先輩T


 家入硝子と名乗った医師は、一通りの検査を終えると「うん」とひとつ頷いた。

「どこも異常はないね。いたって健康、心配はいらないよ」

「そっか、よかったね」

「ありがとうございます、家入先生。……悟くんも」

 家入にだけ礼を言うと、不服そうな顔が視界に入って、名前は自分の肩を抱くその人の名前も呼ぶ。
 五条悟。名前より歳上の、とても美しい人は、存外に子どもっぽいところがあるらしい。彼は名前が呼び掛けると、途端に相好を崩した。

「いいんだよ、かわいい名前のためなんだから」

「うわっ」

 顔を歪めたのは家入だった。彼女は形のいい唇を引き攣らせ、「キッショ」と吐き捨てる。
 大人の女性らしい魅力に溢れた彼女から飛び出たとは到底信じがたい罵詈雑言。人は見かけによらないとは本当だ、と名前は思う。五条しかり、家入しかり。世の中、知らないことずくめである。

「家入先生は昨日も私の治療を行ってくださったんですよね。重ね重ねすみません、お手数おかけしました」

「名前が謝ることじゃない。全部このバカのせいなんだから」

 「それに、」と家入は目を細める。どこか懐かしそうに、寂しそうに。名前を見つめるその目は、名前だけを映してはいなかった。彼女の記憶の中の、名前の知らない《名前》を見つめていた。

「お前は私のかわいい後輩でもあるんだ。《先生》なんて呼ばれるとゾワゾワする。昔みたいに《硝子》でいいよ」

「硝子……さん?」

「うん。おかえり、名前」

 頭を撫でられる。今日初めて言葉を交わしたはずの女性に。人よりも冷えた体温を持つその人に。
 何も覚えていないはずの名前は、それでも彼女の手に心地よさを覚えた。硝子さん──そう紡ぐ唇も、思いの外滑らかだった。きっと名前の知らない《名前》も彼女のことをそう呼んでいたのだろう。
 「硝子さん、」硝子さん。呟くたびに、馴染んでいく。呟くたびに、応えてくれる。「うん、私はここにいるよ」その滲むような微笑に、気づけば名前は手を伸ばしていた。

「どうした?とうとう五条に嫌気が差したか?」

 硝子は笑って、優しく抱き返してくれた。
 鼻孔を擽るのは、病院特有の薬品の匂い。それは決して好ましいものではない。そのはずなのに、不思議と安心感を抱かせてくれる。白衣に顔を埋め、名前は思う。よかった、と。
 何も思い出せないけれど、知らないはずの人を慕わしく思えるなんて、これはきっと私が彼らの知る《名前》である何よりの証ではないだろうか?こんなにも優しい人たちを裏切ることがなくてよかったと、心から安堵した。

 ──けれどたった一人だけ、この状況を好ましく思わない者がいた。

「なに言ってんのさ、硝子。んなことあるわけないし?ねぇちょっと名前、僕の時と反応違わない?泣いちゃうよ、僕。いいの?だいの大人がみっともなく泣いちゃうよ?」

「どんな脅しだよ」

 硝子は呆れているが、五条の顔は真剣そのもの。覗き込むその目と、裏腹に冗談じみた物言い。その差がおかしくて、名前は思わず笑ってしまった。

「こんなことで泣かないでください。美人が台無しですよ」

 硝子から身を離し、今度は彼の背中を抱く。軽く、宥めるように。自然とそんな行動をとる自分にも違和感はない。そうするのが当然だという思いで、彼を見上げた。
 「この後校内を案内してくださるんですよね?」実際に通うのはまだ先のことになるが、診察のついでに呪術高専を紹介してくれると言ったのは五条の方だ。まだ外観しか見ていないが、趣ある建築に内心浮き足立っている。
 だから、と袖を引くも、無反応。「……悟くん?」聞こえなかっただろうか?訝しみつつ、名前を呼ぶ。

「……今の聞き間違い?」

「……?なんのことですか?」

「だから、美人って」

「美人……ですよね?世間一般的にも。あ、男性に使う言葉ではないという意味でしょうか?」

「そうじゃなくて、……個人的には?名前の目から見ても僕ってカッコいい?」

 この会話のどこに重要性を見出だせばいいのか名前には皆目見当もつかない。が、しかし、五条悟にとってはひどく重要な意味を持つようだ。掴まれた肩からもそれは十分に伝わってくる。
 名前は首を傾げながらも、「もちろん」と肯定の意を示した。好きな曲はショパンの『雨だれ』だし、好きな絵画はミレーの『オフィーリア』だ。美的感覚は人並みだと自負している。客観的にも主観的にも、五条悟は盛期ルネサンスの絵画に似た美しさを持つ男だった。
 名前が言ったのはただそれだけのこと。だのに彼は沈黙してしまった。口許は手で隠され、俯いた目の奥の色は窺い知ることもできない。
 ……おかしなことを言ってしまっただろうか?
 不安に駆られる名前のその後ろ、硝子は『やれやれ』と溜め息をひとつ。彼女は多くのことを見通している。名前より、五条より、よほど多くのことを。

「生娘みたいに照れるなよ。自己評価エベレスト男が、今さら」

「ちょっと硝子は黙ってて。いま噛み締めてるんだから」

「心底気持ち悪いな、今のお前」

「だってあの名前がだよ?こんな真っ当に褒めてくれるなんてさぁ……。やっぱ僕ってカッコいいよね?国宝級イケメン殿堂入りだよね?」

「は、はぁ……」

「肯定しなくていいよ、名前。認めると余計面倒なことになる。これ以上五条バカを付け上がらせるな」

 硝子はそう言うけれど、名前はなんだか不憫な気持ちになってしまう。意外と褒められなれていないのだろうか。そう思うと、無下にはできない。自己肯定感を高めるのは大事なことだと何かの本で読んだこともある。
 だから名前は少し迷った末に、優美な輪郭を縁取る髪に手を添え、微笑んだ。

「ご安心ください。あなたはとても素敵なひとです。私が保証します」

「名前……っ!」

 ひしっと抱き締められ、名前は「大袈裟ですね」と笑みこぼす。
 本当に、不思議なひと。静けさが似合うかと思えば、今の彼は無邪気な子どもか飼い犬のようでもある。例えるならそう、グレイハウンドのような。愛情深いその手に抱き締められると、ホッとする。……「忠告はしたからな」と呆れる硝子には大変申し訳ないのだが。

「そろそろ健康体の人間は帰ってくれ。私も忙しいんだ」

「すみません、お騒がせしました」

「あぁ、名前はいいんだよ。いつでもおいで」

 手を振る硝子に別れを告げ、医務室を出る。
 穏やかな陽の差す外界。空気すらどこか澄んで見えるのは山の中という立地のせいだろうか。清涼な風に一瞬身震いすると、すぐに「寒い?」と心配された。そこまで柔な身体作りはしていないのだが、気にかけてもらえるのは素直に嬉しい。

「大丈夫ですよ」

「でも心配だな、名前は病人なんだし。そうだ、ずっと僕が抱き締めててあげようか?」

「それはちょっと……さすがに恥ずかしいので」

「そこは慣れだよ、慣れ」

 気づけばいつの間にか手を握られている。心配してくれているのは本当なのだろう。冗談めかした物言いが多いけれど、優しい人なのだと思う。

 ──そんな彼のために、私ができることはなんだろう?

 グラウンドの横を通りかかると、名前と同じ年頃の少年たちがいるのが見えた。
 向こうも名前たちに気づいたらしい。「悟!」と手を振るのは──あれは、パンダでいいのだろうか。

「なんで教師が重役出勤してきてんだよ」

「高菜!」

「あはは……、五条先生も忙しいんだよ、きっと」

 駆け寄ってきた子どもたちは三者三様の表情。少女は怒っているし、少年のひとりは何を考えているのかわからない。人の良さそうな黒髪の少年だけが五条を庇う言葉を紡いだ。
 そこで名前ははたと気づく。
 ──そういえば今日は水曜日。平日だ。当然、学校は開いている。にも関わらず、教師であるという五条悟は今までずっと名前の側にいて──

「あ、あのっ、すみません!悟くん……五条先生は私の検査に付き合ってくださっていただけで、決してサボりなどではないので……っ」

「あ?そーいや誰だよ、オマエ」

 せめて弁明を、と思えば、少女に睨まれる。美人は怒ると怖い。なかなか迫力のある眼差しだ。
 たじろぐ名前の肩に手をやり、張本人の五条は「まぁまぁ、落ち着いてよ、真希」と呑気に笑う。どうやら少女は真希という名前らしい。自分の言葉で余計彼女の眉間にシワが増えたことなど、五条は気にも留めていなかった。

「彼女は名前。今度から高専に通うことになったから仲良くしてあげて。時期が時期だからたぶん来年度の新入生扱いになると思うけど」

「なるほど、ワケありってことだな」

 パンダは物分かりよく頷く。誰も何も突っ込まないので、名前もパンダが流暢に日本語を操っていることについては触れないことにした。たぶん呪術師の世界では普通のことなのだ、きっと。
 そんな彼の隣で、真希は舌を打つ。

「そんなのばっかじゃねーか」

 彼女の視線の先で、五条を庇っていた少年が乾いた笑いを洩らして頭を掻いている。彼も何らかの事情持ちらしい。名前は勝手に親近感を抱く。「よろしくね」と手を差し出してくれたところもとても好ましい。
 握手に応え、名前もまた「よろしくお願いします」と頭を下げた。

「つっても憂太が来たのも11月だろ?普通の学校じゃねーんだから4月まで待つ必要あるか?」

「そうだな、元が一般出身なら早い方がいいだろ」

「しゃけしゃけ」

「それには海よりも深く山よりも高い事情があるんだよ」

「もったいつけるな」

 のんびりと自己紹介を済ませる名前と憂太の後ろ、真希たちから尋問を受けながらも五条はへらりと笑う。

「だってほら、僕の受け持ちって1年でしょ?いま名前を1年に編入させちゃったらあと3ヶ月しか一緒にいられないじゃない?」

「はぁ?」

「やっぱり恋人とはできるだけ長く一緒にいたいよね」

 そう宣う五条の前で、彼の生徒たちは固まった。