りで手を打っていただけませんか?どうにも気恥ずかしく……というか、おそれ多いというかなんというか」
「うーん、そこまで言うならしょうがないな」
途端に気をよくして、五条は名前の額にキスをした。
我ながら現金なものだと思う。おまけに性格も悪い。記憶がないのをいいことに嘘に嘘を重ねている。名前がすべてを思い出した時に備えて、刺される覚悟くらいはしておこう。
そんなことを考える五条だが、本当はわかっていた。例え記憶が戻ったとしても、名前が自分の嘘を責めることはないと。きっと彼女は『仕方ないですね』と笑って、受け入れてくれるのだろう。……わかった上で、名前のその優しさにつけ込んでいる。
「こっちこそごめん。嬉しくて、つい調子に乗っちゃった」
名前のせいだ、とは言わない。でも手放すこともできない。どうしようもないけど、どうか許してほしい。そんな思いを込めて、抱き締める。
「後で学校に戻ろうね。帰してやることはできないけど、別れの挨拶くらいはしたいでしょ?」
「……いいんですか?」
「名前の荷物を引き取るついでだよ、ついで」
だから「ありがとうございます」なんて律儀に言わなくてもいいのに。なのに少しも抵抗を見せないから、錯覚してしまいそうになる。嘘が嘘だとわからなくなる。
「……やっぱりどこにも出したくないなぁ」
このまま閉じ込めておきたい。
そんな誘惑を抑えるために、名前の指を絡めとった。触れて、握って、握り締めて。彼女は確かにここにいるのだと、その実感を噛み締めて、束の間目を閉じた。恋でも愛でもない、得体の知れない