夏油先輩と家族になる
かつて想像しただろうか。この私に子どもを育てる日が来るなどということを。
「待ってください菜々子さん……っ、ぼうし、帽子をお忘れです!」
半ば夢のようだ。そんなことを思いながら、名前は現実味のない両足で駆け、笑う少女を捕まえる。せっかく綺麗に結えたのに、菜々子の髪はすっかり乱れてしまった。
「もう、菜々子さんったら」手櫛で軽く整えてやってから、帽子を被せてやる。色違いを被る双子の妹とはまるで正反対の性格だ。菜々子の方が活発で、片時も目が離せない。
「名前さまぁ、早く行こうよぉ」
「そうですね。でも美々子さんたちが追いついてからにしましょうね」
「美々子ぉ〜!夏油さまぁ〜!早く〜!!」
菜々子は振り返り、のんびり歩く二人に大きく手を振る。彼女はすっかり目の前のアスレチックに興味津々だ。
対して、美々子の方は消極的である。ぬいぐるみを抱き締めて、夏油の手を握ったまま。辺りの様子を窺っている。主に、他の人間を。
公園には多くの一般人がいた。そしてそれは異なる世界を生きる人々だった。呪霊を見ることも感じ取ることもない、非呪術師たち。それは美々子にとって恐怖の対象でもあった。
「美々子ったら心配性なんだから」菜々子は大人びた顔で腕組みをする。「夏油さまと名前さまがいるんだもん」何も怖いことはない、と奈々子は笑う。なんとも責任重大だ。
名前は夏油を見た。彼は肩を竦めてみせた。先輩で、特級呪術師で、自分よりずっと賢く、強く、……でも時おりひどく寂しげに笑うひと。名前もまた微笑みでもって彼に応えた。彼がいれば怖いことなど何もない。それは名前も感じていることだった。
「それじゃあ菜々子は私と一緒に行こうか」
「えー……、美々子と名前さまは?」
「私だけでは不満かい?」
「ううん!それじゃあ競争ね、どっちが先にあの池を飛び越えられるか勝負だよ!」
勢いよく駆け出していく菜々子と、それを追う夏油。二人を見送ってから、名前は美々子の顔を覗き込む。
「美々子さんは何をして遊びたいですか?」
「……わかんない」
美々子は目を伏せる。「こんなの、はじめてだから」何をしたいのか。それすらもわからないのだ、と少女は途方に暮れる。山間の村で虐げられてきた少女にとって、眩しすぎる世界はいっそ毒ですらあった。
名前は「そうですか」と答えて、美々子の背中を抱いた。
「それなら何をしたいか一緒に探してみましょうか」
──彼女は私だ。ほんの少し前、高専に来たばかりの頃の私と同じ。そしてその手を引いてくれたのは灰原くんであり、七海くんであり、今ではそこに夏油先輩も加わった。彼らがいたから今の私があるのだ。
だから、と名前は思う。だから私も、私にとっての彼らのようになりたい。少女の手を引ける、人間に。
「名前さまは行きたいところ、ないの?」
「そうですね……、実は私もこういったところははじめてで、よくわからないのです」
「美々子とおんなじ……?」
「ええ、美々子さんと同じ。だから一緒に色々なものを見てみましょう」
「……うん、」
美々子は小さく頷き、名前の手を握った。頼りない指先で、けれど確かに。だから名前もその手をしっかりと握り返した。このいたいけな少女たちを守りたかった。
彼女たちと出会ったのは9月も終わりのことだった。『今後の勉強に』と夏油に連れられた向かった小さな村で、彼女たちは生まれ育った。
彼女たちには名前たちと同じ力が宿っていた。生まれながらの術師。きっと彼女たちの父や母、そしてその両親もそうだったのだろう。かつては尊敬を集め、人々に助言を与えることもあったかもしれない。
けれど時代は変わり、村人は未知なるその力を畏怖と共に忌避するようになっていった。少女たちを恐れるあまりあらゆる災難を彼女たちの責任とした。そうすることで心の安寧を図り、村という小さな社会の結束力を強めていった。
そうでなければ生きていけなかった。彼らが悪いのではない。そういう流れだったのだ。名前は大きな罪を犯した彼らを哀れだと思う。人を呪ってしまった彼らはもう、その身に穢れを宿してしまった。呪いは廻る。廻る呪いはやがて、彼らを食らいつくしてしまうだろう。それもまたひとつの流れだった。
「名前さま、ぜったい、ぜったい、離さないでね」
「ええ、約束します。絶対にこの手は離しませんから」
秋の日の和やかな日差しが水面を照らす。
池には幾つかの板が浮かべてあって、その上を飛び渡っていかなければ対岸へは辿り着けないようになっていた。子どもの体ではなかなか難しい遊具だ。しかし菜々子は軽やかな身のこなしで見事渡りきり、さらに先へと進んでしまったらしい。夏油の姿も見えない。
けれど彼が着いているなら安心だ、と名前は慎重に足を動かす美々子を見守った。私が今なすべきこと。それは彼女の手を引いて、望む方向へ導いてやることだ。
美々子は自信なさげであったが、元来器用な質である。時間をかければ大概のことはやり遂げてしまう。そんな彼女であったから、驚異的な集中力を発揮すれば不安定な足場をも乗り越えられる。
「やった……!」
水に落ちる子どもが多くいるなか、美々子は一度も体を濡らすことなく対岸まで渡りきった。その、達成感に満ち足りた顔。輝く目は愛らしく、美しい。
「お見事です」その滑らかな頬を撫で、名前は美々子を抱き上げる。「美々子さんには才能がありますよ」それは本心からの言葉であったのだが、当の本人には不思議そうな顔をされてしまった。
「こんなの簡単だよ、ゆっくりやれば誰だって」
「それが案外むずかしいのですよ」
「そう……?」
そうかな、と少女は未だ半信半疑。でも名前があまりに真面目に肯定するものだから、最後には彼女も「ありがとう」とはにかんでくれた。
……よかった。彼女にはもっと自分を認めてあげてほしい。自信を持つことが必要なのではないか、と名前は常々思っていた。
「あーっ!美々子いたー!」
さて次はどこへ向かおうか。二人で悩んでいると、聞き慣れた声が響いた。先を行ったはずの菜々子である。彼女は名前たちに駆け寄ると、美々子の手を握る。
「やっぱり美々子がいないと落ち着かないから迎えにきちゃった」
「菜々子……」
「それにたまには二人きりにさせてあげないと……、だから、ね?一緒に行こ」
「……うん、そうだね」
美々子は意味深な目で名前を見上げ、菜々子は思わせぶりに笑う。いったいどうしたというのだろう?双子にしかできない意思の疎通。
ふたりは心得たとばかりの表情を浮かべて、「私たちは子ども専用のとこで遊んで来るね」と手を振った。あとに残されたのは名前と夏油。保護者であるはずなのに、公園の真ん中で放置されてしまった。
「置いてかれてしまったね」
苦笑する夏油に、名前も「そうですね」と笑う。
大人も遊べるアスレチックとはいえ、こういうものにはとんと縁がない名前だ。彼の方も同じだろう。名前には夏油がブランコを漕いでいる姿すら想像できなかった。
二人はどちらからともなく歩き出し、子どもたちの様子が見えるベンチに腰かけた。
風は殆ど吹いていなかった。二人の周りには不思議な静けさがあった。時おり梢のかそけき囀りが聞こえてくる以外は、まったく静かなものだった。
名前は肩に温もりを感じながら、いつかの夜に彼が言った言葉を思い出していた。
『卒業したら、四人で暮らそうか』
そう言った声の穏やかさを、静かな眼差しを、……翳りのない、微笑を。思い出しながら、名前は彼の手に自身のそれを重ねた。
「私たちは家族になれるでしょうか」
囁きに、彼はあの夜と同じ微笑みを浮かべる。
「なれるさ、もちろん」
私たちなら、と夏油は言った。私たちなら大丈夫だ、と。
その響きの温かさに名前は頬を緩めた。私たち──彼は、そう言ってくれた。ひとつの個を意味する言葉。名前はもうただの名前ではなく、彼らに属する一部になったのだ。そしてそれはとても幸福なことのように思われた。
「あなたはよい父親になれそうです」
「そうかな?見よう見まねでしかないのだけれど」
「既に貫禄がありますよ。実際、誰にも不審がられていないじゃないですか」
「でもそれを言うなら名前の方がいい母親になれそうだよ」
……本当に?とても信じられない。
「母親、ですか?」名前は目を瞬かせる。思い出そうとしても母親の面影はおぼろ。だから双子への接し方は夏油以上に手探りであった。
けれど彼は何を勘違いしたのか、「すまない、不快な思いにさせたかな」と眉尻を下げる。名前はただ、あまりに意外だったから驚いただけなのに。
「いえ、不快などではありませんが……」しかし、母親か。自分が誰かの親になるなど今まで考えもしなかった。子を持つことも、永遠を誓ってくれる人が現れることも。想像してこなかっただけに、現実感に乏しい。
でも、それは決して嫌な感覚ではなかった。
「ならば名字で呼んでいては少しおかしな感じがしますね。傑さんとお呼びしなくては」
名前がそう言うと、彼は僅かに目を見張った。小さな驚きを見せ、しかしそれはすぐに微笑の形へと変わっていく。
「……もう一度、ちゃんと呼んでもらえるかい?」
「傑さん?」
「もう一度、」
「傑さん、……どうでしょうか?何か変ですか?」
「いや、そんなことはない。すごくいいと思うよ」
名前、と彼は囁く。穏やかに、愛情深く。それは名前に心地よさを齎してくれるものだった。
「よかったです、傑さん」まだ違和感は残るが、続けていくうちに慣れていくのだろう。馴染み、日常に溶け、それが当たり前となる。いつの間にか彼が名前を名前で呼ぶようになったのと同じで。名前もまた、自然と彼を名前で呼ぶようになるのだろう。
そしてその未来は、名前にとってとても輝かしいものだった。